こんなにも日本は世界から愛されていた! 涙せずにはいられない日本外交の歴史秘話

社会

公開日:2016/3/16


『日本人が知らない 世界中から愛される日本』(井沢元彦/宝島社)

 米国調査機関ピュー・リサーチ・センターが実施した、アジア11カ国を対象にした国別好感度調査では、日本を「好意的」と答えた人が71%で1位に輝いた。ビザ・ワールドワイドが外国人1万人以上に調査した、「観光したい国」ランキングでも日本は2位につき、日本を訪れる外国人観光客が増加している。どうして日本の好感度はこんなにも高いのか。

日本人が知らない 世界中から愛される日本』(井沢元彦/宝島社)には、諸外国と日本の知られざる33話の交流秘話が綴られている。年間5500億円以上もの予算を政府開発援助(ODA)に費やす日本政府に対してバラマキ外交という批判もあるが、はたして日本が支持される理由はそれだけなのか。本書からは、江戸時代から現代にいたるまで育まれてきた諸外国と日本の深い関係が見えてくる。

メキシコ人の心を開いたおもてなし

 メキシコ大使館は、千代田区永田町2丁目にある。国会議事堂、首相官邸、議員会館に最も近い一等地だ。かつては国有地で、アメリカやイギリスの大使館よりも高待遇で創設された。なぜ、メキシコが優遇されたのか。その理由は明治初期にまで遡るという。

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 1874年、金星が太陽面を通過する珍しい天体現象が起こった。その観測に最適な場所とされたのが日本だった。メキシコは観測隊の派遣を決定したが、当時、日本とは正式な国交を結んでいなかった。しかし地球の裏側から訪れた客人を日本側は快く迎え入れ、横浜の野毛山基地を提供し、観測隊は大きな成果を上げた。帰国後、日本の印象を綴った日本旅行記が出版され、それがメキシコ政府を動かし、国交樹立に繋がった。

 1888年に結ばれた「日墨修好通商航海条約」は、日本がアジア以外の国と初めて締結した平等条約であり、これが先例となって欧米諸国の不平等条約改正を促したという。都心の一等地に建つ大使館は、まさに日本が贈ったメキシコへの感謝の証だった。

パラオ人の胸を熱くした冷たい言葉

 昨年4月、天皇皇后両陛下のパラオ訪問に対して、パラオ国民は熱烈な歓迎に沸いた。パラオはとくに親日国で知られるが、かつての占領国である日本にどうしてそこまで好意的なのか。

 第一次世界大戦後の1920年からパラオの統治は始まった。まず日本が行ったのは道路や橋の建設、教育制度や医療制度の整備だ。とくにアメーバ赤痢とデング熱の撲滅がパラオ人の信頼を得た。それからも日本人とパラオ人の二人三脚の開拓が続いた。

 第二次世界大戦中、米軍がペリリュー島に迫ると、島民たちは日本兵と共に戦いたいと申し出たが、ある将校が彼らを一喝した。

「我々帝国軍人が、貴様らなどと一緒に戦えるか!」

 この言葉に信頼を裏切られた島民たちは、失意のうちに日本軍が用意した船でパラオ本島へ移ることになった。思いがけないことが起きたのは船が島から離れたときだった。将校を含めた日本兵らが浜へ走りだすと手を振って船を見送ったのである。日本兵が共闘を拒んだのは、自分たちを救うためだったと気づいた島民たちは、こぼれる涙を堪えられなかったという。結果、1万人を超える日本兵が戦死したが、島民の犠牲者は1人もいなかった。このエピソードは、新聞にも掲載されて多くのパラオ人が知っている。

ウズベク人が見習った勤勉さ

 1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し敗戦を迎えた。そしてソ連による日本人捕虜の強制連行が始まった。いわゆるシベリア抑留だ。ウズベキスタンに拘留された日本人は、首都タシケントでナヴォイ劇場の建設に従事した。強制労働でも抑留者たちは与えられた仕事に手を抜かなかった。

 ある子供は、親から日本人の姿を見せられて、こう言われたという。

「ごらん、彼らは捕虜であるにもかかわらず、ロシアの兵隊が見ていなくても働いている。人が見ていなくても働いている。お前も人が見ていなくても働くような人間におなり」

 この子供が、後のウズベキスタン初代大統領イスラム・カリモフその人だ。このような逸話は、当時の子供世代の大人たちに多く残されており、皆「日本人のようになりなさい」と親からしつけられて育ったという。

 抑留者たちの尽力で、わずか2年で劇場は完成した。1966年のタシケント地震では市内の多くの建築物が倒壊したが、劇場だけはびくともしなかった。日本人の技術の高さにウズベク人は改めて感銘を受けた。

 ウズベキスタン抑留中に亡くなった日本人は800名以上。ソ連は日本人の墓を許可しなかったが、ウズベク人はこの命令に背き、日本人を丁重に葬った。日本人墓地では、春になると日本から寄贈された桜が綺麗な花を咲かせるという。

 これらの他にも、日本の外交が多くの善意に支えられてきたことが書かれている。

 そしてなによりも外国人の信頼を得たのは、辛いときにも失われない日本人らしい心だったことがわかる。現に東日本大震災のときには、被災した方々の秩序、冷静さ、忍耐強さが世界中で称賛された。

 将来の日本の外交がどうなるかは、私たちひとりひとりの行動にかかっているのではないだろうか。

文=愛咲優詩