「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞! 中山史花『美しい夜』(単行本)発売記念 大ボリューム試し読み【6/10】
公開日:2024/5/21
「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞!
新鋭・中山史花さんによる、みずみずしい感性で描かれた物語『美しい夜』を大ボリュームで公開いたします。
「人が怖い」独りぼっちの少年、
「引きこもり」「不登校」「ネグレクト」「虐待」など、重いテーマを扱いながらも、
美しい文章で紡がれる物語は不思議と重さを感じさせることはなく、ただ胸を引き絞られるような切ない痛みと、甘い優しさをもって進んでいきます。
出会いによって、夜に閉じ込められた二人が次第に光に向かっていく様を、ぜひご覧ください。
中山史花『美しい夜』試し読み【6/10】
2
身体に
須藤美夜子と会った夜から十日ほどが過ぎた。十日ほど、と思ったけれどぼくの体感なので、じっさいはまだそんなに経っていないのかもしれないし、もっと日が過ぎているのかもしれない。彼女に会うかもしれないという可能性も、それ以外の人に出くわすことも避けるように、寝てもさめてもほとんどずっとベッドの上にいた。食べるものがなくなればコンビニまで行かなくてはいけなくなるから、食事もあまり
だれにも会わず、だれとも連絡をとらずに過ごすということは、だれの言葉や行動にも脅かされないで済むということだ。
無機質な天井と、そこに存在しない目を合わせつづける。日々時間を無為に過ごしている自覚はあって、それでもぼくにはこの瞬間がいちばん満ち足りているように思えていた。それはどうかしているのだろうか。なにもしないで、なかば飽きながら天井を見つめつづけているだけのことが、いちばん気が休まって、自分の記憶の中でもっとも良いときだなんて思うのは。
濡れた髪から落ちる水滴がこめかみをつたう。手の甲で
「はるや。これは、人には見せちゃ駄目だよ」
母はぼくの肌に残った火傷痕を指して、シロップをたっぷり染みこませたようなやさしい声で言った。
「ひみつの痕だからね」
見せちゃ駄目、と言われても、服を脱いで
だけど、そんなぼくの心配はよそに、そうした場面はなにごともなく切り抜けた。母が学校へなにか言ったのだろうか、ぼくは身体が少し弱いということになり、水泳は見学することになった。普段の体育では、
中学に上がる少し前、めずらしくひとりで帰宅した母は、ぼくに中学校の制服をプレゼントしてくれた。これどうしたの、と
母の持ちものの大半が、貢ぎ物で構成されていることを、察しの悪いぼくでもなんとなく理解していた。ぼくの中学校の制服もそうだったのかもしれないと、もう決定している事項をなぞるような気持ちで思う。名前もわからないだれかに対して申し訳なくも感じたし、母が、それでもぼくになにかを与えようとしてくれているということに驚きもしたし、制服を、自分がちっとも喜んでいないことに戸惑いもした。
制服は、三年間で成長することを見越してか、じっさいのぼくの身体よりもかなり大きかった。多くの同級生は、入学前に採寸を経て少し大きめに制服を作ってもらっていたようだけれど、そういう過程をすっ飛ばしてあつらえられたから、肩幅も着丈も少しどころでなくぶかぶかだった。とはいえ着るものに
大きすぎる制服を着て通った中学校では、必ずなにか部活に入ることが義務づけられていた。けれど興味のある活動もなく、運動部は論外で、せめてなるべく活動日が少ない部にしようと、ぼくは週に二日行くだけでいい美術部を選んだ。顧問はおっとりした年配の先生で、部員数も少なく、団結してなにかにとり組むということはなくおのおのが好きなものを描いたり好きな話をしたりしているようだった。その中へ、最初の数回ほどは顔をだしていたけれど、やがて足が向かなくなった。はじめのころしか参加していなかったから、存在を認識されていなかったのかだれに
けれど二年生に上がって顧問が替わると、活動日である週二回はちゃんと顔をだすように、と注意を受けるようになった。けれど一年間なにもしてこなかった自分が、いまさら部活に行ってなにをすればいいのかわからなかった。ぼくが部活に参加しないままでいると、顧問はぼくを職員室に呼びだした。
「なんで部活に来ないんだ?」
なんでと問われても、ただなにもしたくなくて、だれとも一緒にいたくないだけなのだ。なにか描いたり作ったりしたい気持ちも、使ってもすぐ補充できる余分な紙や鉛筆もなかった。教室にいるのでさえ
みんなおまえが来るのを待ってるんだぞ、なんで来ない、やる気はあるのか、やる気のないやつはうちにはいらない、と詰め寄られ、ぼくは肩を
「なんでそうなる。おまえには根性ってものはないのか?」
根性があるならはじめから幽霊部員になどなっていないはずだ。ぼくはまた困ってしまった。顧問はさらにぼくを叱りつけ、「もっと情熱を持って取り組みなさい」「学生は目標に向かってなにかに打ちこむべきだ」「そんなことでは将来なにをやっても続かない」等々熱心になってぼくに語り聞かせた。そしてひとしきり言い終わったあと、確認のように、それとも、と問うた。
「ほかになにかやりたいことでもあるのか?」
あればよかったけれど、残念ながらなにもなかった。ぼくはなにもしたくなかった。なにもしないということが、ゆいいつ、みずから進んで望むことだった。生きていたら、なにかをしなければいけないのか。人は生きているだけで素晴らしいなんて言葉が出まわる世の中で、息をして、そこにいるだけではゆるされないみたいだった。ぼくは言葉を見つけられず、いつまでも答えあぐねていると、その言葉のつかえを問いに対する否定と認識されたようだった。顧問は深く
「あのなあ、片倉、そうやって適当に生きてたら駄目だぞ。そんなふうに物事をすぐ投げだしてしまうようでは、立派な大人にはなれない」
だけど、立派になりたい気持ちも、何者かになりたい気持ちもどこにもないのだ。説得の言葉はどうしようもなく身体をすり抜けて、ちっとも残らないで床へこぼれ落ちていった。嘘でもとりあえず
呼びだされた放課後の、顧問との応酬は完全下校の時間になるまでつづいた。疲弊した身体で帰宅すると、だれもいない散らかった部屋を進んでお
目をさましたのは母の声がしたからで、でもそれはぼくを呼んだ声だというわけでもなかった。ただ、甘い声がした。目を開けると壁にくっついていたはずの背中は壁を離れて空気だけに触れていて、右頬は
脱衣所には窓も時計もなかったけれど、夜だとわかった。脱衣所のドアの隙間から射しこむわずかな電灯の光を頼りに、暗闇の中のものを見た。身体を起こして軽く頬を拭う。寝起きの目を擦る、その数秒の動作のあいだにも、母の声はつづいていた。
もう一度眠れたらよかったけれど、都合よくそうもいかなくてぼくは時間を持て余した。本当にひとりきりであれば、なにもすることのない時間を、持て余すということはない。けれど壁の向こうには母の声があって、人の気配がすぐそばにあることが、ぼくをひどく落ち着かなくさせた。脱衣所に座りこんだまま、浴室へつづく扉をひらいてその空間にある意味のないものをさがそうとした。タイルの数を数えたり、シャワーヘッドを
作品紹介
美しい夜
著者 中山 史花
発売日:2024年05月21日
「わたし、悪い人間になりたいの」純粋すぎる二人の、胸を打つ青春純愛小説
高校生の
そのせいで学校にも行けず、ひとけのない夜にだけ外に出る生活。
奔放な母親は再婚した義父と暮らしており、連絡は途絶えがちになっている。
母親の記憶は、見知らぬ男からの暴力と二重写しだった。
ある夜、コンビニからの帰り、晴野は同級生の
「悪い人間になりたい」という彼女は、そのわりに、飲酒も喫煙も、
万引きも暴力も「犯罪だから駄目だよ」と言う。
そして晴野は美夜子と、まるで子供の遊びのような、無邪気な夜の時
間を重ねていく。しかし夏のある日、彼は彼女の「秘密」に気づき……。
「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞
優しく美しい言葉で紡がれる、胸を打つ青春純愛小説。
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