ダ・ヴィンチ編集部が選んだ「今月のプラチナ本」は、中村文則『彼の左手は蛇』
公開日:2025/12/5
※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』2026年1月号からの転載です。

あまたある新刊の中から、ダ・ヴィンチ編集部が厳選に厳選を重ねた一冊をご紹介!
誰が読んでも心にひびくであろう、高クオリティ作を見つけていくこのコーナー。
さあ、ONLY ONEの“輝き”を放つ、今月のプラチナ本は?
(写真=首藤幹夫)
中村文則『彼の左手は蛇』

河出書房新社 1760円(税込)
〈つまり言い換えれば、本当は――。これはテロの書だ。誰も読んではならない。〉
3カ月前、「男」は仕事と女性を手放し、蛇信仰のある地へ来た。そして、幼少時代、自分が人ではないと感じていた奇妙な記憶に始まる「手記」を書く。毒蛇の逃亡、蛇狩り、蛇を求める女、議員の死とそれを調べる刑事、ロー・Kというビジネスマン、そして……紛れ込む「Apep」。いま男は、ある目的のために“1人”で動き出す。
なかむら・ふみのり●1977年、愛知県生まれ。2002年『銃』で新潮新人賞を受賞しデビュー。04年に『遮光』で野間文芸新人賞、05年に『土の中の子供』で芥川賞、10年に『掏摸』で大江健三郎賞を受賞。他の著書に『教団X』『R帝国』、エッセイ集『自由思考』、対談集『自由対談』など。
【編集部寸評】

暗闇の中に希望が射す
抑圧しきれない衝動を抱く瞬間がある。けれど一歩踏み出す勇気はなかなか湧かない。あのとき、あれをしなかったら――。分岐点に佇む道祖神は、振り返れば既にいない。時は遡れず、過ちの原因をつい他者に預けてしまう。主人公は蛇に出会い、信仰する。世界を是正するため暴力の道を選ぶが、死と再生を象徴する蛇に準えるよう決断と惑いを繰り返す。ある女性は彼に「人って厄介で、その厄介な存在同士なんだから、……優しくあった方がいい」と言う。テロの書なものか。希望の書だ。
似田貝大介 本誌編集長。貉信仰を求め佐渡島へ。ボスとされた団三郎の社は哀しく荒れ、失われんとする信仰を肌で感じた。詳細は今月刊の『怪と幽』21号にて。

主観と客観の交点
男の独白から始まる物語は、彼が蛇と出会ったことをきっかけに、帯にある通り、テロを企てる過程を追っていく。手記の形をとっているので、どのタイミングでどの情報を開示するか、物語はすべて彼がコントロールしているはずなのに、いつからか差し込まれ始める謎の単語Apepがノイズとして響き、読む者を不安に陥れる。幼少期の記憶に、蛇信仰に、通訳時代に犯した罪に、追い詰められた彼が、「もう客観はいらない」とたどり着いた先を、固唾をのんで見つめることしかできなかった。
三村遼子 ひとりでご飯を食べた店に資料を入れた袋を忘れたり、取材先にICレコーダーを忘れたり、最近たるんでいます。どちらも無事に戻ってきて、感謝。

「私」の再生の記録
不遇な生い立ちを背負った「私」が、ロー・Kの殺害を企てる過程を綴ったテロの記録だ。「手記」の形で進行するこの物語は、「私」の狂気や混沌とした内面世界が生々しく迫ってくる。「私」が相棒として執着し、左手に宿る「蛇」は、気味の悪さと美しさとを同時にまとう神聖な存在として描かれる。毒を宿し、冬眠や脱皮をしながら、再生するその生命力がすさまじい。蛇の脱皮に重ねるように、人間もまた再生できるのかもしない、そう感じさせてくれる力強い物語だ。
久保田朝子 なぜこんなにも乾燥するのでしょう……。風邪対策として、加湿器、のど飴、保湿マスク、のどスプレー、そして就寝時の首マフラーが手放せません。

逡巡する狂気
日本神話や聖書にも登場し、信仰を生み出すほどの存在である蛇に材をとった本作は、主人公の「私」の手記で構成されている。蛇との遭遇をきっかけに語られる人生。彼のなかで膨らんでいく衝動は、大物ビジネスマンのロー・Kの殺害を目論む計画へ。そんななか、狂気を抱えながらも揺れ動く「私」の姿に心を絡めとられる。「ロー・Kを殺しても、ああいう連中はいくらでもいる。何にもならない。ならどうすればいいだろうか。わからない」。彼が迎える結末をぜひ見届けてほしい。
前田 萌 Suicaのペンギンが2026年度末で卒業を迎えるとのこと。これまでの感謝の気持ちも込めて、ペンギン好きとして残りの期間も全力で応援したいです。

「手記は人を狂わせる」
書くという行為には計り知れない力が確かにあると思う。すべての記憶を頭の中に残しておくのは難しい。だから、書く。そしてそれが真実になっていく。本作は主人公の「男」の手記を辿っていく構成だ。彼の幼少期から現在までに何が起きたのか、男のペースで、過去と現在を行き来しながら順不同に語られていく。発された言葉や、心の声も鮮明に。そして、読んでいるうちにふと思う。何が真実で、何が嘘なのだろうか、と。書くことで男は何を得たのか。その最後にきっと心動かされるはず。
笹渕りり子 「今年の顔」企画でマユリカさんを取材。お二人のPodcastが在宅仕事のお供である私はひそかに大興奮。誇張なく、各回5回は聞いています。

「自殺も犯罪もしない方がいい理由」
この答えをずっと探してきた気がする。自分がということではなく、誰かに問われたとき、その人を引き留めることのできる説得力のある理由を探していた。仕事を辞め、女性と別れ、一人蛇信仰の地で手記を書く男も、ある計画に向かいながら、この答えを探しているように見える。彼を傷つけてきた真っ暗な世界を書いているのに、いや、書いているからこそ、前向きで耳障りのいい言葉が響きにくい現代においても、物語はこんなふうに心を救ってくれるのだ。探していた答えが、ここにあった。
三条 凪 P16からは中村文則さんのインタビューも掲載。「お守りとしての本を書きたかった」という中村さんに、本作に込めた思いを語っていただいています。

「蛇」と耳にして
真っ先に思い浮かべるのはウロボロスのイラストだ。自らの尾をくわえてひとつの輪となる姿はどうにも不気味で、「従来の生物の形状に囚われない」不思議な在り方に、人間が近づくことを許さないような恐怖を感じる。しかし、蛇は暴力性や不気味の象徴だけではなく、一方で願いをかなえる存在でもあるという。本書に出てくる「蛇」に魅入られた人々を通して、我々は自らとは異なるその存在に“救い”と“畏怖”のどちらを見出すのか。蛇に呑み込まれるような圧倒的読書体験をぜひ。
重松実歩 夏~秋にかけての怒涛の飲み会で体重が爆増。学生時代は食事を抜けばすぐ痩せましたが、今ではそうもいきません。年末年始は筋トレに励みます。

彼にとっては蛇だった
自覚の有無にかかわらず、祈りが先にあり、そのイメージを落とし込むように、信仰は形になるのだと思う。「男」にとってそれは蛇だった。彼が今、手記の中でたどる記憶、そして綴る葛藤はまさに、祈りが意識に、ある形をもってのぼって来る過程そのものだ。彼は目的を持ち、「蛇」に導かれるように動く。最初は思う――蛇は恐怖と暴力の象徴なのか、と。しかし読み進めると、蛇はまた違った象徴性を帯びていく。人の根源的な祈りを言葉にして気付かせてくれる、お守りのような一作。
市村晃人 20年くらい前でしょうか、朝、買い物から帰った母に起こされたと思ったら、子どもの背丈ほどもあるシマヘビを拾ってきていました。なにごとだ。
