「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞! 中山史花『美しい夜』(単行本)発売記念 大ボリューム試し読み【7/10】

文芸・カルチャー

公開日:2024/5/21

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞!
新鋭・中山史花さんによる、みずみずしい感性で描かれた物語『美しい夜』を大ボリュームで公開いたします。
「人が怖い」独りぼっちの少年、晴野はるやと「欲望が怖い」少女、美夜子みやこが、夜に出会う物語。
「引きこもり」「不登校」「ネグレクト」「虐待」など、重いテーマを扱いながらも、
美しい文章で紡がれる物語は不思議と重さを感じさせることはなく、ただ胸を引き絞られるような切ない痛みと、甘い優しさをもって進んでいきます。
出会いによって、夜に閉じ込められた二人が次第に光に向かっていく様を、ぜひご覧ください。

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中山史花『美しい夜』試し読み【7/10】

 髪が少し乾きはじめていた。寝返りをうつと、壁にかけたままの高校の制服が目に入る。
 ぼくは、母の想定──なのかどうかはわからないけれど──ほど背も伸びず、中学を卒業するころになっても、その中学の制服は身体よりはるかに大きいままだった。高校指定の制服は、採寸を経てあつらえられたものできちんとサイズが合っているけれど、そのブレザーには数回しか袖を通していない。制服があることで、着るものに悩まなくてもよくなってほっとしていたけれど、学校じたいに行かなくなってしまえばそれもさして意味がなかった。
 起き上がり、適当に衣服を身に着ける。ふたたびベッドに戻ろうとしたところで、足の指がなにか硬いものに触れた。しゃがんで見ると、携帯が落ちている。
 それはぼくにこの部屋を与えるのと同じタイミングで、母たちがぼくにてがったものだった。けれど使う場面がないから、無造作に床に放置してしまっていた。連絡をとるような友人はいないし、携帯ゲームやSNSもしないので、ぼくにとっては手のひらにおさまるごく薄い直方体でしかない。
 携帯をその場に残し、ベッドに横たわった。自分の肌の温度でぬるいシーツに身体を預ける。そうしてまどろんでいると、ふいに、インターホンの鳴る音がした。
 一度目は、それがなんの音なのかわからなかった。幻聴かと思っていればもう一度聞こえて、二度目でやっと、それがこの部屋のインターホンだと気がついた。
「鹿野ー? 担任のしろだけど」
 三度目のインターホンの音とともに声がして、反射で身体がはねる。
「いないのか?」
 担任、と言葉をなぞって、四月の教室まで意識をさらわれた。入学式の日、割りふられた教室の教壇に立った教員の姿がおぼろげに浮かんだ。若く、がたいのいい男性。顔の造形は思いだせず、外見よりも、はつらつとしてやる気に満ちたような口ぶりのほうが印象に残っていた。けれどその声そのものは、いまはじめて聞いたように感じるぐらいに記憶にない。高校で見た人や物の記憶は、霧の立ちこめた風景写真を見ているようにひどく不鮮明だった。
 ベッドの上で、声を遮るように布団をかぶる。
「鹿野ー?」
 布団の内がわに熱がこもって暑い。のどの奥から全身へ震えが飛びだしそうだった。気づいたら歯を食いしばっていて、歯列が鈍く痛む。嵐が過ぎ去るのをなすすべなく待つみたいに、物音を立てないように布団の中でうずくまった。
「……死んでないだろうな?」
 やがて、ドアから人が離れていく気配がして、部屋はしんとした静けさをとり戻す。
 帰った、のだろうか。
 ぼくは布団にくるまったまま息をひそめた。頭と腕をだして、床の携帯に手を伸ばす。電池が切れていて、液晶は暗闇を映しだしていた。充電器につないで少し待つと、画面に明かりがともる。
 携帯を、人が使っているのは見たことがあっても、自分で使ったことはほとんどないに等しかった。だから、電源を押して起動させて、そこから先がわからない。パスコードを入力、という表示に戸惑った。パスコード。なんだっけ。りガラスの向こうにあるような記憶をたぐり寄せる。買ってきた携帯を、箱に入った状態で紙袋ごと差しだされて──「パスコードは、はるやの誕生日にしてあるからね」と母が言っていた──ぼくは自分の誕生日を母におぼえられていたことのほうに驚いたけれど──数字を打ちこむと、ロック画面が解除され、初期設定のままの待ち受け画面が現れた。
 受話器のマークと、封筒の形のマークの右上に、数字がついている。どちらも片方の手で足りるぐらいの数だった。それを押してみようとして、また、インターホンが鳴る。途端に身がすくんだ。
「おーい、鹿野?」
 さっきの担任の声だった。帰ったわけではなかったらしい。部屋の壁は薄く、玄関から部屋の奥までの距離もあまりないアパートだとはいえ、ドアも布団も隔てているのに聞きとれるほどの大声で呼びかけられていることにたじろいだ。何度かの呼びかけのあと、だれかと話しているような声がして、かと思えばドアの向こうからがちゃがちゃと物音が聞こえる。かゆくないところをくすぐられるようなざらざらした音に固まっていると、施錠して閉じていたはずの部屋の扉が、勢いよく開け放たれた。
「鹿野!」
 玄関から一直線に廊下を突き抜けてきた大柄な男性が、ベッドにうずくまって布団を被っていたぼくを見て、素早くしゃがみこんだ。
「無事か? 怪我は? どこも悪くないか?」
 ふたつの目が、ぼくの安否をしかと確認するように視線を上下させる。ぼくの感情がなにか思う前に、全身があわった。暑いと思っていたはずなのに、いきなり雪国にでも放りこまれたかのように、手足が震えはじめる。
 寒気がする。
「どうした、寒いのか。熱があるのか?」
 でも、寒くは、ないのに。
 担任のうしろに、遠慮がちなたたずまいで、初老の男性が立っていた。その手にかぎが握られている。大家だろうか。思考する冷静さを失っていく全身が、震えながら汗で濡れていく。湿った手ですぐそばのシーツを握りつぶしながら、ぼくはうつむいた。
「鹿野? 大丈夫か?」
 自分以外の人間の姿が、ふたつ、ある。
 全身が湿っているのに喉はからからだった。声がかすれて、言葉は喉より奥に閉じこめられてしまったみたいにとても遠い。なにか言わなくては。伝えなければ、この人はぼくの無事を確認しつづけると思った。だけど首をわずかに縦にふることしかできない。
「本当に大丈夫なのか? 具合が悪いんじゃないのか?」
 担任は、目をのぞきこもうとするように、大きな手を伸ばしてぼくの両肩をつかんだ。とっさに身体を引いたけれど、その力は強くてびくともしない。触れた他者の手の感覚に、震えや寒気を通り越した恐怖で目の前が薄暗くなる。
 さわらないで。
 言葉はいっこうにとりだせず、かわりに胸を圧迫されるような息苦しさと吐き気がこみ上げた。
「鹿野、聞こえてるか?」
 肩にかかった手に力がこもる。身体を揺すられて、肩口で服が引っぱられた。袖で隠れていた手首が少しあらわになる。
 ──はるや。これは、人には見せちゃ駄目だよ。
 母の言葉がよぎった。母の言葉を気にして、忠実に守ろうとしつづけているわけではないけれど、かといって進んで破ろうとしたこともなかった。ただ、まるで希望に満ちたような目が、手首の痕を見つけてしまったら、この人はもっと、その手を離してくれなくなるような予感がした。
「様子が変ですよ、救急車呼びますか」
 おそらく大家であるらしい人の声が、鼓膜をなぞる。救急車。なんて、来てしまったら。呼んだことがないので正確なところはわからないけれど、救急隊員がこの部屋に押しかけてくる光景を想像して、ますます、呼吸が乱れた。
「だ──、は、は……」
 必死にふり絞る声は、けれど意味を成さない。
「か、……」
「え?」
 途方もない気持ちになっていく。目の奥が熱くて視界がぼやけた。
「な、て……」
 担任は大きな手でぼくの腕をさすりながら、どうした、大丈夫かと何度も問うた。手が上下に行ったり来たりする感触がシャツ越しに伝わって、さすられている腕の、皮膚が悲鳴を上げるように冷たくなっていく。助けて。とっさに思って、だけど、自分で思った願いに、ほとんどあきれるみたいに驚いた。だれにも近づけなどしないのに、だれに助けてほしいなんて思うんだろう。
「はな、して」
 何度も何度も言葉を頭の中でくり返して、どうにかひとこと口にした。ひどく舌足らずに響く、それだけしか言えない絶望的さと、それを言っただけですべてやりきったかのような達成感めいたものに挟まれて、わけもわからずに涙が出てくる。身動きもとれず、もうこれ以上声も出なくて、ぼくは震えながら時間が過ぎるのを待った。爆発の寸前のように揺れ動く心臓の速度についていけなくて、酸っぱいものが喉下までせり上がってくる。
「田代さん、無事も確認できましたし、今日のところは……」
 担任はぼくをなだめながら長らくそこにいた。いつまでも動かないぼくと変わらない状況に、疲弊をにじませながら大家が遠慮がちに言う。担任は納得がいってなさそうだったけれど、なにも言わないぼくを見下ろしてやがてあきらめたように、また明日来るから、と告げて帰っていった。
 静まった部屋で、ぼくは再度途方に暮れた。ひとりでいられるこの部屋の中だけが、だれにも会わなくていい、安全な場所だった。けれどその安心は崩されて、鍵をかけていてさえもう安全ではない。今日はどうにか帰ってくれたけれど、そのあとは? 担任は、「明日」と言っていたから、明日も来るのだろう。もしかしたら、ぼくが学校に来るまでずっとやって来るのかもしれない。だけど何度考えても、もう、学校に行ける気はしなかった。
 担任と大家が帰ったあと、身体の震えはおさまっても、嫌な汗がなかなか引かなかった。ベッドの上で長い時間動けずにいたらシャツの吸った汗が冷えて、もう夏が近いのに寒くなる。数時間前にシャワーを浴びたのも、すっかり無意味になってしまっていた。もう一度シャワーを浴びて服を替えよう、そう思うけれど、いっこうに身体に力が入らない。シャツの濡れたままベッドで丸まっているうち、窓の外が白んでいくのをカーテンの色の移り変わりで感じとった。ほとんど暗闇と一体化していたカーテンの布地は、少しだけみずからの輪郭をとり戻したみたいに窓に垂れ下がっている。
 昨日充電した携帯は、触れると黄色がかった明かりを宿して、まだ薄暗い部屋をわずかにあかるくした。数件まっていた着信履歴とメールを確認する。それは母と、知らない番号からだった。
〈はるや、最近学校をお休みしているって先生から連絡があったけど、どうかしたの?〉
〈お休みもいいけど、ほどほどにね〉
 母からの連絡は一度の電話と二件のメールで、あと数件の着信は、すべて同じ番号からだった。心あたりといえば学校くらいしかなく、ぼくは部屋の隅にある通学かばんから、生徒手帳を引っぱりだしてみる。そこに記載されている高校の電話番号は、履歴に残っている番号とやっぱり一致した。
 携帯を置き、ベッドにうつ伏せになって目を閉じる。
 疲労感でいっぱいのまま迎えた夜明けが光を降らせるけれど、ふたたび身体を起こすことはできなかった。摑まれた肩に、もう残っていないはずの他人の体温がよみがえる。押し寄せてくるものから、逃れようとするみたいにベッドの上で寝返りをうった。シーツをしわくちゃにしながらベッドでのたうちまわっているだけでも時間は過ぎて、いつのまにか高くのぼっていたらしい太陽が、やがてゆるやかに傾きはじめていた。

★つづき【8/10】はこちら

作品紹介

美しい夜
著者 中山 史花
発売日:2024年05月21日

「わたし、悪い人間になりたいの」純粋すぎる二人の、胸を打つ青春純愛小説
高校生の晴野はるやは部屋を出られない。胸がどきどきして苦しくなるからだ。
そのせいで学校にも行けず、ひとけのない夜にだけ外に出る生活。
奔放な母親は再婚した義父と暮らしており、連絡は途絶えがちになっている。
母親の記憶は、見知らぬ男からの暴力と二重写しだった。
ある夜、コンビニからの帰り、晴野は同級生の美夜子みやこと出会う。
「悪い人間になりたい」という彼女は、そのわりに、飲酒も喫煙も、
万引きも暴力も「犯罪だから駄目だよ」と言う。
そして晴野は美夜子と、まるで子供の遊びのような、無邪気な夜の時
間を重ねていく。しかし夏のある日、彼は彼女の「秘密」に気づき……。

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞
優しく美しい言葉で紡がれる、胸を打つ青春純愛小説。 

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