ストリッパーの女性との出会いで変わった価値観。「つくづく女であることが嫌」だった主人公が見つけた自己愛【書評】
公開日:2025/5/22

「私たち」「好きな服着て外に出られないほど世の中狂ってるんでしょうか」。
『彼女は裸で踊ってる』(岡藤真依/講談社)第1話は、この強烈な言葉とともに幕を開ける。主人公・牧野綾は電車で痴漢に遭っているところを、桃尻かおりという女性に助けられる。痴漢は無事に引き渡されるのだが、その際駅員がかおりに「お姉さんもそんな薄着だと狙われるよ」と忠告する。冒頭の言葉はそのとき綾がつぶやくものだ。

岡藤真依は、女性の性を描く作家だ。性の客体としてときに消費される側面はもちろんだが、同時に性的な主体である側面も大きなテーマとして焦点を当てている。そんな岡藤が新作『彼女は裸で踊ってる』で描くのは、ストリップの世界だ。
綾が出会った桃尻かおりは、ストリップ劇場で働く踊り子。そうとは知らずに見に行った綾は、ステージの上で裸で踊る女性たちを見て衝撃を受ける。動転した彼女はかおりに「あんなの!痴漢されてるのと一緒です!」と言ってしまう。

かおりとの会話のなかで、綾も自分のこの言葉をすぐに反省するのだが、「好きな服を着て外に出られない私」と「ステージで裸で踊る彼女」という対比は、本作の重要なモチーフになる。
ストリップを含む性風俗産業は性的消費や性的搾取の典型として扱われることも多い。歴史的にも性産業が人身取引の温床となってきたことは否定できないし、本作でも搾取と隣り合わせである一面を描いている。だが、本作のかおりは自らの意思で裸になって踊り、そういう自分と自分の身体に誇りを持っている。自分の身体や性をどう扱うかを自分の意思で決めているという点で、彼女は自由だ。

一方の綾は、当たり前に暮らしているだけで痴漢されたり、胸の大きさをたびたび話題にあげられたり、恋人とのセックスも相手に合わせるために感じるフリをしてやり過ごしている。裸のかおりより、普通に服を着ている綾の方が不自由で性的に消費されているのではないか。自分の身体や性を他人の視線に規定されているのは、綾の方ではないのか。ここにはそんなパラドックスにも思える見方が生まれてくる。
■性的消費へ怒りつつ、自分の性を愛する
さて、岡藤作品の鮮烈さは女性を性的客体としてだけでなく、主体としてもしっかりとらえているところにある。言い換えるなら、性的消費への怒りが、性的であることを否定しないということだ。
『彼女は裸で踊ってる』でも、ストリッパーたちの姿は、ある部分では神々しく描かれる。年齢を重ねたストリッパーのしわやたるみなども多い肉体を、美しさとして描写する場面もある。
だが、同時にエロティックであることを否定していない。いやらしく、興奮を誘うことも含めて美しいという描き方をしている。そして、綾もそういうセクシャルな感情を含めたときめきや憧れをかおりに抱くようになる。他人からの性的な搾取、消費から自由になることと、自分自身やその身体が性から自由になることは別のことだということだ。むしろ本作では、自分やその身体を愛することが、他者からモノ化されることに抗うことになると描いている。
「つくづく女であることが嫌になります」。そう語っていた綾が、女という性を含めて自分を愛し、肯定していく。その過程が、勇気の物語であると同時に、ロマンティックな性と愛の物語にもなっているところに、本作の瑞々しさがある。
文=小林聖