発売即重版記念! SNSで話題沸騰中の“呪い本”。【滝川さり『ゆうずどの結末』 第1章全部試し読み!】

文芸・カルチャー

公開日:2024/3/14

マジで怖い本とSNSで話題沸騰中! 角川ホラー文庫に“ホンモノ”の呪いの本現る!?

『お孵り』で第39回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈読者賞〉を受賞した滝川さりさんの『ゆうずどの結末』が今、ホラー界を賑わしています!
「読むと死ぬという噂のあるホラー文庫の物語」である本作は、発売前からゲラ読みをしてくださった書店員さんたちからも阿鼻叫喚の声がゾクゾク届き、体験型ホラー小説として話題を集めています。
今回は重版を記念して、カドブンにて全6章のうちの第1章部分を全文試し読みとしてお届けいたします。
紙の本で読むとより臨場感が味わえますので、気になった方は紙の本で読んでくださいね。

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滝川さり『ゆうずどの結末』 第1章全部試し読み!

第一章 菊池斗真

「──先輩、最初は軽くっすよ」
 部室で見つけたヨレヨレのグローブを拳で叩きながら、菊池斗真きくちとうまは言った。
 わかっとるって、と中庭の真ん中辺りに立つ日下部智樹くさかべともきが腕を回す。彼の左手にもボロボロのグローブがはめられていて、反対の手には白球が握られていた。
 暑さ厳しい七月の中旬。大学の文芸サークル「黒猫の森」の部室に集まった二人は、本の山に埋もれた段ボール箱の中から野球グローブとボールを見つけた。となると、男二人が揃えばキャッチボールせずにはいられない。──たとえ真昼の炎天下でも。
 テニスコート二面ほどの広さの中庭は「ロ」の字形の部室棟に囲まれていて風通しも悪く、「熱の底」という感じだった。当然、菊池たち以外には誰もいない。見上げると、四角く切り取られた空にギラギラの太陽が輝いている。蟬の声がやたらうるさい。軽音部の部室からはくぐもったアジカンの「リライト」が繰り返し流れている。文化祭のステージで披露するのだろう。どこかからカップ焼きそばの匂いが漂い、唇を舐めるとさっき飲んだアクエリアスの味がする。
 大学一年生の、夏だった。
 いくでぇ、と声がした。存分に距離を取った日下部が放ったボールは、見事にグローブに収まった。懐かしい感覚に頰が綻ぶ。投げ返して、またキャッチする。たったそれだけのことがすごく楽しい。
 ふいに父のことを思い出した。こんな風にキャッチボールをした思い出。だが、楽しい時間は長続きしなかった。──やがて「疲れてんねん」と遊ばなくなった父。溜め息と夫婦喧嘩の家。仕方なく、公園で一人、ボールを真上に投げて遊んだ。
 ある日、公園の茂みに父の背中を見つけた。途端に嬉しくなった。──仕事が早く終わったんだ。久しぶりに一緒に遊ぼうと来てくれたんだ!
「パパ!」
 幼い声が弾む。グローブを握り締める。スーツ姿の背中に駆け寄る。
 父は、公園で、一人で──

「菊池!」
 日下部の声にハッと我に返る。顔を上げると、彼が斜め上を指さしていた。見ると、部室棟の外廊下に誰かが立っている。
 長くて黒い髪。白い肌。あれは──宮原すみれだ。同じサークルのメンバー。
 彼女はちょうど「黒猫の森」の部室の前で、中庭を見下ろしている。いや──その目はどこも見ていなかった。人形みたいな虚ろな表情。顔に開いた穴のような黒い目。
 風が吹いたのか、黒い髪が横に靡いた。だが、彼女自身は微動だにしない。
 何か変や。──そう思った瞬間、
「あ」
 彼女の身体は、宙に投げ出されていた。
 まるでマネキンのように落下する身体。風を切る音。乱れる髪。──そして、
 鈍い音が、足許を揺らした。

 菊池は固まった。呼吸すら忘れていた。
 汗がこめかみから顎のラインに伝う。
 一部始終を見ていたはずなのに、何が起きたかわからなかった。
「……宮原さん?」
 発した声は、自分のものじゃないようだ。
 引き寄せられるように、足が勝手に彼女へと近づき始める。鉄臭い匂いは、一歩踏み出すたびに濃くなるようだった。唾を吞む。蟬の声が遠のいていく。
 その姿は、糸が切れたマリオネットを彷彿とさせた。──投げ出された白い手足。うつ伏せになった身体。なのに、乱れた髪の隙間から見える彼女の瞳と目が合っている。
 その手首が、悪夢のように広がる血溜まりに沈んでいく。「熱の底」で冷たくなっていく彼女をじっと眺めている。
 何も聞こえない。蟬の声も。軽音部の歌も。
 真っ白になった音の世界に、ぱらぱらと紙がめくれる音だけが生まれた。見ると──一冊の本が、いつの間にか死体のそばに落ちている。その表紙に目を凝らす。

 ゆうずど、と書かれているように見えた。


   一

 2011年7月19日(火)
 開いた窓から、生温い風が入ってきた。
 午後五時過ぎ。兵庫県神戸市にある公立大学のキャンパス。その部室棟の一角。
 文芸サークル「黒猫の森」の部室はいつも黴臭い。原因は、四方の壁に設置された本棚にある大量の本だった。そこにはあらゆるジャンルの書物が詰め込まれているが、共通しているのはどれも微妙に古く、傷んでいるということ。おまけに換気機能が追いついていないせいで、部屋は年中、雨の日の匂い──と、先輩の誰かが言っていた。
「──年中って、お前まだ三か月しかおらんやん」
 部屋の隅。ローソファーに寝転んでカバー付きの本を読んでいる日下部は、そう言って笑った。
「やから、先輩が言ったんすよ。誰やったかな……ほら、あの派手な髪色の」
 漫画『動物のお医者さん』を長机に置いて、菊池は頭を搔いた。文芸サークルと銘打っているが、その実態はいわゆる「飲みサー」で、飲み会でしか見たことがない先輩も多い。頭に浮かんでいるのは、ハイボール片手に笑う赤い髪の女性。確か、『梅雨払い』と称した六月半ばの飲み会で一緒のテーブルになった……ダメだ、思い出せない。
「まぁ誰でもええけど、そいつは本を愛さず文芸サークルに入った不逞の輩やな。読書家はこの匂いを好むもんや。……お前のことやぞ、菊池」
「読書家がですか?」
「アホか。お前はええ加減、漫画と東野圭吾以外読め」
 東野圭吾を読んだって読書家だろうと思ったが、読書の絶対量では日下部に敵わないので、笑ってごまかした。そもそも、新歓コンパという酒の席の勢いで菊池を無理やりサークルに加入させたのは日下部なのだが。
 火曜日と木曜日。今日も本来は活動の時間だけれど、菊池たち以外は誰も部屋に来ていない。元々「臭いから」とメンバーのほとんどが近寄らないが、今となっては、別の理由が生まれているのは明らかだった。
「……しばらくは活動なしですかね? てか、この部屋入っていいんすか?」
「ええやろ、ケーサツの捜査も終わっとるし。活動もなぁ……前は課題図書決めてみんなでそれ読んで感想言い合ってってしとったみたいやけど、今は誰もやる気ないし」
 そう言って、日下部は本のページをペラ……とめくる。
 菊池は、開け放たれた部室の扉を見た。
 正確に言うと、その向こうに見える手すり壁──宮原すみれが飛び降りた場所を。

 彼女が飛び降りて死んでから、今日で六日が経っていた。
 事件直後は大騒ぎだった。──あちこちで誰かが嘔吐する音、携帯電話のシャッター音、遅れてきた教職員が「部屋に入ってて」と怒鳴り散らす声が響き──やがて警察と消防がやって来て、宮原の遺体はブルーシートに覆い隠された。
 目撃者でかつ同じサークルである菊池と日下部は学生課に呼び出され、警察の聴取を受けた。二人同時だったのは、事件性がないと判断されたからだ。……この部室で見つかったのだ。彼女の遺書が。
 千切れたノートのページに、乱れた字でこう書かれていた。

 こんな結末は耐えられない。お父さんお母さん、ごめんなさい──

「最近病んどったらしいからなぁ、宮原ちゃん」
 日下部は本を読みながら言った。
「それ、どこ情報すか?」
海老名晴美えびなはるみちゃんでーす、わお!」
 おどけた調子で言ったのは、自分の彼女の名前を出すのに照れたからだろう。海老名は菊池と同じ一年生だが、サークルに入って間もなく──つまり出会って一か月で日下部と交際を始め、もう二か月ほど続いていることになる。
「へー、仲良かったんすね?」
「いや、友達の友達くらいやて。けど、噂くらいは耳に入ってくる。……だいぶおかしなっとったらしいで。授業中にいきなり騒いだり、夜中に友達に電話しまくったり」
 意外だった。飲み会の席で見た彼女は、線が細く、大人しい印象だった。それこそ文学少女チックな。……黒い髪と白い肌と丸い顔。三つ編みにしたら似合いそうなのに、あの子はいつも結ばないでそのままだった。
 もちろん、そんなことを伝えたことはない。というより、話したこともあんまりない。
 だけど記憶の中の彼女はよく笑っていて、自殺するような人には見えなかった。
 自殺なんて──馬鹿な真似をするような人種には。

 ぶぶ、と携帯電話が震えた。母からのメールだった。
 ──夏休みは帰ってきますか?
 それだけの文面。「帰る」というわずか二文字を打つことが面倒で、菊池はそのまま机に放る。
「そう言えば、何か変なもんが見えるとか言うてたんやっけ」
 起き上がった日下部と目が合った。
「俺も写メを晴美ちゃん経由でもらってな、お前に見せよう思てたんや」
 そう言って携帯電話を操作する。すると、ポケットで菊池の携帯電話が震えた。メールだ。日下部からだった。写真データが添付されている。
「……うわ、何すかこれ」
 まるで子供の落書きだった。
 黒い滝のような長い髪の毛。その下には、四角を集めて描かれたドレスみたいな服。さらにその下には、異様に細い脚のようなもの。
「宮原ちゃんにはこれが見えとったらしいで。確か──〈〉や言うてたて」
 カミ?……髪?
「黒い髪の化け物ってことっすか?」
「いやペーパーの方の紙。身体についてるんは全部白い紙やねんて。御札くらいの」
 それを聞いて改めて絵を見ると、ゾッとした。この化け物にというより、そんなものを見てしまう宮原すみれの心理状態に。
「……宮原さんって、出身どこでしたっけ?」
「あ? あー、確か、佐賀とか言うてなかったっけ」
 九州か。なら、今年の三月に起きた大地震は関係ない……のだろうか。
 宮原すみれの死を目の当たりにして以来、ふとした瞬間に彼女の死の理由を探ってしまう。……こんなこと、意味がない。菊池は、自嘲の意味を込めて下唇を嚙んだ。友人ですらなかった自分がいくら考えても、彼女の真意など理解できるはずがない。いや、そもそも理解する必要もない。終わったことだ。死にたい奴は死ねばいい。
 ただし、自殺したとわからないように、ひっそりと、誰も知らないところで。

「ああ、もう行かなあかん、だるっ」
 本を閉じた日下部はソファーから立ち上がって、伸びをした。
「……何読んでたんすか、さっきから」
「ん? ああ、これか?」
 すると、日下部はにやにやと笑い出した。書店の名前が入ったブックカバーを取って、その本を見せる。菊池は「あっ」と声が出た。
 それは──あの日、宮原すみれの遺体のそばに落ちていた本。
「それ、持ってってたんすか。いつの間に」
「へへへ。職員らが来る前にな、さっと」
 悪びれない笑顔。好奇心を優先して非常識な行動を取るのは、日下部の悪癖だった。
「マズいんやないですか、警察に届けないと」
「へーきへーき。自殺やって警察も言うてたやろ? 今更こんな本持ってったところで、何も変わらへんわ。それにこれは、元々ウチのんやしな」
 ほれ見てみ、と本を渡される。菊池はそれを恐る恐る受け取った。
 タイトルは『ゆうずど』。著者名は鬼多河りさ。……知らない作家だ。
「古い本ですね。焼けてるし傷んでる」
「ああ。奥付見たら一九九九年刊行やった。十年以上前やな」
 表紙に描かれているのは幾何学模様にも生物にも見える奇ッ怪なイラストで、下には「角川ホラー文庫」と記されていた。
「……てか、これ何かベタベタしません?」
「ああ、血ぃ付いとるからな」
 げ、と菊池は顔をしかめた。よく見ると、表紙にはいくつか赤茶色の染みが残っていた。血だ。宮原の血が乾いてこびりついているのだ。
 まるで、宮原がこの世に残した怨念のように。
「ちょっ……先言うてくださいよ!」
 カラカラと日下部は笑った。菊池は指先だけで本を扱う。血はすでに乾き切っているはずだが、あのとき感じた忌々しい鉄の臭いが鼻腔に蘇った気がした。
「裏表紙見てみ。〈くろねこ〉って書いてあるやろ? ウチのサークルの備品って証拠や。たぶん、宮原ちゃんはここで見つけたんやろなぁ、それ」
 指先で本をひっくり返す。確かに黒のマジックペンで〈くろねこ〉と書いてある。ふとある違和感を抱いたが、そんなことはどうでもいい。
「ちょ……これ、捨てていいですか、窓から」
 待て待て待て、と日下部は慌てて本を回収する。それからカバーを付けて、改めて手渡してきた。もう触りたくもないが、待っていても引っ込めないので、受け取る。
「全六章の連作短編集や。四章まで読んだけど、フッツーのホラー小説やな。『ドグラ・マグラ』みたいなんを期待してんけど」
 菊池は普段本を読まないが、夢野久作の代表作くらいは知っている。読めば狂う本ならぬ、読めば自殺する本だと面白がって読んだわけだ。不逞の輩はどっちなのだろう。
 菊池はためつすがめつ眺めて、違和感の正体に気づいた。カバーを半分だけ外して裏表紙を見る。そこには〈くろねこ〉と書かれているだけで、本のあらすじ──いわゆるウラスジがなかった。本を読まなくても、これだけ本に囲まれていればそれくらいのことは知っている。
 どんな話なのだろう。試しに冒頭部分をパラパラと読んでみる。プロローグと呼ぶべき章で、ひょんなことから謎の本を手に入れた男性が何か思い悩んでいる。しかし、これだけではよくわからなかった。
「……これ、どんな話なんすか? ゆうずどって?」
 日下部は帰り支度をしながら、
「まぁ、一言で言うと、読んだら死ぬ、呪いの本の話やな。作中に出てくるその本のタイトルが『ゆうずど』やねん」
「へぇ。意味は?」
「まだわからん。最終章でわかるんかな」
 菊池は本を返すと、部室を出てトイレで手を洗った。窓の外はまだ明るいが、日は傾き始めてどことなく気怠い光が射している。戻ってくると、日下部が鞄を持って出るところだった。
「戸締りを忘れんなよ」
「わかってますよ。教職は遅い時間に授業あって大変すね」
 ほんまそれな、と頷く彼の手には『ゆうずど』が握られている。
「……よく平気ですね。そんな、人の血が付いた本触って」
 日下部はまた、カラカラと笑った。
「潔癖なやっちゃな。そんなん言うてたら中古本とか読めんで。誰がどんな使い方しとるかわからんからな。俺も昔、数十円くらいのエロ小説買うたらページの途中がパリッパリで、明らかにザーメ──」
 そう言いかけて、日下部はふいにしゃべるのを止めた。
 目を大きく見開いている。菊池の背後──中庭に面した手すり壁の方を見ながら。すると、菊池を押しのけるように手すりから身を乗り出した。
「……どうしたんすか?」
「いや……今、何か、白いもんが落ちた気ぃして」
「白いもん?」
 菊池も彼に倣い、中庭を見下ろした。白いもんどころか人っ子一人いない。振り返ると日下部が悪戯な笑みを浮かべている──ということもなく、彼は首を捻っていた。
「おかしいな。いや、最近こういうことようあんねん」
 聞くと、電車に乗っているときや街を歩いているとき、ふと、何かがビルなどから飛び降りる瞬間を視界の隅に捉えるらしい。驚いて確認しに行くが、何か騒ぎになっていることはないという。菊池は、不謹慎な連想をせざるを得なかった。
「大丈夫すか?……宮原さんに引っ張られないでくださいね。自殺は連鎖しますから」
「アホか。俺が死ぬわけないやろ」
 二人で笑って、その日は別れた。

 日下部が自宅マンションから飛び降りたのは、その翌週のことだった。


   二

 警察から電話があったのは、七月二十五日の午後七時過ぎ。
 自宅のアパートで事の顚末を聞かされたとき、本当の本当に──ドッキリかと思った。まず噓の電話だと疑った。警察に「黒猫の森」のOBがいて、サークルぐるみのドッキリに加担しているのだと。
 話を聞きたいので刑事が家に行っても良いかと訊かれ、菊池は機械的に「はい」と返した。電話が切れてからもしばらく呆然としていた。悲しみよりも、困惑と混乱が先にきていた。
 部屋の隅に置かれている姿見に映る自分の顔は、紙のように白くなっていた。立ち尽くしていると、再び携帯電話が鳴る。画面に表示されている発信元は、海老名晴美。サークルに入った当初に、一年生全員で連絡先を交換したことを思い出す。
 通話ボタンを押すと、か細い声が聞こえてきた。
「あ……菊池くん? 今、大丈夫?」
 彼女も泣いてはいなかった。
「うん、大丈夫」
「ありがとう。……れ、連絡来た? 智樹のこと」
「うん、たった今警察から」
「警察から直接? 何で?」
「さぁ、たぶん、宮原さんのときに話聞かれたからやないかな」
 そっか、とそれきり、短い沈黙が下りる。
「……どうしたん?」訊いたのは菊池だ。
「どうしたって……あたしも、ちょっと前に警察の人から聞いて、今は家族の人が一緒にいるって言われて、じゃあいいですって。会わないって。……よくわかんないけど」
 とりとめのない話し方が、内心の動揺をよく表していた。今、彼女を打ちのめしているのはきっと、無力感と虚無感だ。自殺を止められなかった、彼が生きる理由になれなかったという、どうしようもない絶望。気持ちは痛いほどよくわかる。
「……何で、海老名さんとこに連絡がいったん?」
「あ、それはあたしが通報したから。電話してて、智樹と。その、飛び降りる寸前まで」
「そうなんや。……先輩、何してたか知ってる?」
「ずっと家におったみたい。何かすごく落ち込んでて」
 あの日部室で話して以来、日下部は大学に来ていなかった。メールを送っても返事がないので心配していたが、まさか、こんなことになるなんて──
「……智樹、本当に自殺なんかな?」
 彼女の声からは、「そうでないかも」という疑いの色を濃く感じた。
「どうして?」
「さっきも言ったけど直前まで電話してたの。……智樹、泣いてた。自分の部屋で。ずっと『死にたくない』『怖い』『落ちたくない』って繰り返して……」
 想像できなかった。あの楽観的で享楽的な日下部が、そんな風に弱音を吐くとは。
「だいぶ弱ってたん?」
「というか、取り乱してたかな。宮原さんのこと知ってる? あの子と同じこと言ってた。何か──〈って」
 菊池は、眉根を寄せた。「それ、ほんまに?」
「うん。他にも『呪いだ』とか『結末が』とか『黒い栞が』とか──あたし、全然わかんなくて、智樹が苦しんでた、の、に」
 語尾は崩れ、彼女は泣きじゃくり始めた。
「う……、ご、ごめん、急に……」
「大丈夫。落ち着いて。一旦切ろうか?」
「ううん……だ、大丈夫」
「そっか。……えと、ちなみに、何で自殺じゃないって思ったの?」
「……智樹、電話で言ってたの。誰かが家にいる、しゃべりかけてくるって」
「それ、本当?」
「うん……機械みたいな声で、ひぐ、ずっとぶつぶつ、つぶやいてくるって……確か、〈クサカベトモキはこれまでの人生を振り返りながら、眼下の景色を眺めた〉──とか」
 それはまるで、小説の中の一文のような文章だった。
「人がおったってこと? テレビの音声とかやなくて?」
「それなら……ひぐ、智樹のフルネームが出てくるのは、う、おかしいかなって」
 海老名の言うとおりだ。しかし、だとしたら恐ろしい可能性が生まれる。
 つまり、日下部は──誰かに殺されたかもしれないということだ。
「それ、警察には話した?」
「ううん……うまくしゃべれなくて……う、うう、ごめん。うう、うっ……!」
 海老名の嗚咽が激しくなる。やっぱり、これ以上はもう無理そうだ。こうなったらもう感情を堰き止めることはできない。
 菊池は「また連絡する」と伝えて、通話を切った。

 携帯電話を持った手を下ろすと、細い溜め息を吐いた。
 ……ひかべぇ先輩が、死んだ。
 自殺か他殺かわからないが、とにかく彼はもうこの世にいない。もう会えない。たった三か月の付き合いだが、毎日のように部室で会っていた。涙が出てこないのは、きっとまだ感情が追いついていないからだ。
 他殺だとしたら、犯人は日下部の家に入り、謎の小説を読み上げて聞かせ、そして、ベランダから突き落としたということだ。……得体が知れない。誰がいったい、何の目的で。
 小説──菊池の頭には、なぜか『ゆうずど』が浮かんだ。
 海老名が言った一文があるかどうかは知らない。日下部のフルネームが入っている時点でその可能性は低い。なのになぜか、あの小説が関わっているような気がする。
 足許がグラつく。ふらりとよろけて、台所と居間の境目に立つ柱に寄りかかった。普段は邪魔くさいと思っていた柱だが、今はその存在に感謝する。
 ……父が自殺したのは十二年前──菊池がまだ七歳のときだ。
 死因は首吊りによる窒息死。場所は近所の公園の茂み。何でそんなところでと思ったが、精神的に消耗し、正常な判断ができなくなっていたのだろう。
 その遺体を見つけたのが、菊池だった。
 放課後、いつものようにグローブとボールを持って公園に行くと、木の陰にスーツ姿の背中が見えた。父だとわかり、喜んで駆け寄った。仕事が早く終わって、遊びに来てくれたんだ。隠れて自分を驚かそうとしているんだ。
「──パパみっけ!」
 父はすでに事切れていた。
 飛び出した両目。異様に長くなった首。青黒い顔。口からだらんと垂れ下がった赤い舌は、まるで別の生き物みたいだった。異臭がしていると思うと、父の下半身が大きな染みを作っていることに気づく。
 ……その後のことはよく憶えていない。次に思い出すのは、黒い服を着た母の丸まった背中。その向こう、祭壇の写真の中で父が笑っている。母はすすり泣いていた。
 ──生きてる意味がわからんて、何なんよ……。
 呪詛のような声が、電気の点いていない和室に満ちる。
 ──残されたあたしらは、どうしたらええんよ!
 怒り狂う母を見て、父は何か悪いことをしたのだとわかった。
 そのとき決めた。「ジサツ」だけは何があってもしないと。
 ママが怒るから、悲しむから。
 ……パパみたいになりたくないから。

 ぶぶ、とバイブ音。手の中の携帯電話が震えた。菊池は慌てて画面を見る。
 母だった。またメールを送ってきたのだ。
 ──夏休みに帰るんならいつになるか教えてください
 ち、と舌打ちが漏れた。今はそれどころじゃない。
 返す気にもなれず、菊池は携帯電話を机に放り出した。

 しばらくして、キンコン、と玄関でチャイムが鳴った。
「──菊池くんやね? すみませんね、夜分遅くに」
 三船と名乗るその刑事は、ドアを開けると柔和な笑みを見せた。流行のツーブロックに黒縁眼鏡。小柄だが、白のポロシャツは筋肉でぱんぱんになっている。茶色のロングコートで角刈りの刑事というのは、創作物の住人らしい。三船は世間話を交えて日下部と菊池の関係を訊き、最近の日下部の様子を尋ね、ようやく本題に入った。
「ちょっと見てもらいたいもんがあんねん」
 そう言うと、リュックからノートパソコンを取り出した。開いた画面に映るのはどこかのエレベーターの中の映像。防犯カメラだ。奥の角から扉の方に向いた構図だった。
 古い型なのか、画質はまぁまぁ粗い。それでも、扉が開いて入ってきたのは若い女性だとわかった。まだ開いたままの入口から、若い男が入ってくる。──日下部だ。白いティーシャツにジーパン姿。
 右隅の時刻表示を見ると、今日の午後三時過ぎ。警察から教えてもらった日下部の死亡時刻は約二十分後。ここから彼は海老名に電話をして、自宅のベランダから飛び降りる。
 エレベーターの中で振り返った日下部は──突然、慌てて壁に後退した。
「えっ」菊池は思わず叫んだ。
 エレベーターの外に、白い塊が見えた。違う。菊池は目を見開く。
 そこにいたのは、
〈紙の化け物〉だった。
 肩から太ももまで、御札ほどの大きさの紙を何重にも貼って膨らんでいる。その姿はまるで、京都の安井金比羅宮にある「縁切り縁結び碑」のようだ。女と言ったが、腰に届くほど長い髪で隠れて顔は見えない。紙の下からは枯れ枝のような脚が伸びている。
 顔を上げると三船と目が合う。ずっと自分を観察していたのだと知る。
 映像は続いている。菊池は、パソコン画面に目を戻した。
〈紙の化け物〉はエレベーターに近づいてきている。
 脚を引き摺りながら、ゆっくりと。
 時折ノイズで乱れる映像は、まるで悪夢を録画したみたいだ。
 先にエレベーター内にいた女性は、壁にぴったりと背中をつけていた。低い画質でも慄いている表情はよくわかる。だが、彼女が怖がっているのは〈紙の化け物〉ではなく、さっきから壁際で半狂乱になっている日下部だった。その証拠に、彼女は隙を見てエレベーターから飛び出した。化け物のすぐ横を素通りして。
 まるで、化け物なんて見えていないみたいに。
 日下部がボタンを連打し、エレベーターの扉が閉まる。閉まった扉の小窓に、化け物のぼさぼさの髪の一部が覗く。やがて箱はゆっくりと上昇を始め、扉が再び開くと、日下部は転がるように外に出た。映像はそこで終わった。

「……何ですか、これ」
「それを訊きにきてん」
 三船は口許に笑みをたたえていたが、眼鏡の奥の目は笑っていなかった。
「この女の人にも話聞いてんけど、。日下部さんは、何もない空間に怯えてパニックになってたってことになる。何で?」
「……は?」
「そう言えば、宮原すみれさんも同じサークルやったね。調べたら、あの子も幻覚症状に悩まされとったみたいや。……なぁ菊池くん、何か知ってることないかな?」
 菊池は黙った。何を言われているのかわからない。
「はっきり言おか。──きみらのサークルで、大麻とか流行ってへん? 覚せい剤とか」
 大麻? 覚せい剤?
 何だそれは。何の話だ。
「別に、きみがやってるとは言わんよ。ただ、知ってることを話してほしい。知ってると思うけど、違法薬物は脳への──」
「ちょ、ちょっと待ってください」たまらず、菊池は手のひらを前に出した。「……え、見えてないんですか? 紙まみれの化け物みたいなのがいたでしょ? いましたよね?」
 真っ黒になったパソコンの画面を指さす。真っ直ぐ目を見て訴える。
 三船は目を逸らして、ふっと鼻で笑った。
「……そういう戦法は賢いと思わんけどなぁ」
 ぽつりとそう言って、パソコンをリュックにしまった。そして、「また話聞かせて」と言い捨てて、扉を閉める。
 閉まる直前に見えた彼の顔は、もう笑っていなかった。

 何が起きているのかわからなかった。一人きりの家で、取り残された気分だった。
 不可解な映像。不可解な刑事の態度。そして不審な宮原と日下部の死。
 それらがぐるぐると混ざって、一つの仮説が頭の中で膨らんでいく。
 つまり──、『……。
 三船には〈紙の化け物〉が見えていなかった。エレベーターの女性にも。
 見えていたのは、宮原と、日下部。
 そして二人は死んでいる。
 高所から飛び降りて自殺している。
 だったら──俺もそうなるのではないか。
 いつまでそうしていただろう。外からカンカンとアパートの階段を上る足音が聞こえて、菊池はハッと我に返った。そして、それまでとは別の理由で固まってしまう。
 足音がトットットと外廊下を歩く音に変わり、鍵穴を回す音と、扉が閉まる音がした。ホッと溜め息を吐く。そして、聞き慣れているはずの音に恐怖している自分に気づく。
 ……馬鹿馬鹿しい。呪いなんてあり得ない。そう思う反面、「もしかしたら」と考えてしまう。ノイズに歪む〈紙の化け物〉が脳裏をよぎる。
 じっとしていられず、菊池は外に出た。二階建てのアパートの角部屋。そこが菊池の下宿だった。錆の浮いた鉄階段をカンカンと鳴らして下りる。静かな夜に、その音は不気味なほど大きく響いた。
 蒸し暑い夜だ。風は生温く、少し歩いただけで肌がべたつく。どこかでジジッと蟬が飛び立ち、規則正しく並ぶ街灯には漏れなく大量の蛾がまとわりついている。
 しばらく歩いたところで、菊池の足は止まった。
 数メートル先にある街灯。その下で、白い何かが闇に浮かんでいる。
 街灯が地面に落とした光の円の中心、道路の真ん中で。
 一瞬止まった呼吸はすぐに再開して、徐々に荒くなっていく。
 そいつは、明らかにこっちを見ていた。ぼさぼさの、黒い、重い、髪の毛の奥から。

「…………は、自らノ意……で」

 声が聞こえた。金属音が混じった耳障りな声。──奴だ。距離があるせいでほとんど聞こえないが、こっちに向かって語りかけている。
「……は、自らノ意……で、……に……を……シタ」
 名前を呼ばれた。それだけで、全身の肌が粟立つ。
 脚と同じくらいか細い腕が、紙の束の中からすうっと現れた。その手をこっちに伸ばしている。銅像のような緑青色の手。──およそ人間の肌の色じゃない。
 その手にすでに摑まれているかのように、身体は恐怖で動かない。
「……やめろ」
 声を絞り出す。喉は痛いくらいに渇いている。
「キ、クチ、ト、ウマは、」
「やめろ」
 ず……と脚を引き摺るようにして、奴が近づいてくる。
 頭の中で叫ぶ。──動け。動け何でもいいから。
「自ら、ノ意……で、」
「やめろ!」
 夜闇に声が響いた瞬間、身体が自由になった。
 菊池は踵を返すと、全速力で走った。今来た道を駆け抜けて、アパートの部屋に戻る。
 ドアを開けて中に入るとすぐに閉めた。施錠してチェーンをかける。
 のぞき穴を恐る恐る見る。──いない。廊下の手すりが見えるだけだ。
 安堵の溜め息が漏れる。菊池は居間の方へ振り返ると、壁にある照明のスイッチを押した。そして──その場で崩れ落ちそうになる。
 蛍光灯の白い光の下。置き忘れていた携帯電話の横。
『ゆうずど』の本は、いつの間にかそこにあった。
 我が目を疑う、何で、どうして。だが、その疑問に答えてくれる存在はいなかった。今のわずかな留守の間に誰かが入って置いていったのか。……そんなはずはない。
 恐る恐る近づく。その表紙には、宮原すみれの掠れた血痕が残っていた。間違いなく、日下部が彼女の自殺現場から持ち去ったものだ。これが今どこにあるべきなのかはわからないが、少なくとも自分の家ではない。
 本からは──がはみ出していた。


   三

 三百人以上を収容できる大教室に、次々と学生が集まってくる。
 最後列から数えて三番目の講義机に、サークル長である田辺夕香里たなべゆかりは座っていた。ダンガリーシャツの下に白いワンピースを着ていて、腰には茶色のベルトを巻いている。周辺の席には彼女の友人と思しき数名が陣取っていて、通路に立つ菊池を品定めするようにチラチラと見ていた。
「ゆうずど……聞いたことないけどなぁ」
 田辺は腕を組んで小首を傾げる。固定式の長机の上には「異文化マネジメント論」の教科書とルーズリーフが置かれていた。
「部室にあった本なんです。何か、もっと上の先輩から話を聞いたことないですか?」
「いやぁ別に。引継ぎにもそんなん書いてなかったし」
 細い顎をピンク色の爪で撫でながら、彼女はのんびりとそう言った。
「てーか、何でその本のこと調べてるん?」
 菊池は、一瞬言葉に詰まる。『ゆうずど』は呪いの本で、呪いを解く方法を見つけるため、とは言えなかった。
「それは……宮原さんとひかべぇ先輩が、その、読んでたみたいで」
「え、それで、二人の死にその本が関係してんちゃうかって?」
 田辺はくすっと笑った。
「……真剣に調べてるんです」
「そっか。菊池くん、ひかべぇと仲良かったもんなー」
 そう言って教室の前を見る。上下に並んだ二枚の黒板の前には、まだ誰もいない。
「でもごめん。何も知らないや」
「……じゃあ、これまで他に、サークルで飛び降り自殺ってなかったですか?」
 もしもあの本がずっと部室にあったなら、宮原たち以外にも犠牲者は出ているはずだ。そう思って訊いたのだが、田辺は眉間に皺を寄せた。
「何訊いてんの……」
「いや、あの、冷やかしとか、面白半分やないんです。も、物語と自殺志願者の心理的な関係っていうか、そういうのを研究したくて」
 苦しい言い訳だったが、田辺は一応納得したらしい。それでも言い淀んでいる様子だったので、菊池はもう一押しすることにした。
「……正直、ひかべぇ先輩が死んでから気持ちがしんどくて。でも、そういう心理を研究してる間は自分を客観的に見れるって言うか、落ち着く気がして……」
 田辺は、菊池の目を見た。これ以上サークルから自殺者が出たらたまらないと思ったのだろう。「……あんま言うなって先輩に言われててんけど」と前置きしてから、
「何かね……十年くらい前に、ことがあったらしいよ」
 声を潜めてそう言った。心配しなくても、周りは雑音だらけで誰も聞いていない。
「飛び降り自殺ですか」
「それはわかんないけど、サークルの存続が危ぶまれる事態やったって、OB会で酔った先輩が言うてたわ。六人くらいが次々と亡くなったらしい」
 想定していたよりも大きな数字に驚く。同じ大学で同じサークルに所属している六人が続々と自殺したのなら、もっとセンセーショナルな事件になっていたと思うが。
「確か、××小事件があった年やから、そっちに隠れちゃったんやない?」
「その人たちって『ゆうずど』を読んだんですか?」
「さぁ。それは知らないけど」
 読んだに違いない、と菊池は思った。だが、「連続して」「次々と」と表現するからには、六人はかなり短いスパンで死んだと想像できる。つまり、六人はほとんど同じ、あるいは近いタイミングで本を読んだ──『ゆうずど』に呪われたことになる。中学生男子が『ジャンプ』を回し読みするんじゃあるまいし、そんなことがあるだろうか。
 そう考えたところで、ハッと思いつく。──読書会だ。一冊の課題図書を何人かで読み、意見交換などを行う場。
 恐らく、六人はサークル活動中の読書会に『ゆうずど』を課題図書として選んでしまい、一斉に呪われてしまったのだ。ならば、『ゆうずど』は十年前にも「黒猫の森」の部室に潜んでいたことになる。
「……何? 『ゆうずど』って読んだら自殺する本なん?」
 田辺の疑問に、菊池は「そうかもしれないです」と言うに留めた。彼女は苦々しい顔をして、「それ、部室に戻さんと捨てといてな」と軽口を言う。
 ……捨てられるものなら、とっくに捨てている。
「うーん、じゃあ、私がOBの人に訊いといてあげよっか?」
「え、ほんまですか?」
「いきなり電話すんのハードル高いでしょ? しかもそんな暗い話題で。就活で相談することもあるし、ついでに訊いといてあげるよ。『ゆうずど』のことと、事件のこと」
 田辺は事件とは何の関係もない。悪いと思ったが、自分の命が懸かっているのだと思い出す。すみませんお願いしますと頭を下げると、彼女は満足げに笑った。後輩を二人も喪い、自分にも何かできることはないかと探していたのかもしれない。
 ちょうどそのタイミングで教員が入ってきて、菊池は入れ替わるように教室を出た。

 その後、遅れて「心理学概論」の講義に出席したが、まったく集中できない。する気がない、といった方が正しい。教壇ではまるまると太った教員が教科書を平坦な声で読み上げている。
 菊池は、今わかっていることをノートに書き連ねてみた。

 ・『ゆうずど』を読んだら呪われる(最後まで読まなくてもアウト)
 ・呪われたら死ぬ ←宮原、日下部のように飛び降り自殺
 ・〈紙の化け物〉が見えるようになる →呪われた人間だけ?
 ・本は一九九九年刊行(角川ホラー文庫)

 こんなものだろうか。ペンを置きかけて、もう一つ書き忘れていたことに気づく。

 ・『ゆうずど』は捨てても戻ってくる

 それは、今朝確信したことだった。
 今日が七月の二十七日。二十五日の夜に〈紙の化け物〉を見て、二十六日の朝に菊池は本を駅のゴミ箱に捨てた。その日は大学に行く気になれずアパートに帰ると、家のドアに立てかけてあったのだ。
『ゆうずど』が。まるで菊池の帰りを待つかのように。
 誰かが駅で捨てるのを見ていて、先回りして家の前に──そんなあり得ない空想、いや、現実逃避をしてしまう。
 菊池は本を摑むと、家に入らずアパートから離れた。もう一度駅に捨てて、家に戻る。扉を開けて、菊池はぎょっとした。今度は家の中に落ちていた。
 午後になると、『ゆうずど』をリュックに詰めて三宮に出た。どこに捨てていいかわからず、あてもなく繁華街を彷徨い、最後には駅のコインロッカーに本を放り込んだ。だが、目覚めると本は枕元にあったのだ。
 逃さない、と本に言われている気がした。

「──何そのメモ。呪い?」
 隣に座っている飯山が、ノートを覗き込んで小声で言った。同じゼミ仲間で、この講義を受けるときはよく並んで座っている。
「あー……あれ、サークルで作る冊子のネタ」
「へー、そっか、お前文芸部やったな」
 部ではないが、別に訂正もしない。そんなことよりも、田辺のときといい、自分がこうもスラスラと噓をつけるのは意外だった。
「てかさ、ゼミ飲み会やらん? まだ学生だけで集まってないん、うちくらいやぞ」
 二の腕が触れる距離まで近づき、ひそひそと言う。
「ええけど、お前幹事するん?」
「いや、誘って断られたら傷つくからさー、先に根回ししよかと。やるってなったらお前来てくれるやろ? 来週あたり」
 うん、と返事をしてから、そのときまで果たして生きているだろうかという考えが頭をよぎった。その途端、手のひらにじわりと汗をかく。飯山が「みんな来てくれっかなー」と独りごちる横で、菊池は無表情を取り繕うのに必死だった。
 大事なことを忘れていた。
 いや、目を逸らしていた。
 微かに震える指で、菊池はノートに新たに書き加える。

 ・呪いのタイムリミットはいつなのか?

 宮原すみれの方は不明だから置いておいて、日下部が『ゆうずど』を読んだのはいつだろう。十九日に読んだと仮定して、日下部が身を投げたのが二十五日だから、六日で期限が訪れたことになる。
 菊池も本を読んだのは十九日だが、二日前まであんな化け物の姿は見えなかった。恐らくだが、呪いには順番があるのではないだろうか。つまり、日下部が死んだ二十五日に、──
 ということは、自分も日下部と同じように、呪われてから六日で死んでしまうのだろうか。……二十五日から数えて、もう二日経っている。つまり、あと四日。あまりに唐突な余命宣告に、菊池はその場で喚き散らしたい衝動に駆られた。
 よく考えてみれば、一日は休んだとは言え、自分は何でこれまでどおり大学の講義など受けているのだろう。……きっとこれも現実逃避だ。『ゆうずど』はただのホラー小説で、呪いなんて気のせいで、自分はこれから何事もなくキャンパスライフを送れる──そう思いたいから、無理やり日常を続けようとしている。
 飯山は板書を写しながら「どこの店がええかなぁ」などとつぶやいている。その能天気さがつい先日までの自分にもあったことが信じられなかった。
 ふと思いつく。……呪いを誰かに移すことはできないのだろうか。
 たとえば、横にいる男に。
 菊池は、リュックに入っている『ゆうずど』を思った。あれを飯山に読ませたら。もしかしたら、あるいは──いや、ダメだ。
 菊池が本を読んだのは日下部が死ぬ前だったが、日下部は助からなかった。他人に本を読ませても、自分の呪いが解けるわけじゃない。ただ徒に犠牲者を増やすだけだ。
 菊池は前髪を搔き上げた。……もしも今すぐに呪いを誰かに移すことができるなら、喜んで移すだろう。当然だ。命が助かる道があるのにむざむざ他人に譲るなんて、自殺志願者のやることだ。
 自殺志願者──父は、こんなおぞましいものを求め、受け容れたと言うのか。
 死を。死の恐怖を……。
 ふと顔を上げて、菊池は凍りついた。
 教室の前方。黒板の前、教壇に立つ教員の隣。
 そこに、〈紙の化け物〉が立っていた。
 真っ昼間から、明るい蛍光灯の下で、そいつは当然のようにそこにいた。
 だが、その異質な風貌のせいで全く風景に馴染めていない。
 なのに、誰も何も言わない。視界に入っているはずの学生はおろか、触れそうなほど近くにいる教員さえも。
 やはりあれは、自分にしか見えていないのだ。
「……ピラミッドの一番下の段にあるのは、『生理的欲求』です。これは、生きるために最低限必要な欲求ですね。人間の三大欲求、食欲、性欲、睡眠欲もこれに該当し」
「キ、クチ、ト、ウマは」
〈紙の化け物〉は、がりがりに痩せた脚を一歩踏み出した。よろけるように、さらに一歩。そのたびに、ぼさぼさの黒い髪が束になって揺れる。
「二段目が『安全の欲求』。一段目よりも高次な欲求ですね。身体的・経済的に安心できる環境で暮らしたいという欲求で、たとえば戦争状態ではこの欲求が満たされず」
「自ら、の意思で」
 机と机の間にある階段通路を上ってくる。大量の紙が擦れ合ってカサカサと鳴る。
 まだ距離があるのに黴臭い匂いが鼻につく。すぐ横を通られた学生も気づいていない。
「三段目。『社会的欲求』。このへんになると、日本で暮らしていても満たされない人が出てきます。これは家族や会社など社会的な集団に属していたいと感じる欲求で」
「ロ……」
 皮と骨だけの腕が、紙と紙の間からずずっと出てくる。錆のようなくすんだ緑の肌。それはところどころ腐ったように黒ずみ、長い指の先にある爪がすべて割れたり剝がれたりしていた。
「わに、く」
 耐え切れず、菊池は叫んだ。
 教員が驚愕の表情を浮かべる。教室にいた学生たちは一人残らず菊池を見た。
〈紙の化け物〉は瞬き一つ分の間に消えている。
 いたたまれず、菊池はリュックに筆記用具を詰めると、逃げるように教室を後にした。

 図書館は「学術資料館」と呼ばれる建物に入っていた。館の自動扉を抜けると、教育棟からここに来るまでに温められた身体が一気に冷やされる。一階にはいくつかの会議室と事務室があり、図書館は二階だ。階段を上り、扉が開け放された図書館に入る。受付カウンターの横にある検索用の端末に近づくと、菊池は荒い息のまま「ゆうずど」と打ち込んだ。
 検索結果は0件──どのキャンパスにも蔵書なし。
 わずかに期待していただけに、がっくりきた。もしもここに別の『ゆうずど』があるなら、貸出記録を教えてもらい、生き残った人に話を聞けるかもと思ったのだ。その人はひょっとしたら、呪いを解くことに成功したかもしれないから。
 図書館を出ると、すぐ横にある「情報処理室」に入る。そこには学生用のパソコンが並んでいた。菊池以外にも何人かの学生がいて、熱心にキーボードを打っている者もいれば、机に伏して寝ている者もいる。
〈紙の化け物〉がいないことを確認してから、手近な席に着く。パソコンの電源を入れて、学籍番号とパスワードを入力。ブラウザを起動すると、検索バーに再度「ゆうずど」と打ち込んでエンターキー。
 いくつかヒットした。が、古着や中古物品の販売サイトばっかりだ。「ゆうずど ホラー小説」で検索し直すと、ヒット数は激減したが、確実に『ゆうずど』のことが書いてあるであろうサイトばかりになった。多くは書評メインの個人ブログ。中には中古販売サイトもあるが、これは『ゆうずど』を出品しているページが出てきているらしい。
 自分以外にも読んだ人はたくさんいる──。出版社から出されているので当然だが、その事実が菊池を勇気づけた。きっとこの中には呪いに打ち勝った者もいるはずだ。
『ゆうずど』についてはまだほとんど何もわかっていない。本のことを調べつつ、その人物と何とかコンタクトを取り、呪いを解く方法を教えてもらう──それが、生き残る近道のように思えた。
 早速、個人ブログの一つにアクセスしてみる。

『ちぇちぇ様のおひとりごと』
 2011/05/24
「次の作品は……」
 今回読むのはこの作品! 鬼多河りさ著『ゆうずど』!
 古本屋でようやく見つけました~(歩き回って足が痛い!)
 こちらはなんと、上梓してすぐに作者が自殺したという、イワクツキの作品!
 しょーじき、ホラー好きにはたまらないスパイスですよね~(ゲス顔)。楽しみ♡
 読み終えたらまた感想アゲアゲしますね♪

 鬼多河りさは自殺していたのか。飛び降りだろうか。そこまでは詳しく書いていない。とにかく新情報だ。ノートに「・鬼多河りさは自殺している?」と書き足す。
 それから感想を読もうと思ったら、その日以降の記事はなかった。
 別のブログを見ることにする。

『作家志望のカラクチ書評日記 ~僕ならこう書きますけどね……~』
 2008/12/17 「ゆうずど」
 友達から借りて、鬼多河りさ「ゆうずど」を読みました。「ゆうずど」というタイトルの呪いの本に翻弄される五人の人間の結末を描いたホラー連作短編集、かな。
 感想を書く前に、最終章の主人公の名前が僕と同姓同名でビビりました。
 (↑これ、言っていいのか?笑)
 こんな偶然ってあるんですねぇ。おかげでその章は感情移入出来て楽しめたかな、と。
 で、総評。……うーん、何でこれが出版されて、僕がデビュー出来ないわけ?
 出版業界の夜明けは遠い(泣)

 そう言えば、と、菊池はまだ最後まで『ゆうずど』を読んでいないことに気づいた。捨てることに躍起になっていて、本そのものを調べることを忘れていた。いや、無意識に避けていたのだろう。
 本は今もリュックにある。十秒ほど逡巡して、別のブログに移動した。

『ゴクツブシロー流 本の旅』
 今回の旅は、鬼多河りさ先生作の『ゆうずど』。角川ホラー文庫様ですね
 先週の休日に、フリマで出会った、ホラー本です
 本作は、『ゆうずど』という、いわゆる「呪いの本」を軸にした、全六篇の短編集。せっかくなので、一日一篇ずつ、読むことに。本は、心の旅路。じっくり、何泊もして読みますよ
 でも、何だか、買ったときに挟まっていた栞が、勝手に動いているような……
 あと、途中、家の中に、作中に出てくる怪異「ゆうずど」の姿が見えて、仰天
 そんな幻覚を見てしまうくらい、ホラーな旅でした

 追記…最終章には、私だけに向けたサプライズが。読書好きとしては、嬉しい限り
2002年9月9日  恐怖の車窓から

 菊池はある恐ろしい事実に気づいた。……今読んだブログは全て、『ゆうずど』を読むこと、もしくは読んだことを報告したのを最後に、更新が途絶えていた。
『ゆうずど』の呪いは実在する。最早怯えている場合ではないのだ。菊池は、足許に置いていたリュックから本を取り出した。掠れた血の痕が残る表紙。黄ばんだ紙。
 あることに気づいて、菊池は目を細めた。
 本に挟まれていた黒い栞。
 二十五日の夜に見たときには冒頭部分に挟まっていたはずのそれが、移動していた。ページ数は、60ページ。
 おかしい。こんなに読んでいない。

「──菊池くん?」
 涼しげな声が背後から聞こえ、菊池の肩は激しく跳ねた。
 振り返る。白いノースリーブを着た女性が立っていた。
「海老名さん……」
「……おつかれ。一昨日はごめん。すっかりパニクっちゃって」
「いや……」
「あの後、警察の人と何話したん?」
「よくわからんこと言うてたよ。サークルで薬物が流行ってないかとか何とか」
 海老名は一瞬激昂しかけて──すぐにしゅんとなり目を伏せた。
「そっか。宮原さんも智樹も、そう思われても仕方なかった、のかな。……何してるん?」
 ふいに、海老名はパソコンの画面を覗き込んだ。「……呪い? ゆうずどって、これ」
「いや、これは」
「……智樹のこと調べてるん?」
 正確には違うが、彼の死の真相を突き止めることにもなる。菊池は、ややバツが悪そうに頷いた。
「智樹も読んでたよ、変なタイトルやから憶えてる」
「まさか、海老名さんも読んだん?」
 菊池は一瞬焦ったが、海老名は「ううん」と首を横に振った。
「それ、宮原さんが読んでたやつなんよね? 何となく気持ち悪くて……」
 ホッとすると同時に、羨ましかった。この子は呪われていない。これからも生きられる。ついこの間まで当たり前だと思っていたのに。
「でも、どんな本なんかちょっと気にはなるよね」
 と、海老名が菊池の持つ『ゆうずど』に手を伸ばしかけて──菊池は思わず怒鳴った。
 海老名は驚いて手を引く。周囲の学生がこっちを見る。眠っていた学生も飛び起きて、部屋の中をキョロキョロと見回していた。
「何で、そんな……」
 海老名の目は、あからさまに不審がっていた。
「いや、違くて……これは」
 さっきまでスラスラとつけた噓が出てこない。理由はわかっていた。……俺はこの子に、話を聞いてほしいと思っている。呪いのことを誰かに話したいと思っている。
 海老名は呪われた日下部を近くで見ていた。彼女なら、信じてくれるかもしれない。
「海老名さん、ちょっと」
 二人は場所を移した。図書館の下、一階にある会議室の一つに入る。そこで菊池は、『ゆうずど』の呪いと、日下部に起きたであろうことを話した。海老名は何とも言えない表情で、黙って聞いていた。
「──それで、この本はほんまに変やねん。ついさっきやけど、栞が勝手に移動してることに気づいた。この黒い栞が」
 本を手に持って見せる。海老名の眉間に皺が寄った。
「そうなんや。……で、?」
「……え?」
「智樹も言うてた。黒い栞が結末にどうとか……。あたしには見えない。菊池くんにも見えてるってこと?」
 言われている意味がわからず、菊池は言葉が出なかった。
「二人でおんなじ幻覚を見てるってこと?」
「え、海老名さん……この栞、見えてないん?」
「……変やで、菊池くん」
 そう言うと、海老名はトートバッグを摑んだ。怯えた目でこっちを見ている。
 用事を思い出したからと告げて、彼女はそそくさと会議室を出ていった。
 呆然と椅子にかけたまま、菊池は遠くで自動扉が開く音を聞いた。
 本を見つめて考える。
 ……この栞は、呪われた人間にしか見えない。
 ならば、この『ゆうずど』という怪異が自分にだけ伝えたいこととは何だ。
 日下部も、栞が結末にたどり着くことを恐れていた。彼は気づいたのだ。
 この黒い栞が、呪いの期限──死へのタイムリミットを示していることに。
 本を開く。ページは自然と、栞が挟まっている場所になる。菊池は、そっと本の最後のページを開いた。呪いの期限を知るために。
 ページの上部に書かれている数字は、「304」。
 だが、それよりも菊池の目を奪ったのは、ある文章。

 菊池斗真は自らの意思で

 その一文すら読み終わる前に、菊池は本を閉じていた。
 いつしか心臓が早鐘を打っていた。冷房が効いているはずなのに全身から汗が噴き出す。
 本に書かれていた自分の名前を見て、菊池は自分が呪われているのだと改めて実感した気がした。そして、確実に「死」という結末に近づいていることも。
 呪いのタイムリミットは、読み始めてからの日数で決まるものではない。

 俺の命は──あと239ページ。


   四

 ・『ゆうずど』を読んだら呪われる(最後まで読まなくてもアウト)
 ・呪われたら死ぬ ←宮原、日下部のように飛び降り自殺
 ・〈紙の化け物〉が見えるようになる →呪われた人間だけ?
 ・本は一九九九年刊行(角川ホラー文庫)
 ・『ゆうずど』は捨てても戻ってくる
 ・鬼多河りさは自殺している?

 ・呪いのタイムリミットはいつなのか? →黒い栞が結末にくるまで
 ・本の結末(最終章)の主人公は呪われた人間の名前になる

 大学近くの駅にある喫茶店。ノートを見ながら、菊池は頭を抱えた。
 今日は七月二十八日。三日かけてこれだけのことがわかったが、肝心の呪いを解く方法については何もわかっていない。焦りがじりじりと身を焼く。
 一晩で『ゆうずど』の四章まで目を通したものの、最終章はまだ読めていなかった。恐ろしかったのだ。自分の死が描かれている本。何もなければ面白がって読んだかもしれないが、今は状況が違う。
 理由はもう一つ。ある可能性を思いついてしまったからだ。つまり──結末まで読んだときに、呪いが執行されるという可能性。
 だったら本を読み切らなければいいが、恐らくあの栞がそれを許さない。黒い栞が結末まで辿り着いたとき、呪われた対象も「読んだ」と判定されるのかもしれない。
 迂闊なことはしない方がいい。
 しかし、そんな考えでは何もできない。
 葛藤の中で、焦燥感だけが募っていく。
 栞はすでに122ページまできている。
 残りページ数は……182ページ。
 二十七日の時点で65ページだったので、てっきり一日につき30ページくらいのペースで進んでいくのかと思いきや、そうでもないらしい。もしも栞の進行速度にムラがあるならば、呪いの期限を推測することは難しくなる。最悪、明日期限を迎えてもおかしくはないのだ。
 はっきりとしているのは、このままでは死ぬということ。
 恐らく。宮原や日下部のように、高い場所から飛び降りて。
 一刻の猶予もない。菊池は携帯電話を手に取ると、角川ホラー文庫編集部の電話番号を調べた。だが、代表の番号しか載っていない。
 意を決して代表に電話してみるが、ナビダイヤルに繫がり、ようやく出てきた女性に事情を説明しても「そのような商品は取り扱っておりません」「当方でご提案できることはございません」と取り合ってもらえなかった。
「この本を作った編集者さんがいますよね? ただその人に繫いでほしいだけなんです」
「そうおっしゃいましても、お繫ぎすることは出来かねます」
 否定を繰り返す女性の声は、ナビダイヤルの音声と同じくらい冷たかった。
 何度も携帯電話に向かって「呪われてる」「もうすぐ死ぬ」と主張していたせいか、喫茶店の客たちからの注目が集まっている。
 菊池は、飲みかけのコーヒーも置いて店を出た。

 二十九日には、岐阜県にある人形供養で有名な寺に向かった。
 応対したのは、五十代くらいの住職だった。菊池を見るなり苦々しい表情を浮かべると、「えらいもんを持ってきましたな」と一言言った。
「できる限りのことはしますが、これは保証できません」
 真剣な声でそう言われ、菊池はとんでもないものに巻き込まれたのだと改めて痛感する。他に頼るところもなく、菊池は何度も頭を下げて、寺から離れた。
 帰り道は、行き道よりも気が急いた。恐らく物理的な距離など意味がないとわかっていても、少しでも早く、遠く、あの本から離れたかった。
 そして、真っ暗なアパートに帰り電気を点けると、本は机の上にあった。
 菊池はその場に膝から崩れ落ちると、近隣のことも気にせず大声で泣いた。
 残りページ数は、151ページ。

 三十日の午前十時半。
 菊池は、京都府亀岡市にある実家を訪れていた。JR線を乗り継いで京都の亀岡駅まで二時間。そこから亀岡市ふるさとバスに乗って二十分ほど。緑が眩しい田園風景の中を少し歩いてようやく辿り着く古びた一軒家。
 ガラガラと引き戸を開けると、奥から訝しげな顔をした母が出てきた。──細い身体つき。頭頂部が黒くなった茶髪。年齢よりも老けた顔。
 彼女は、突然帰省した菊池を見て目を丸くした。
「え、何で帰ってきたん?」
「……ええやん別に。息子が帰ってきて嬉しないん?」
「そら嬉しいけど、早よ言うてくれたら準備したのに」
 ほんまこの子は、と小言を言いながらも、その横顔は嬉しそうだ。
 四か月ぶりに入る居間は菊池がいたときよりも片付いていて、猫の置物が増えていた。菊池が家を出た後に、母が買ったのだろう。
「先にお父さんにあいさつしぃ」
 今しようと思ったのに、と若干苛立ちつつ、菊池は居間の隣にある和室へ入った。窓際に置かれた父の仏壇もまた綺麗に整理整頓されている。控えめな笑みを浮かべた父の写真の前には、皿に並んだ桃と、紙パックの雪印コーヒーが供えられていた。どちらも父の好物だ。
 線香をあげて戻ると、「買い物行ってくるから」と母がポテトチップスとチョコレート、饅頭などを置いていった。それはまるで、息子を家に引き留めるための餌のようだった。
 帰って来た母は、「昼は焼きそばでええ?」と訊いてきた。案外質素なんだなと思っていると、「夜はすき焼きしたるから」と見るからに高そうな肉のパックを見せてくれた。
 焼きそばを平らげると、菊池は母を散歩に誘った。母は「この暑いのに」と言いながらも出かける準備を始めた。
 蟬はきっと神戸よりこっちの方が多いはずなのに、不思議とその鳴き声はうるさく感じない。どこまでも広い空へ、音が抜けていくようだった。アスファルトの道には大量のミミズが干からびて死んでいて、道路の両脇にある白いガードレールが午後の陽射しを眩しく反射する。小さな川のそばに紫陽花が密集していたが、そのほとんどは茶色く枯れ始めていた。
「どこまで行くん?」
 斜め後ろを歩く母が訊く。行く当てはなかった。ただこうして、母と同じ時間を過ごしていたい。
 そのとき、左手に広場が見えてきた。公園だ。よくここに来て一人でボール遊びをしたと思い出す。
 そこは、父が首を吊った公園だった。
 振り返ると、母は足を止めていた。つばの広い帽子の下は無表情だ。
「斗真。……帰ろ」
 母は返事も聞かずに踵を返す。菊池は何も言わず、その薄い背中を今度は追いかけた。

 夜は宣言どおりすき焼きだった。桜色の牛肉と甘辛い匂いに、最近は失われていた食欲が刺激される。ぐつぐつに煮えた具材を卵に絡めて食べると、涙が出るほど旨かった。
「大学は行ってる? ちゃんとご飯食べとん?」
「行っとるよ。ご飯もたまに自炊してる」
「やっぱりこの家から通ったらよかったのに。京都と神戸なんかすぐや」
「嫌やわ、毎日何時間もかけて通学とか」
 母は大学生活のことを根掘り葉掘り聞いた。菊池は、宮原と日下部の自殺のことは言わなかった。そのうち母が缶ビールを差し出してきた。いっそ酔っ払ってしまいたかったが、そんな気分にもなれない。けれど、そのおかげで顔を赤らめながら楽しそうに笑う母の顔をしっかり見ることが出来た。
「いつ帰るん?」
「明日の夜には」
「そうか。ほな明日は焼肉にしよか」
 三本目のビールを呷った母は「お父さんにもあげたろ」と父の仏壇に缶ビールを一本置いた。しばらく仏壇の前でじっとしていたかと思うと、テーブルに戻って来て一言、
「斗真は絶対、自殺なんかせんでね」
 と言った。
 その瞬間、また幼い頃の記憶が蘇った。──いつかの夜。今みたいにアルコールを飲んだ若かりし頃の母が、パジャマ姿の菊池に向かって言う。
「自殺なんて、アホのやることやわ。パパはほんまにろくでもないパパやったね」
 居間と和室の間に立つ菊池に、母はいつまでも父への恨み言を聞かせた。
「あんな人を選んだあたしもアホや。蛆虫以下や。死んで当然やで」
 菊池は口には出さなかったが、ずっと心の中で母の言葉に応えていた。
 ……わかってる。僕は絶対「ジサツ」なんかせぇへん。パパみたいにはならへん。
 ママを悲しませるようなことは、絶対にせぇへん。約束する。

 ──だからもう、パパの悪口は言わんといて。

 かん、と軽い音で意識が現実に戻る。空になった缶を、母がテーブルに叩きつけた音だ。
「……せんよ。わかってる」
「約束やで」
 だらしない笑みを浮かべると、母は缶を握ったまま、テーブルに伏して寝てしまった。菊池はコンロの火を消すと、母を隣の和室に連れて行き、敷いた布団に寝かせた。
 居間に戻った菊池は、リュックから『ゆうずど』を取り出した。その栞がまた移動していることを確認する。
 残りはあと、95ページ。

 翌日、菊池は母にどこかにでかけようと提案した。が、母は二日酔いがひどいし暑いからと断った。仕方なく、家でのんびり過ごすことにした。
 クーラーをガンガンに効かせた居間でテレビを観ていると、あっという間に夜になった。晩ご飯は、昨日母が言ったとおり焼肉だった。買い物に行かなかったところを見ると、昨日のうちに買っていたらしい。
 夜の八時頃に家を出た。母に亀岡駅まで送ってもらい、そこで別れる。
「夏休みはもっと長いことおり」
 母はそう言って、菊池が駅に入るまでずっとロータリーで見守っていた。

 電車に揺られながら、菊池は「死ぬわけにはいかない」と改めて思った。
 そのためにはどうするべきか、朧気に浮かんでいた方法を実行する決意を固める。
 ……残りはあと、53ページ。


   五

 そして、八月一日。
 アパートで目が覚めた菊池が枕元の本を見ると、栞の位置はほとんど結末に近かった。
 恐らく、もう最終章に入ったことだろう。そして、結末──呪いの期限は今夜、早ければ夕方には訪れるはずだ。だが、まだ時間はある。
 菊池は、部屋の隅に置いてあった袋を開けた。二十九日に、寺からの帰りにホームセンターに寄って買ったものだ。中には、作業用のロープが入っている。
 菊池はその強度を確かめると、
 胴体に何重にもロープを巻き、しっかりと結ぶ。一人だけでの作業は思ったよりも難航したが、何とか出来た。背中はぴったりと柱にくっついていて、身動きは満足に取れない。……これでいい。あとは、絶対にこの部屋から出ないこと。
 ことだ。
 こう考えたのだ。……呪いが解けないなら、呪いを実行させなければいい。
 このアパートは二階建てで、落ちたところで命に係わることはまずない。『ゆうずど』が自分に飛び降り自殺をさせたいなら、まずは高い建物に連れて行く必要がある。
 だから、それを阻止してやる。
 部屋の姿見に映る自分は、とてもまともには見えなかった。それでも、もうこの方法しかないのだ。
 菊池は、ただひたすら「結末」が訪れるときを待った。部屋の中では、クーラーの稼働音だけが聞こえる。冷房が効いているおかげで熱中症になることはない。そばには水の入ったペットボトルが置いてある。だが、緊張のせいかやたらと喉が渇いて、午前中で三分の二ほども飲んでしまった。午後は節制しなければならない。
 じっとしていると、ふと紙同士が擦れ合うような音が聞こえた。
 心臓が縮み上がる。しかし、〈紙の化け物〉の姿は見えない。まだ時間があるのだ。
 トイレに行きたくなったが、もしロープを外した瞬間に外へ連れ出されてはたまらない。事が終わるまでは動かず、ただ待つ。漏らすことが何だ。命には代えられない。
 時計の音が規則的に鳴る。……どれくらい経っただろう。
 すると、手許にある携帯電話が、けたたましく鳴り始めた。
 ひどく驚いたが、いい眠気覚ましになった。携帯電話を取って開くと、表示されていた名前は「田辺夕香里」。「黒猫の森」のサークル長だ。
 通話開始ボタンを押すと、鈴のような声が聞こえた。
「──あ、菊池くん? 今、大丈夫?」
 菊池は「はい」と返す。まさか、自宅でロープに巻かれているとは思わないだろう。
「えっと、この前の本──『ゆうずど』のことやけどね、OBの先輩に訊いたらいくつかわかったことがあるから、報告しようと思って」
 そうだった。あれ以来ずっと連絡がなかったのですっかり忘れていた。
「ありがとうございます。……それで」
「うん。その六人の共通点なんやけど──最初の死者が出るちょっと前に、その六人だけで読書会したらしい。そのときの本が『ゆうずど』やったかもって、先輩が」
 やっぱりだ。推理どおり。今更それがわかったところで何の解決にも繫がらないが。

「あと、六人が亡くなった状況なんやけど、まずで、宿になって──」

 え、と菊池は声を漏らした。
 さらに四人目、五人目と死の状況を伝える声を遮って、菊池は訊く。
「ちょ、ちょっと待ってください。……ぜ……全員、飛び降り自殺やないんですか?」
「いや? 死に方はバラバラみたいよ。飛び降りもいたけど、他はみんな──」
 そこまで聞いて、携帯電話が手から滑り落ちた。電話は畳の上に落ちて、少し離れたところまで転がる。田辺がまだ一人でしゃべり続けている声が聞こえる。
 死に方が違う。結末は「飛び降り自殺」に統一されていない。
 その事実が頭の中でぐるぐると巡る。
 ということは、俺の結末も、可能性が──
 そのときまた、紙同士が擦れ合う音がした。
 前へ向き直ると──いた。いつの間に。
〈紙の化け物〉が、閉じたカーテンの前に立っていた。
 薄暗い和室。畳の上に、奴は裸足で立っている。身体についた大量の紙が擦れ合い、かさ、かさ、と落ち葉のような音をたてた。顔は相変わらず長く重たい髪に隠れていて、その表情は一切読み取れない。
 来た──菊池は、全身が硬直するのを感じた。

「キク、チ」

 化け物が自分の名前を呼んだ。金属音に似た声。
 奴は畳の上で脚を擦らせながら、ゆっくりと近づいてくる。
 一歩近づくごとに、餓鬼のような脚が、すり……すり……と音をたてる。
 身の毛がよだつ。全身が粟立つのを抑えられない。

「トウマ、は」

 両脚が勝手に動く。
 身じろぎするたびに、ロープがぎち……ぎち……と擦れ合って鳴る。

「自らの意思で──

 そう聞こえた瞬間、菊池は頭の中が真っ白になった。
 噓だ、とつぶやく。
 ロープを使った死に方なんて、一つしか思い浮かばない。
 それは、菊池がこの世でもっとも忌むべき死に方だった。
 すり……すり……と足音が鳴る。化け物の姿が目の前まで迫ってくる。
 お前は、俺に、飛び降り自殺をさせたいんじゃなかったのか──

「アトは、足の、指先に力を込メるダケ、だ。足と床の間のワずカナ、空間。ソれが生と死ノ間なノダ、と彼ハ知った。タッた、三十センチほドノ隙間。だが、それコソが、決シて、埋まル、コとのナイ、絶対的ナ断絶なノダ、と」

 髪の毛の奥から聞こえる声が、徐々に鮮明になっていく。
 だって、違う、と駄々っ子のように繰り返す。飛び降り自殺だ。宮原も日下部もそうだった。二人連続してそうだったのに、どうして自分は別の死に方になるのか。
 そのとき、ひらめきが頭の中で閃光のように迸った。
 もしや──宮原すみれの「結末」は、「のではないか。
 彼女が残した遺書を思い出す。こんな結末は耐えられない──あれは「飛び降り自殺」のことではなく、彼女が『ゆうずど』に与えられた「結末」を指していた。
 恐らく、のことを。

「ロープガ、首に、食イ込む。ソの瞬間、生キテいル、ウちには味ワう、コトのナいであロウ、禁断ノ快感が、キクチの全身カラあふれ、出しタ」

 緑青色の手が、菊池の肌に触れた。
 吸い付くような冷たい手。気持ち悪い。首から上を激しく振って逃げようとする。
 だが、身体が動かない。菊池は自らの行いを悔いた。
 しかし、もう手遅れだった。
 獣のような咆哮が口から迸る。
 涙があふれてくる。歪んだ視界に化け物の姿がどんどん迫ってくる。
 嫌だ。ダメだ。嫌だ。自殺だけは。
 首吊りだけは、絶対に。

 ──斗真は絶対、自殺なんかせんでね。

 母の声が蘇った。喪服姿ですすり泣く彼女の背中も。
 そして、あの日見た父の最期も。

 ──飛び出した両目。異様に長くなった首。青黒い顔。口からだらんと垂れ下がった赤い舌は、まるで別の生き物みたいだった。異臭がしていると思うと、父の下半身が大きな染みを作っていることに気づく。

 それは──菊池が最も恐れる死の形。
 菊池は、絶叫した。

 ──嫌だ! 自殺は嫌だ! 殺してくれ!
 

 そのとき、緩んだロープが蛇のように首に巻き付く。
 次の瞬間、菊池の身体は見えない力でふわりと浮き上がった。

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介

ゆうずどの結末
著者 滝川 さり
発売日:2024年02月22日

「こんな結末は耐えられない」絶対に読んではいけない、禁忌の本が誕生。
こんな結末は耐えられない――。
大学に入学して3か月、菊池斗真はサークルの同級生・宮原の投身自殺を目撃してしまう。死因に不審な点もなく遺書もあったことから、彼女の死は自殺と断定された。
宮原の死から数日後、菊池は同じサークルに所属する先輩の日下部から、表紙にいくつかの赤黒い染みがある本を手渡される。それは、宮原が死の瞬間に持っていた小説らしい。
「ゆうずど」というタイトルの小説は角川ホラー文庫から刊行されている普通のホラー小説で、特に宮原の死と結びつけるような内容は描かれていなかった。
しかし、本を読んだ日下部はその翌週に自殺をしてしまう。
そして日下部の死後、なぜか菊池の手元には「ゆうずど」の本が現れていた。
何度捨てても戻ってくる本。そして勝手に進んでいく本に挟まれた黒い栞。自分にしか見えない紙の化け物。
菊池は何とか自らに迫る死の呪いを回避するために、ある手段を講じるが――。

その■■を、絶対に読んではいけない。
あなたの身に恐怖が迫る、新感覚ホラー誕生!

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322306000297/
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