「誤解を招いたとしたらお詫びする」「真摯に受け止める」政治家の乱用で、もはや信用できない? 言語哲学者の提言とは《インタビュー》

社会

公開日:2025/4/22

「そんなつもりはなかった」「誤解を招いたとしたらお詫びいたします」――そんな政治家の常套句に「またか」と覚える脱力感。気鋭の言語哲学者・藤川直也さんの『誤解を招いたとしたら申し訳ない 政治の言葉/言葉の政治』(講談社)は、こうした現状に危機感を覚え、彼らの発言の何が問題なのかを明らかにしつつ、コミュニケーションの真理を探る一冊だ。藤川さんに本書に対する思いを聞いた。

言葉の責任を軽視する政治家が目に余る!

――本書を書いた理由から教えていただけますか。

藤川直也さん(以下、藤川):大きな理由のひとつには、言葉の責任を軽視しすぎたり、発言の責任をうやむやにしようとしたりする政治家の姿勢が目に余るというのがあります。代表的なのはトランプ米大統領。彼は以前から言葉の責任を蔑ろにしたり、全然根拠のないことを言ったりする人で、先日もゼレンスキー大統領を「独裁者」呼ばわりして、後で「そんなことを言っただろうか」とか支離滅裂で無茶苦茶な発言をしていました。「フェイクニュースだ!」「選挙が盗まれた!」といったデタラメを撒き散らして政治を動かしていくトランプ氏の台頭に、アメリカの哲学者たちは危機感を持って最近は「応用言語哲学」という分野が盛んになってきています。

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 なにもこうした現象はアメリカだけではありません。日本では政治家が「そんなつもりはなかった」「誤解を招いたとしたらお詫びいたします」と口にして、もともとの発言が意味したことをなかったことにしようとしたり、「広く募っていたが募集していない」と言葉の意味を捻じ曲げてまで発言の責任を回避しようとしたりしています。時の総理がオリンピックの前に「安心・安全な大会の実現を目指す」と言っていましたが、「安心・安全」の基準は明らかにしないままでした。これも言葉の責任をうやむやにしようとする姿勢の現れといえるでしょう。

 そうした振る舞いが溢れる現状をどう考えるのか――それは私には言語哲学者として取り組むべき課題に思えました。危機感はありますが、こうした言い訳を大の大人が堂々と口にし、時にそれがまかり通ってしまうことに対する不思議さが考察の導き手となり、結果的に、こうした政治家の言い訳を批判的に捉える基本的ツールにもなったと思います。

――政治家の発言のどんなところが一番気になりますか?

藤川:言葉の責任を軽んじていると、言葉がダメになってしまう(=言葉がその働きを失ってしまう)ことですね。たとえば「真摯に受け止める」は政治家の常套句ですが、その言葉が無責任に軽く使われすぎて、もはやその言葉を聞いてもそんなの信用できないとレッテルを貼りたくなる。本来は相手の意見を真剣に理解して対応する約束のための言葉だったはずなのに、いまやそうした言葉としては使いにくくなってしまっています。言葉がダメになるというのはこういうことで、なぜそうなったかといえば、私たちがその言葉を使った政治家がその約束を果たさない状況を目の当たりにしてきたから。その意味で政治家たちにすごく大きな責任がありますが、一方でその勢いに私たち自身が流されて安易にレッテル貼りをしていいのかというのもぜひ考えてほしいですね。

「そんなつもりはなかった」も政治家の常套句ですが、この言葉は「誤解を解くための大事な言葉」であるということを本では強調しました。コミュニケーションに誤解はつきものですから、この言葉は私たち自身が誤解を回避するために重要なセーフティーネットでもあるんです。もしこの言葉が乱用されてダメになってしまったら、本当に誤解なのに全然聞きいれてもらえなくなってしまうかもしれません。

――それは困りますね。ところで、こうした曖昧な謝罪の感覚は日本固有なのでしょうか?

藤川:謝っているのかいないのかよくわからない言葉は「謝罪もどき」と呼ばれていますが、そうした謝罪もどきは日本だけにあるわけではありません。たとえば米国議会に関する調査で、「20世紀中に議会からの正式な懲戒処分を受けた議員の約35パーセントが『何かしらの謝罪もどき』でそれに応じた」という調査があります。なんとかして責任を逃れたい政治家が、海の向こうでも100年以上前から謝罪もどきを使ってきたわけです。

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