「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞! 中山史花『美しい夜』(単行本)発売記念 大ボリューム試し読み【6/10】

文芸・カルチャー

公開日:2024/5/21

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞!
新鋭・中山史花さんによる、みずみずしい感性で描かれた物語『美しい夜』を大ボリュームで公開いたします。
「人が怖い」独りぼっちの少年、晴野はるやと「欲望が怖い」少女、美夜子みやこが、夜に出会う物語。
「引きこもり」「不登校」「ネグレクト」「虐待」など、重いテーマを扱いながらも、
美しい文章で紡がれる物語は不思議と重さを感じさせることはなく、ただ胸を引き絞られるような切ない痛みと、甘い優しさをもって進んでいきます。
出会いによって、夜に閉じ込められた二人が次第に光に向かっていく様を、ぜひご覧ください。

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中山史花『美しい夜』試し読み【6/10】

 身体にむちって、シャワーを浴びにいく。まだ湿っている素肌のままベッドに倒れこむと、灰色がかった低い天井を見上げる形になった。シーツがれてしまうなと思いながらも、一度倒れこんでしまうともう動けない。身体が重力にとらわれて、あらがうこともしないまま、シーツにゆっくりと沈んでいく。
 須藤美夜子と会った夜から十日ほどが過ぎた。十日ほど、と思ったけれどぼくの体感なので、じっさいはまだそんなに経っていないのかもしれないし、もっと日が過ぎているのかもしれない。彼女に会うかもしれないという可能性も、それ以外の人に出くわすことも避けるように、寝てもさめてもほとんどずっとベッドの上にいた。食べるものがなくなればコンビニまで行かなくてはいけなくなるから、食事もあまりらないでベッドでぼんやりして、外があかるみはじめたり、雨が降ったり夜になったりするのを窓を隔てながら感じとった。
 だれにも会わず、だれとも連絡をとらずに過ごすということは、だれの言葉や行動にも脅かされないで済むということだ。
 無機質な天井と、そこに存在しない目を合わせつづける。日々時間を無為に過ごしている自覚はあって、それでもぼくにはこの瞬間がいちばん満ち足りているように思えていた。それはどうかしているのだろうか。なにもしないで、なかば飽きながら天井を見つめつづけているだけのことが、いちばん気が休まって、自分の記憶の中でもっとも良いときだなんて思うのは。
 濡れた髪から落ちる水滴がこめかみをつたう。手の甲でぬぐって、離すと、きだしの手首に一円玉硬貨より少し小さいぐらいの、皮膚の引きれたあとが目に入った。左右の手首とひじのあいだから二の腕にかけて、似たような痕がいくつか散らばっている。左の鎖骨と心臓の中間あたりにもふたつ、同じ円形の痕があった。さわると、少し皮膚がでこぼこしている。痕は残ったけれど、痛みはもうなかった。いま痛くなければそれでいいと思う。

「はるや。これは、人には見せちゃ駄目だよ」
 母はぼくの肌に残った火傷痕を指して、シロップをたっぷり染みこませたようなやさしい声で言った。
「ひみつの痕だからね」
 見せちゃ駄目、と言われても、服を脱いではんそで、あるいは水着に着替えなくてはいけない体育の時間や、心臓の音を聴いてもらうために胸をださないといけない身体測定のときはどうすればいいだろうと思った。どうして見せてはいけないのかという理由より、どうやって見せないようにすればいいだろうという方法のほうが気になって、ぼくは返事に困った。
 だけど、そんなぼくの心配はよそに、そうした場面はなにごともなく切り抜けた。母が学校へなにか言ったのだろうか、ぼくは身体が少し弱いということになり、水泳は見学することになった。普段の体育では、ばんそうこうを貼ったり軽いねんということで手首に包帯を巻いてみたりして、身体測定は服をめくりきらずに聴診器を挿し入れて心音を聴いてもらう形で、それとなく痕を隠しながらやり過ごした。体育をたびたび見学することで、ずるい、とひんしゆくを買うこともないではなかったけれど、学校生活はおおむね平穏に過ぎた。レンくんと母が呼んだ男の人とは家で何度か鉢合わせしたけれど、母の連れてくる人は頻繁に入れ替わっていき、やがて現れなくなった。
 中学に上がる少し前、めずらしくひとりで帰宅した母は、ぼくに中学校の制服をプレゼントしてくれた。これどうしたの、とくと、お酒を飲んでいるらしい陽気な声で母は「はるやはなんにも気にしなくていいのよ」と言った。笑った母はワインレッドのドレスにショールを羽織っていて、その赤の鮮やかな色味に目がちかちかした。隙間風の入る部屋のあちこちに、光沢をたっぷり含んだ革のバッグや宝石のちりばめられたアクセサリーが置かれるようになっていて、ぼくは、自分には価値のわからない美術品の展示に迷いこんだようなこころもとない気持ちがした。
 母の持ちものの大半が、貢ぎ物で構成されていることを、察しの悪いぼくでもなんとなく理解していた。ぼくの中学校の制服もそうだったのかもしれないと、もう決定している事項をなぞるような気持ちで思う。名前もわからないだれかに対して申し訳なくも感じたし、母が、それでもぼくになにかを与えようとしてくれているということに驚きもしたし、制服を、自分がちっとも喜んでいないことに戸惑いもした。
 制服は、三年間で成長することを見越してか、じっさいのぼくの身体よりもかなり大きかった。多くの同級生は、入学前に採寸を経て少し大きめに制服を作ってもらっていたようだけれど、そういう過程をすっ飛ばしてあつらえられたから、肩幅も着丈も少しどころでなくぶかぶかだった。とはいえ着るものにとんちやくするたちでもなかったので、着られればそれでいいかとも思った。かつてトウマに買ってもらった洋服が中学に上がるころにはもうほとんど着られなくなっていたから、制服があるということには助けられた。トウマと暮らしていた小学三年生のころに比べればぼくの身体が多少は大きくなっているということもあるけれど、着古しすぎて、大多数の洋服が、穴が開いたりすそが破れたりしてしまっていた。
 大きすぎる制服を着て通った中学校では、必ずなにか部活に入ることが義務づけられていた。けれど興味のある活動もなく、運動部は論外で、せめてなるべく活動日が少ない部にしようと、ぼくは週に二日行くだけでいい美術部を選んだ。顧問はおっとりした年配の先生で、部員数も少なく、団結してなにかにとり組むということはなくおのおのが好きなものを描いたり好きな話をしたりしているようだった。その中へ、最初の数回ほどは顔をだしていたけれど、やがて足が向かなくなった。はじめのころしか参加していなかったから、存在を認識されていなかったのかだれにとがめられることもなかった。
 けれど二年生に上がって顧問が替わると、活動日である週二回はちゃんと顔をだすように、と注意を受けるようになった。けれど一年間なにもしてこなかった自分が、いまさら部活に行ってなにをすればいいのかわからなかった。ぼくが部活に参加しないままでいると、顧問はぼくを職員室に呼びだした。
「なんで部活に来ないんだ?」
 なんでと問われても、ただなにもしたくなくて、だれとも一緒にいたくないだけなのだ。なにか描いたり作ったりしたい気持ちも、使ってもすぐ補充できる余分な紙や鉛筆もなかった。教室にいるのでさえおつくうで、ただぼくのような子供は中学校に毎日通うものなのだと、そういうものなんだと思ってどうにか学校には足を運んでいるだけだった。
 みんなおまえが来るのを待ってるんだぞ、なんで来ない、やる気はあるのか、やる気のないやつはうちにはいらない、と詰め寄られ、ぼくは肩をすぼめた。部活に来ない生徒が不要なら、ぼくがいなくなれば気も済んでくれるだろうか、とこわごわ転部を切りだすと、顧問はますます目をり上げた。
「なんでそうなる。おまえには根性ってものはないのか?」
 根性があるならはじめから幽霊部員になどなっていないはずだ。ぼくはまた困ってしまった。顧問はさらにぼくを叱りつけ、「もっと情熱を持って取り組みなさい」「学生は目標に向かってなにかに打ちこむべきだ」「そんなことでは将来なにをやっても続かない」等々熱心になってぼくに語り聞かせた。そしてひとしきり言い終わったあと、確認のように、それとも、と問うた。
「ほかになにかやりたいことでもあるのか?」
 あればよかったけれど、残念ながらなにもなかった。ぼくはなにもしたくなかった。なにもしないということが、ゆいいつ、みずから進んで望むことだった。生きていたら、なにかをしなければいけないのか。人は生きているだけで素晴らしいなんて言葉が出まわる世の中で、息をして、そこにいるだけではゆるされないみたいだった。ぼくは言葉を見つけられず、いつまでも答えあぐねていると、その言葉のつかえを問いに対する否定と認識されたようだった。顧問は深くまゆをひそめた。
「あのなあ、片倉、そうやって適当に生きてたら駄目だぞ。そんなふうに物事をすぐ投げだしてしまうようでは、立派な大人にはなれない」
 だけど、立派になりたい気持ちも、何者かになりたい気持ちもどこにもないのだ。説得の言葉はどうしようもなく身体をすり抜けて、ちっとも残らないで床へこぼれ落ちていった。嘘でもとりあえずうなずいておけばよかったのかもしれないけれど、ぼくはそれすらできず、うつむきながら顧問が話し終わるのを待っていた。向かい合う形で座っているぼくと顧問のあいだにある机には、彫刻刀かなにかで彫られた文字でも図形でもない傷があった。なんの意味も持たなそうな傷は、なんの意味もなさそうなところが好ましかった。けれど理由のないいたずらな心でつけられたものかもしれないし、だれかへの強いいらちや恨みのはけ口になってうまれたものかもしれない。そう考えはじめたら胃のあたりがかきまぜられるような心地がして、ぼくは机の端に視線を移した。窓から射す夕日にあたって机の縁は薄く光って、人の心の介入しないものはうつくしく見えた。
 呼びだされた放課後の、顧問との応酬は完全下校の時間になるまでつづいた。疲弊した身体で帰宅すると、だれもいない散らかった部屋を進んでお場の扉を開けた。脱衣所の狭く硬い壁にもたれかかり、そのままずるずると座りこむ。腰を下ろすとまぶたが一気に重くなった。身体が動かず、ぼくは食事も摂らずにその場で眠りに落ちた。
 目をさましたのは母の声がしたからで、でもそれはぼくを呼んだ声だというわけでもなかった。ただ、甘い声がした。目を開けると壁にくっついていたはずの背中は壁を離れて空気だけに触れていて、右頬はあしきマットに擦りつけられていた。
 脱衣所には窓も時計もなかったけれど、夜だとわかった。脱衣所のドアの隙間から射しこむわずかな電灯の光を頼りに、暗闇の中のものを見た。身体を起こして軽く頬を拭う。寝起きの目を擦る、その数秒の動作のあいだにも、母の声はつづいていた。
 もう一度眠れたらよかったけれど、都合よくそうもいかなくてぼくは時間を持て余した。本当にひとりきりであれば、なにもすることのない時間を、持て余すということはない。けれど壁の向こうには母の声があって、人の気配がすぐそばにあることが、ぼくをひどく落ち着かなくさせた。脱衣所に座りこんだまま、浴室へつづく扉をひらいてその空間にある意味のないものをさがそうとした。タイルの数を数えたり、シャワーヘッドをでてそこについた傷やくぼみをさがしたり、タオル地の足拭きマットの毛羽立ちを見つめたり、もう何度もしてきた数々の意味のない行動を、またくり返して、気持ちが揺れないようにする。日が沈みきって、冷えた空気がぶかぶかの制服の空洞を抜けて肌を震わせた。身を縮めながら、終わるのをじっと待つ。壁を隔てて聞こえる母の声を、幸福そうだ、とぼくは思った。

★つづき【7/10】はこちら

作品紹介

美しい夜
著者 中山 史花
発売日:2024年05月21日

「わたし、悪い人間になりたいの」純粋すぎる二人の、胸を打つ青春純愛小説
高校生の晴野はるやは部屋を出られない。胸がどきどきして苦しくなるからだ。
そのせいで学校にも行けず、ひとけのない夜にだけ外に出る生活。
奔放な母親は再婚した義父と暮らしており、連絡は途絶えがちになっている。
母親の記憶は、見知らぬ男からの暴力と二重写しだった。
ある夜、コンビニからの帰り、晴野は同級生の美夜子みやこと出会う。
「悪い人間になりたい」という彼女は、そのわりに、飲酒も喫煙も、
万引きも暴力も「犯罪だから駄目だよ」と言う。
そして晴野は美夜子と、まるで子供の遊びのような、無邪気な夜の時
間を重ねていく。しかし夏のある日、彼は彼女の「秘密」に気づき……。

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞
優しく美しい言葉で紡がれる、胸を打つ青春純愛小説。 

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