「南京事件」は、あったのか、なかったのか。77年目の真実とは?【前編】

社会

更新日:2016/10/24


『「南京事件」を調査せよ』(清水潔/文藝春秋)

 これを扱うと、どこかから必ずや抗議やバッシングが来るだろうというテーマがいくつかある。その代表が「慰安婦」問題と「南京事件」だろう。

 南京事件はそのものが「あった」「なかった」「あったとしてもそんなにたくさんの被害者はいない」「殺されたのは民間人ではなく便衣兵(民間人を装った軍人)」などなど、異論反論は枚挙にいとまがない。だから手を出したがらないマスコミ関係者も多い。

 桶川ストーカー殺人事件や足利事件などを取材してきた「調査報道のプロ」の清水潔さんも、戦後70周年記念企画として「南京事件」のドキュメンタリー番組を作ることになった際には、「ドロ沼にずぶりと足を踏み入れたような気がした」そうだ。それまで南京についての文献は読んではいたものの、深い興味はなかった。「絶対にありえない」とも思っていなかったが、「30万人もの南京市民が虐殺された」という意見にも誇張がある気がしていた。ただ「戦争だし、色々あったのでは」とは思っていた。それでも南京に飛び、事件現場の揚子江付近を歩いて人々の声を集めたのは、「知ろうとしないことは罪」という思いに駆られたからだという。

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「日本の近代における戦争をメディアが取り上げる時は、太平洋戦争以降の『被害者』としての側面を描くことが多いんですよ。東京大空襲とか広島、長崎とかそういったものが多くて。僕も特攻隊員の婚約者だった、伊達智恵子さんなどを取材してきましたし。しかしそれよりも前の日中戦争や日露戦争の話はガクっと減るんです。だから自分も学ばなくてはいけないという思いが、ずっとどこかにあって」

 とはいえ戦後70年以上経った南京を訪れてみても、当時とは景色が一変している。そこで清水さんは足を使うだけではなく「病気と思えるほど」多くの資料を探し、読み、知らないことを知っていく作業を繰り返した。番組は2015年10月にNNNドキュメント『南京事件 兵士たちの遺言』(日テレ系)として放送され、深夜帯だったにもかかわらず大きな反響を得た。『「南京事件」を調査せよ』(文藝春秋)は、番組では描ききれなかったことをまとめたノンフィクション作品となっている。

 日本軍の元兵士が遺した陣中日記などから当時の揚子江で起こったことをなぞり、一次史料を読み解くことで「南京事件はねつ造だ」という声へのカウンターを繰り広げていく。そんななかで印象深いのは、南京事件とは一見無縁な自身の祖父と父について描いたことだ。

日露戦争に関与した祖父と、シベリアに抑留された父

 清水さんの祖父・清水駒次郎は陸軍砲兵大佐で、1904年に開戦した日露戦争に参戦している。大正13年に亡くなっているから、清水さんとの接点はない。父親は1920年生まれで21歳の時に陸軍に徴兵され、満州国のハルビンで後方部隊に所属していた。そして戦後は捕虜となって、シベリアで3年半強制労働させられている。戦争に積極的に関与した祖父と、被害者だった父。昨年、安倍総理が戦後70年談話で「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と語っていたが、清水さんは本の中で自身に、「おまえは本当に戦争と無縁だったと言い切れるのか」と問いかけている。そのとおり、今を生きるすべての人にとって、「あの戦争」は決して無縁ではないのだ。

「じいさんが日露戦争で活躍したっていうのは墓に書いてあるし親父からも聞いていたけど、墓の字なんて真剣に見てなかったんですよ(笑)。でも今回は墓を訪ね、書いてあることをヒントに調べてみようと思って。ずっと『戦争なんか俺には関係ない』と思っていたけれど、じいさんと父親がいなかったら僕は生まれてなかったわけだから、そう考えると『自分は戦争とは関係ない』とは言えないよね。あとは南京事件に関わった兵士の日記から、兵隊がしたことの罪深さを取り上げて番組を作ってきたけれど、調べてみたら自分のじいさんも戦時中に似たようなことをやっていた可能性は否定できない。見知らぬ兵士の罪は描いて血縁者の罪を隠すことは、自分の中では許されなかった。だから親戚から非難が来ることも想定しながら、あえて書いたんです。担当編集者が『おじいさんの写真があると説得力が増しますよね』というのでじいさんの写真を入れましたが、じいさんだけ晒して自分は逃げるわけにはいかなかったので、自分の写真も巻末に入れたりして(笑)」

何人死ねば「大虐殺」なのかの論争は不毛

 南京事件は「南京大虐殺」ともいわれるが、タイトルにはあえて「事件」という表現を選んだ。それは起こったことを矮小化する意図ではなく、殺人行為以外も起こった戦争犯罪を語るには、「事件」が一番しっくりきたからだと明かした。

「何人死ねば大虐殺か。30万人説は正しいか正しくないのか。そこが取材のテーマではないし、不毛な議論を生んでしまう。何人であったとしても人は死んでいるし、南京では強盗や強姦なども起こっているので、『虐殺』より『事件』といったほうがしっくりくると思ったんです。前書きでも虐殺か事件かについては触れました。虐殺の定義は『むごい方法で殺すこと』と辞書にもあります。しかしネットなどでは『一般の人間を殺害することが虐殺だ』とか不思議な異説も見られます。そして中国は『30万人の被害者』にこだわっている。日本の『南京大虐殺はなかった』派は、『30万人の虐殺なんてなかった』にこだわっている。双方が『30万人』に拘泥するから、被害の実態が見えにくくなってしまっていると感じて。僕の仕事はまず事実を伝えることで、大虐殺の、『規模』ではなく事件の、『有無』にこだわったんです」

著者の清水潔氏。揚子江河畔にて

【後編】は13日配信

取材・文=今井順梨