「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞! 中山史花『美しい夜』(単行本)発売記念 大ボリューム試し読み【8/10】

文芸・カルチャー

公開日:2024/5/21

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞!
新鋭・中山史花さんによる、みずみずしい感性で描かれた物語『美しい夜』を大ボリュームで公開いたします。
「人が怖い」独りぼっちの少年、晴野はるやと「欲望が怖い」少女、美夜子みやこが、夜に出会う物語。
「引きこもり」「不登校」「ネグレクト」「虐待」など、重いテーマを扱いながらも、
美しい文章で紡がれる物語は不思議と重さを感じさせることはなく、ただ胸を引き絞られるような切ない痛みと、甘い優しさをもって進んでいきます。
出会いによって、夜に閉じ込められた二人が次第に光に向かっていく様を、ぜひご覧ください。

advertisement

中山史花『美しい夜』試し読み【8/10】

 結局昨日から着っぱなしのシャツから、乾いた汗のにおいがする。
 昨日担任が来たのは、まだ日が落ちる前だった。日中は学校があるだろうから、今日も来るのだとしたら同じくらいの頃合いなのだろうか。鍵をかけて閉じこもっていても、昨日のように鍵を開けられてしまったらなすすべがなかった。チェーンやドアロックのあるアパートであればよかったかもしれないけれど、この物件にはない。セキュリティが強固なほど賃料は上がるし、この部屋の家賃を払っている母の再婚相手が、ぼくが不自由なく引きこもるためにそこまでお金をかける義理もなかった。
 外へ逃げたほうがいいのかとも考えて、けれど外に出てどこに行けばいいかもわからない。まだあかるいから、きっと人通りも多いだろう。外で人と遭遇してしまっても、困る。なにひとつ行動することはできないで、ぼくはふたたびインターホンが鳴る未来を、したくもないのに何度も想像してしまった。昨日聞いたその音が頭の中でくり返し響いて、そのたびに肩が縮こまる。そのうちに記憶の中の音と現実の音の区別がつかなくなって、だから、しばらく、いま本当に鳴っているインターホンに気づかなかった。
「鹿野、いるかー? 田代だけどー」
 声がして、意識が戻ってくる。
 追いつかれる。
 ふらつきながらベッドから下り、力が抜けて、その場に座りこんだ。息をひそめて、担任が、なにもなさず、諦めて帰ってくれるとても低い可能性に期待する。期待とは裏腹に、インターホンは幾度も鳴らされ、担任の声がドアの向こうで、鹿野、とくり返した。
 ずっとなにもせずひとりで引きこもっていられるはずがないことはわかっている。だけど、どうしても、現状をどうにかできる気がしないのだ。
「なにか悩んでいることがあるなら、聞かせてくれないか?」
 両の手のひらで、左右の耳をきつく押さえる。
「先生、おまえと話したいんだ」
 ぼくは人と、いったいなんの話をすればいいのかわからない。話せることなんてなくて、そもそもいまのぼくは、人に向かって意味のある単語ひとつとりだすこともまともにできない。
「鹿野ー? おーい。聞こえてるかー?」
 声につづいてドアをたたく音が響き、全身がますますこわばった。ベッドのサイドフレームに背中が触れる。ひざを三角に折って、お腹で卵でもあたためるようなかつこうでじっとうずくまった。カーテンの隙間から漏れ入る夕暮れの赤い光までが身体をつんざくようで、顔を伏せ、もっと強く耳をふさぐ。でも、入ってくる。
「もしいま鹿野になにかあったら──」
 外からぼくに呼びかけながら、担任は、ぼくではないだれかと話してもいた。「後悔すると思うんですよ」「だから、お願いしますよ」──今日も、大家らしき人と鍵を開けようとしているんだろうか。
「あなただって管理してる部屋で死人が出たら嫌でしょう」
 大家とおぼしき人、がなんと答えたかまでは聞きとれない。
 どこにもない逃げ場所をさがして、床に細く伸びた夕日を目で追った。静止したカーテンの隙間から注がれる光は、窓の向こうから届けられている。
 ──窓の向こう。
 ぼくは、うまく動かせない身体を引きり、腕を伸ばしてすがるようにカーテンをひらいた。またたくまに西日のかがやきに照らされて、目がくらむ。震える指で鍵に触れ、窓を開けると日中の日射しにあたためられた空気が全身に触れた。
 炎のようなだいだいと、深い海のような紺のまざった色が空にはためいている。ベランダは砂っぽくて、狭く、ひとりで立つにしてもやや窮屈そうに見えた。手も、足も震える、でも迷っている時間がない。
 ぼくは剥きだしの足をベランダのコンクリートへ乗せ、身体を窓の外へすべらせた。コンクリートの冷たくもあたたかくもない温度が足の裏に伝わる。外からカーテンを引き、慎重に窓を閉めた。
 部屋にはたぶん、まもなく押し入られてしまう。窓の鍵を窓の外から閉めることはできないので、ここにいると気づかれてしまったらなにも意味がなかった。これで隠れられているんだろうか。わからない、祈りながら、寄りかかるようにベランダのさくを握る。
 目が、勝手に見ひらかれた。
 二階の部屋の、ベランダの下。南北に延びているアスファルトを、夕日を浴びながら人がひとり歩いている。
 偶然に視線を上げた人の、唇が動いた。
(かのくん?)
 彼女が、そう言った気がした。
 ぼくは柵から手を離し、うしろによろめいた。窓ガラスに背中をぶつける。人。なんで。
 須藤美夜子?
 高校が同じで、先日夜に出くわしたことを思えば、そう遠くないところに住んでいてもおかしくはなかった。おかしくはない、けど、ここが通学路だというのか。前後を敵に囲まれたような気持ちになって、柵から離れると目に見える光景がぶれた。須藤美夜子の、首から上だけがぎりぎり視界に残る。
 建物の下にいる彼女は、なにか耳を澄ませるみたいに顔を傾けた。かと思えばその姿はこつぜんとどこかに消える。走りだした、ような軽快な足音が少しのあいだうっすらと聞こえ、直後、部屋のドアがひらかれた鈍く大きな音がした。
「鹿野!」
 玄関ドアを介さなくなった大声が、薄い窓ガラス越しに響いた。田代さん、もう少し声を、と遠慮がちな大家らしき人の声がつづく。みるみる充満する人の気配に、喉が締めつけられた。外に広がる夕暮れが少しずつ、紺を多く含みだす。
「鹿野。いないのか?」
 胸をきむしりたくなるような不安が全身をざわざわとうのを、全部必死で閉じこめるみたいに、膝を抱く。
「先生?」
 担任の声とも大家の声とも違う、木琴のようななめらかな声が、読みさしの本に挟むしおりひものように挿しこまれた。
「須藤?」
「すみません、大きな声がしたので。どうしたんですか?」
 彼女とぼくはクラスメイトであるらしいという、先日知ったばかりのことを思いだす。ガラスを一枚隔てていることに加えて、玄関先から話しかけているのか、なめらかな声は担任の声よりかなり遠い。なのに、聴覚が拾ってしまう。
「いや、えっとな」
「鹿野くんに会いに来たんですか?」
「なんで知ってる?」
 虚をかれたような担任とは対照的に、須藤美夜子は落ち着いた調子で答えた。
「わたし、鹿野くんと友達になったんですよ」
「友達?」
「はい。あの、わたしがなにか伝えておきましょうか?」
「待て、待て。友達になったって? 鹿野は、その、入学式のあとすぐ、学校に来なくなっただろ? 友達になったって……」
 担任はくぐもった声で、つづきを言いよどんだ。
「塾の帰りに、たまたま会ったんです。それで」
 あかるい声が先まわりするように答える。ぼくが彼女と会ったのはとっくに日付も変わった深夜だ、高校生の塾終わりがそんなに遅いはずがない。やりとりに耳を傾けながら、ぼくの心臓はあちこちへ飛び跳ねようとするスーパーボールのようにせわしなく動いた。
「先生、鹿野くんは大声が苦手なんです」
「大声?」
「あまり大きな声で話しかけられると、びっくりしてしまうんです」
「そ、そうなのか」
 担任は、大きかった声を少し窄め、もごもごとトーンを落とした。須藤美夜子と担任はそのあともなにか話しているようだったけれど、声の音量が下がったことで、引き潮のように会話は遠ざかっていった。やがて声は完全に途絶え、ドアの閉められる音がして、人の気配そのものがなくなったのをおぼろげに感じた。
 息をするのが下手になったまま、震える足に力を入れる。窓から背中を離して、部屋の中を覗き見た。だれもいない。
 自分が住んでいる部屋のはずなのに、他人に扉を開閉され、窓の外から室内を覗きこんでいるなんておかしいな、とちように近い気持ちで思う。ガラスに触れると窓がするりと動いた。カーテンを挟んで、少し隙間ができていたらしいことにいまさら気がつく。だから窓を隔てた会話さえ聞きとってしまっていたのかもしれない。担任に気づかれなくてよかった、と胸を撫で下ろしかけ、でも、そうじゃないと思い直す。
 額が汗ばんでいた。シャツの袖で拭って、ベランダの下をふり返る。
「あ……」
 担任も大家もおらず、制服を着た人がひとり、歩いていた。日はかげって、薄いあいの中に小さい影が揺れている。彼女はさっき顔を上げたのと同じ場所で、忘れものを置いてきていないかたしかめるみたいに、ふいにこちらをふり向いた。
 思いがけず、目が、合ってしまう。
 ふり向いた唇が、町を染めている藍に近い色で動いた。そして閉ざされる。
(ごめんね)
 と、言われた気がした。
 身体も視線も動かせないで、その場に立ちつくす。足を止めた彼女のほうも、目をらさずにこちらを見上げていた。視界が夜の入り口の色に塗られる。震える指先で、ベランダの柵にまた触れた。
 担任はいなくなった。また来るのかもしれないけれど、いまはもういない。かわりに夕暮れと、制服につつまれた細い身体がそこにある。
「──た」
 声のだしかたを忘れたみたいな、掠れた音が出た。じっさい、忘れているのだ。きっと、もうずっと。でも。
 彼女がもし、ぼくを、
「──た、助けて、くれたの」
 なら、なぜ?
 ごめんね、と言った気がする唇のまんなかが、空気をとりこむようにひらいた。どうして、ぼくに謝るんだろう。藍色の中で、彼女はくしゃっと顔をゆがめる。
「ごめん、聞きとれなかった」
 悔しい、みたいな顔をして、彼女の身体が前のめりになった。でも、そのこちらへ歩み寄りかけた足ははたと立ち止まり、もとの場所、よりも一歩うしろに下がって、また止まる。
「もう一度、きかせて」
 きかせて、と言いながら、彼女の鼓膜は身体ごと、さっきよりほんの少し離れた。頭がうまく働かず、なんと言われたのか言葉をちゃんと理解するのに少し時間がかかる。
「助けて、くれたの」
 自分から彼女に近づくことも声を張ることも難しく、どうにか同じ言葉をくり返した喉の奥は、いつまでも雨の降らない砂漠のように乾いていた。こぼれた声も、のたくって干からびたみみずのようで、発音があやしい。それでも今度は言葉が届いたらしく、彼女は丸い目でこちらを見上げ、魚の小骨をぐっと飲むようなだらりとした時間のあと、言葉をつづけた。
「鹿野くんは、助かったの?」
 彼女は笑って、それならよかった、と言った。夕方はもうほとんど夜に近づいて、彼女のいる場所だけが、夜の、藍や紺の色が足りなくなったみたいにほのあかるかった。
「勝手に友達ってことにしちゃったけれど」
 ふいに、手足が熱くなる。うつむいて、シャツの袖を少しだけめくった。火の痕が一瞬あらわれて、視界をよぎる。それはもう燃えてはいなかった。
「鹿野くん?」
 シャツを戻し、目線を戻すと、じっとぼくを見たままの目があった。踏み入ることを押しとどめるようなつま先で、その場に立っている。ぼくを見ている他人の目。おそろしくて身体が揺れるのに、震える声で、大丈夫、と返した。ぐらぐらとなさけなく、頼りない声になる。答えた直後、それでも人と会話をしている、と思って驚いた。
「田代先生はしばらく来ないと思うけど、もし、また来ちゃったらごめんね」
 あかるい彼女の身体に、夜の色が補充されていく。
「じゃあ、またね」
 胸の前で小さく手をふって、彼女は背を向けた。駆けだしはせず、遅くはないけれど、特別速くもない速度で歩いていく。その二本の足で無理なく進めるおだやかな歩幅で、彼女はゆっくり遠のいていった。
 彼女の姿が見えなくなると、身体の震えは少しずつおさまっていった。汗が引いてくると寒気がして、身ぶるいをひとつする。もう一度シャツをめくると、街灯なのか月なのか星なのか、どこからのものなのか判然としないぼやけた光が射して、手首の一帯を青白く照らしだした。

★つづき【9/10】はこちら

作品紹介

美しい夜
著者 中山 史花
発売日:2024年05月21日

「わたし、悪い人間になりたいの」純粋すぎる二人の、胸を打つ青春純愛小説
高校生の晴野はるやは部屋を出られない。胸がどきどきして苦しくなるからだ。
そのせいで学校にも行けず、ひとけのない夜にだけ外に出る生活。
奔放な母親は再婚した義父と暮らしており、連絡は途絶えがちになっている。
母親の記憶は、見知らぬ男からの暴力と二重写しだった。
ある夜、コンビニからの帰り、晴野は同級生の美夜子みやこと出会う。
「悪い人間になりたい」という彼女は、そのわりに、飲酒も喫煙も、
万引きも暴力も「犯罪だから駄目だよ」と言う。
そして晴野は美夜子と、まるで子供の遊びのような、無邪気な夜の時
間を重ねていく。しかし夏のある日、彼は彼女の「秘密」に気づき……。

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞
優しく美しい言葉で紡がれる、胸を打つ青春純愛小説。 

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322310000524/
amazonページはこちら
電子書籍ストアBOOK☆WALKERページはこちら