親族は誰も祖母を知らない? 戸籍に残る祖母の実家を調査し新たな謎が浮上/家系図つくってみませんか?
公開日:2025/4/21
『家系図つくってみませんか?』(丸山学/ポプラ社)第3回【全6回】
あなたは、自分のひいおじいちゃんが何をした人か知っていますか? 家系図作成への関心が高まっている今、自分のルーツをたどろうという人が増えています。年間約100件の依頼を請け負う行政書士が、わずかな手がかりを元にルーツをたどる実例や、個人で作る際のポイントを紹介。戸籍取得から菩提寺探訪、古文書のよみときまで、わかりやすく解説した『家系図つくってみませんか?』をお届けします。

(丸山学/ポプラ社)
実の父親は誰なのか
さて、話を多美に戻しましょう。
長男・一郎の戸籍から分籍し、自らが筆頭者となる戸籍を作成した多美の戸籍を見てみましょう(図表9)。

戸籍を見ると、多美は分籍したあと昭和48年に亡くなるまでの間は誰とも婚姻していないことが確認できます。しかし、昭和5年には依頼人である季明さんの父・五郎が出生しています。前夫・塚田拓郎ではない誰か別の男性との間の子ということになります。
しかし、五郎さんは「自分は塚田拓郎の子である」と生涯思われていたそうです。
季明さんがこの件を親族に確認すると、どうやら五郎の実の父親の名前は「大田八十吉」だと伝え聞いている方がいました。お名前だけは明確に伝わっているのですが、大田八十吉がどこの誰でどんな方なのかはまったく不明です。
塚田季明さんを中心に、系譜を作成してみましょう(図表10)。

塚田家の現菩提寺にも確認しましたが、祖父母の拓郎・多美の実子(一郎)の末裔については不明。お寺には塚田拓郎の没記録だけはあるものの、その上の代の塚田家の記録はない、また、「大田八十吉」なる人物についても不明とのことでした。
いったい、祖父と考えていた塚田拓郎はどこの出身なのか? 塚田家のルーツはどのようなものか? そして、父親・五郎の実父と伝わる「大田八十吉」とは何者なのか?
手がかりとしての戸籍もなければ菩提寺にも記録がない。それでいながら、依頼人はお子さんに「塚田家ってどんな家なの?」と聞かれている状態。
手詰まりの状態になり、依頼を受けた私も思わず取得した戸籍を前に並べて「う〜ん」と腕組みをして唸ってしまいました。しかし、こんな時こそ、まずは動き出してみることです。
多美の実家を調査して新たな謎が発生
ご依頼人は多美の実家のルーツも知りたいとのことで、多美の実家(戸籍によれば島内家)と塚田家について調査・家系図作成を行うことになりました。
多美の実家のことを調べると何か塚田家のヒントも出てくるかもしれないと考え、私は戸籍に記載された多美の実家である島内家(図表8のとおり、島内家はA県の山川村に本籍があるとわかります)についての調査に入りました。
今回は塚田家のことが主題となるため、島内家の調査内容についての詳細は割愛しますが、島内家のほうは多美の同族の方にもコンタクトでき、その土地の古文書も調査して戸籍でわかる以上のご先祖様のお名前も判明し、家系図もできあがりました(図表11)。

多美の実家であるA県の山川村は、現在のA県某市大字山川の地区です。
電話帳で確認すると、同地区には島内姓のお宅が何軒かあったので、事情を記した手紙を書き、親族にあたる方々とコンタクトをとりご協力いただきました。
さらには、旧山川村の江戸時代の古文書がA県の文書館(県内の古文書を収集している行政施設)に所蔵されており、それらを閲覧することにより島内家の江戸期のご先祖様の記録にも出会うことができました。
しかし、多美の実家である島内家の調査をしていて私が感じたのは、「なんかフワフワしているなあ……」というものでした。
もちろん、きちんとした史料を収集できて家系図も根拠をもって江戸時代まで作成できたのですが、同族にあたる方々とお話をしていても皆さん多美のことをご存じないのです。
実家を離れているとはいえ、昭和48年までご存命の方ですから、もう少し「ああ、多美さんってお名前は聞いたことありますよ」というくらいの話は出てきてもよさそうなのですが、それがありません。
なんだか「多美さんって実在したのかなあ?」と変な感覚でした。
しかし、最終的にはこの違和感の謎も解けることになります。
多美はもちろん実在したのですが、実は戸籍に記載された多美の父母名は真実ではありませんでした(戸籍に記載された父母である島内平右衛門・タツはもちろん実在し、その一族の方々にもお話を伺えましたが)。
多美は真実とは異なる出生の届出をされ、戸籍上は島内家の娘となっていましたが、本当のところはあるお寺のご住職の子であったことがわかるのです。
ただし、それを知るためにはやはり塚田家の謎を解き明かす必要がありました。
<第4回に続く>