“名酒場の達人・太田和彦”の猛烈に旅へ出たい気持ちにさせる1冊

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/17

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『ニッポンぶらり旅 熊本の桜納豆は下品でうまい』(太田和彦/集英社)

 最近、都内のとある老舗居酒屋を取材することになり、店舗にお邪魔した。店の方にいろいろ話を聞いていたとき、ある個人の名前が挙がり、以前に取り上げてもらったと嬉しそうに話してくれたことが印象に残っている。その個人とは、太田和彦氏その人だ。

 氏は「太田和彦の日本百名居酒屋」という番組で、この老舗居酒屋を紹介していた。本業はグラフィックデザイナーだが、日本各地の居酒屋を訪ね歩くことでも有名である。そしてその一人旅の足跡を記した『ニッポンぶらり旅 熊本の桜納豆は下品でうまい』(太田和彦/集英社)は、毎日新聞出版発行『サンデー毎日」に連載された酒場紀行をまとめたもので、その文庫版第3弾。筆者が大阪から米子までを巡り、行く先々の名所や小径を心の赴くままに散策していく。

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 名所見聞は細かな情報も盛り込みつつ、地元の人たちとの触れ合いを時に軽妙に、時に真摯に語っていく。大阪では心斎橋の銭湯でのんびりラドン湯に浸かり、伊勢では伊勢神宮に参拝して清浄な気を全身に浴びる。仙台では東日本大震災のこともあり、史跡を探訪したり旧知との再会を喜んだりする太田氏の言動には、どこか神妙な思いが感じられた。

 そして本書最大の見所というべきは、やはり「うまいもの紀行」だろう。散策した先々で美味しそうな店を見繕ったり、馴染みの店を訪ねたりする。タイトルにもなっている「熊本の桜納豆」は熊本城下の居酒屋での一品。その名の通り納豆と馬刺しを合わせたもので、一緒に混ぜて食するという。下品というのは一緒にかき混ぜた見た目なのだろうが、妙に納得である。このように、伊勢では伊勢うどんを堪能し、松江で宍道湖しじみの味噌汁を味わう。店の主人たちとの飾らないやりとりが、その情景をさらに温かみのあるものとして想起させてくれる。

 こうして日本全国を漫遊している著者であるから、当然だが一度ならず訪れた店は多い。本書でもそういう店がたびたび出てくるが、やはり太田氏のことを覚えていて、迎えてくれる。これは相当に嬉しいことだと思う。私自身、行きつけの店で「どうも、いらっしゃい」と親しげに声をかけられたら、嬉しいのもそうだが、どこか「帰ってきた」ような感覚になる。きっと氏も、同じような思いを持っているのではなかろうか。そういう店が全国に存在するのだから、旅をすることに張り合いも出るに違いない。

 今、猛烈に旅へ出たい──これが本書を読了しての気分である。史跡名所を評したり、旬の食材に舌鼓を打ったりするくだりも魅力だが、それ以上にこの紀行からは血の通った、人との繋がりが感じられるのだ。きっとこれこそが旅の醍醐味であり、著者が伝えたいことなのではないかと思える。だから旅に出て、馴染みの場所を作りたい。相当な時間がかかるだろうが、きっとその価値はあるはずだ。行きたい場所、帰りたい場所があるというだけで、人は頑張れるものなのだから。

文=木谷誠(Office Ti+)

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