「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞! 中山史花『美しい夜』(単行本)発売記念 大ボリューム試し読み【5/10】

文芸・カルチャー

公開日:2024/5/21

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞!
新鋭・中山史花さんによる、みずみずしい感性で描かれた物語『美しい夜』を大ボリュームで公開いたします。
「人が怖い」独りぼっちの少年、晴野はるやと「欲望が怖い」少女、美夜子みやこが、夜に出会う物語。
「引きこもり」「不登校」「ネグレクト」「虐待」など、重いテーマを扱いながらも、
美しい文章で紡がれる物語は不思議と重さを感じさせることはなく、ただ胸を引き絞られるような切ない痛みと、甘い優しさをもって進んでいきます。
出会いによって、夜に閉じ込められた二人が次第に光に向かっていく様を、ぜひご覧ください。

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中山史花『美しい夜』試し読み【5/10】

 トウマと母と三人で暮らすようになって、二年ほどたったころから母とトウマはうまくいかなくなりはじめた。昇進し、仕事が忙しくなりはじめたトウマのいないあいだ、母はふたたび、どこかへ出かけたあとなかなか帰ってこなくなったり、知らない人を家に上げたりするようになった。
 そしてある日、ひさしぶりに予定より早く仕事が終わったというトウマが、そこへ帰って来てしまった。そのときぼくはベランダにいて、夕暮れに流れていく秋の雲をひとりで眺めていた。物音がしてふり返ると、スーツに身をつつんだトウマが、彼と母の寝ているベッドの上にいた、母と見知らぬ男を見下ろしていた。
 会ったばかりのころ、トウマはいつも、人のよさそうな顔で笑っていた。けれど仕事の多忙さに少しせて、家にいても、いつしか険しい表情をするようになっていた。ベランダの窓からのぞいたトウマは、あかるさも仕事の疲れも、すべての感情をぎ落とした顔で、母と、知らない男を見つめていた。
 はたけば際限なくほこりの出る敷布団のように、ひとつ明らかになると、母の余罪はつぎつぎあらわになった。トウマが働いて得たお金を、知らない人に贈る洋服や食事代に使いこんでいたということがわかったとき、トウマは母に向かって静かに、出ていけと言った。
「出ていけよ。……その子も連れて」
「待って、トウマくん、違うのよ。お願い、許して、ねえ」
 母がくり返しトウマにすがりつくのを見た。トウマはなにも言わないで、自分の足にしがみつく母の手をほどいて背を向けた。母は言葉を尽くして、自分がトウマを愛しているのだということ、トウマに構ってもらえずさびしくなって、出来心でしてしまったことだということ、等々、必死になって言い募った。けれどトウマは心を動かさなかった。泣きじゃくる母と無表情のトウマを交互に見ていると、目が合ったトウマは一瞬だけ、口端をいびつに持ち上げた。笑っているみたいに見えたけれど、あわれんでいたのかもしれなかった。トウマはすぐ、その視界に母もぼくも入れたくないみたいに顔を背けた。飛行機雲を見つけて笑っていたトウマを思いだしかけて、でもその顔はうまく描けなかった。
 母とトウマの離婚が成立したのは、ぼくが小学四年生に上がる少し前のことだった。ぼくはトウマの姓だったよしながから、母の旧姓のかたくらを名乗ることになった。母とぼくはなかば追いだされるようにトウマの家を出て、はじめに住んでいたところよりも古く狭いアパートに引っ越した。学校も、隣県の小学校に移ることになった。
 母は新しく仕事をはじめ、また家にいないことがほとんどになった。ひとりで過ごす家の中で、ぼくは学校の宿題くらいしかすることがなく、一緒に遊ぶような友達もいなかったので、鏡台にくっついた指紋を拭くでもなく眺めたり、電気を消した部屋で揺れる電気ひもを観察したりと、意味のないことをくり返して時間を過ごした。
 ふたり暮らしをはじめて少し経つと、母はまた、見知らぬ男の人を家に連れ帰ってくるようになった。母はしばしば、
「はるや、お風呂にでも入っていらっしゃい」
 と、ぼくがその日すでに入浴を済ませているかどうかは問わずに、妙な具合にぼくをお風呂場へ追いやった。ぼくは脱衣所の、薄い足拭きマットの上に腰を下ろして、母が、「いつまで入ってるの? そろそろ上がったら?」と薄い引き戸の向こうから呼んでくれるのを、音を立てないようにしながら待っていた。そのあいだ、ぼくはタイル張りになっている浴室の床の、そのタイルの数を延々と数えていた。タイルの目は細かく、途中でどこまで数えたかわからなくなってしまうので、その作業はいつまで経っても終わることがなくてよかった。
 母に呼ばれて脱衣所から居間に出るころには、男の人はたいていいなくなっていた。しんと静まった部屋で、母は晴れやかな顔でぼくに笑いかけた。
「はるや、晩ごはん食べようか」
 ぼくは母の言葉に頷いて、皿を並べる手伝いをしたり、レンジであたためたできあいの総菜をとり分けたりした。母は、「お風呂に入って」いたはずなのにぼくの髪が少しも濡れていないことを、一度も追及しなかった。
 母が連れ帰ってくる男性は、ひとりではなかった。ぼくは人の顔や名前を憶えるのが得意ではないけれど、この前の人とは違う気がするな、という程度にはわかった。なんにせよ、だれかを連れて帰ってくる、そのときだけは母は幸福そうな顔をしているように見えたから、それは母にとってただしいことなのだと漠然と思った。
 そのうちに、ぼくは、家にいる時間のほとんどをお風呂場で過ごすようになった。母がいないあいだもそこにいて、学校の宿題も狭い脱衣所の床に筆記用具とプリントを広げてやった。ノートや筆箱、鉛筆、ランドセル、着替え、そういったもろもろは、トウマに買ってもらったものだった。トウマに与えてもらった鉛筆で、宿題のプリントの空白を埋めていく。氏名を書く欄で、ぼくはときどき自分の名前を書き間違えた。日付を書くとき、月が替わったばかりだとつい前の月の数字を書いてしまうような感覚で、〈吉永晴野〉と書いてははっとして、〈吉永〉を消しゴムで消す。〈片倉〉と書き直して、けれどプリントには一度書いた線の跡がうっすら残ってしまって、それはどんなに消しゴムをかけても完全に消えることはなかった。
 そもそも名字の概念じたい、ぼくは小学校に入るころまでよく知らなかった。吉永、という名字が自分のもので、自分のことを指して使われるということをようやく理解できてきたところで、その名字はぼくのものではなくなった。転校先の小学校で新しく担任になった先生はぼくを「片倉くん」と呼んだけれど、ぼくは「片倉」が自分の名前だということになかなかなじめなくて、気を抜いているうちに名前を呼ばれると、呼ばれていることに気がつかなくて無視をしているみたいになってしまった。
 クラスメイト同士はたいていあだ名か下の名前で呼び合っていたけれど、ぼくの転入したクラスにはもう「はるや」という名前の男の子がいて、みんな彼のことをそう呼んでいたから、ぼくが名前を呼ばれることはなかった。やがて「はるや」も自分のことではないように思えてきて、ぼくは結局なんと呼ばれてもうまく返事ができなかった。ただでさえ、まれにクラスメイトから話しかけられても、自分の思考を言葉にする習慣がなかったぼくは、いったいなにを言えばいいのかわからなかった。ぼくが考えているうち、反応の鈍さに痺れを切らしたのか同級生は離れていって、そのまま話しかけてこなくなる。転校前も、転校した先でも似たようなもので、加えて名前を呼ばれても聞き逃して顔さえ上げないものだから、ぼくは「人に呼ばれても無視をする嫌なやつ」だと思われるようになった。
 さいわいいじめられるようなことはなく、同級生は、ぼくを透明人間のように扱った。ひとりでいることは苦ではなく、ぼくは空き時間を、図書室で借りた本を読んでみたり、教科書の、これから授業で習う範囲を先どりして眺めてみたりして過ごした。だからといって内容がすっかり頭に入るわけでもないから、特別成績が良くなるということはなかった。

 小学校から帰ったあと、居間でうたた寝をしてしまったときがあった。お風呂場で過ごすようになる前のことだ。夏休みが明けてすぐのころで、ぼくは残暑に汗ばんだ身体のまま、荷物を置いてうっかり横になって眠ってしまった。
 ドアが開いたのか閉まったのか、激しくアパートを揺らすような音で目をさました。顔を上げると部屋は真っ暗だった。視界一面が暗くて、目ざめてもまだ夢の中にいるようだった。けれどまもなく部屋の電気がともされて、室内は鈍い光を放った。光に慣れていない目がくらみ、とつぜんのまぶしさに思考が追いつかないうち、「なんだこのガキ」とめつけるような濁った声が頭上から落ちてきて身体が固まった。
 肩幅も胴も足も太くたくましい、大柄な男の人が居間の入り口に立っていた。そしてそのうしろから母が現れて、はるや、と呼びながらぼくの肩にすらりとした手を置いた。
「お部屋真っ暗にしてどうしたの。お風呂は?」
 ほら、あっちへ行っておいで、と母がゆったりとぼくに言葉をかけて、その手と声が、そのままぼくを脱衣所のほうへと誘導した。でも必要なバスタオルや着替えがない。ぼくは母の手を離れて、無造作に積まれた乾いた洗濯物の山からタオルをさがした。引っぱりだそうとして、少し手間どる。
えるわ、ガキいるとか」
「ごめんねレンくん。そうだ、これ、頼まれてた煙草」
 母が言い終わらないうち、男の浅黒く焼けてごつごつした手が母の手におさまっていた小さなパッケージを引ったくった。男は視線を落としてすぐ、うわ、とまゆを吊り上げる。
「なんでもいいって言ったけど、なんでよりによってこれなんだよ。こんなん女の吸うやつだろ」
「そうなの? 私詳しくなくて。お洒落しやれなパッケージだったから、これがいいかなって」
「使えねえな。あー、もういいよ、ないよりマシ」
 骨太い指がパッケージのビニールを破り、煩わしそうに床に放って中から煙草を一本抜きとった。がれ落ちたビニールが透き通る羽根のように床に落ちる。男はポケットからとりだしたライターで煙草に火をつけた。先端にオレンジが灯って、その反対がわを男がくわえる。吐息が吹きこまれて、じわりと炎が膨らんだ。「クソ、ゲロ甘いな」悪態をつく男の隣で、わあバニラのいい香り、と母が華やいだような声を上げる。これはバニラの匂いなのか、煙草の先端から立ちのぼる白い煙と、部屋に満ちていく甘い匂いに気をとられて、数秒ぼんやりしていると、男の舌打ちが耳を掠めた。
「やっぱ無理だわ、もういらねー」
 低い声と同時に、焼けるような熱が手首に走った。
 灰の混ざった火が、そこに押しあてられたのを見た。身体は床に崩れ落ち、口から自分のものなのかわからない呻き声が漏れた。数秒ののち離れた熱は床に落とされて、母の手があわてたようにさっと吸い殻を拾い上げた。
 火が離れていっても手首はいつまでも熱く、痛みとごちゃまぜになって思考をかすませた。じりじりとさいなまれる手首から先は熱で焼き切れて、燃えてなくなってしまうんじゃないかとさえ思うのに、見ればちゃんと繋がっていて、いつまでたってもぼくの手首はきちんとぼくの身体の一部だった。汗が背中や額を流れて止まらず、砕けそうなほどきつく奥歯を噛む。男はぼくの横を素通りし、物色するように室内を歩きまわりはじめた。なんもねーじゃん、とつまらなそうにぼやく。
「はるや?」
 煙草を台所の流しに置きにいった母が戻ってきて、床でのたうちまわって汗でびしょびしょになっているぼくの額を、やわらかなハンカチでそっと撫ぜた。
「大丈夫? 火傷やけどしちゃった?」
 母は眉を下げ、ぼくの汗を拭いながら、また別の濡らしたハンカチを持ってきてぼくの手首にそっとかぶせた。やけど、と母が言うのがはじめて耳にする言葉のように思えながら、返事をする余裕もなくて、ぼくは同じ場所でもがくことしかできなかった。
「お風呂で冷やしておいで。ね?」
 冷やしたほうがいい、ということは理解できたけれど、弱った青虫のようにその場でじたばたしているのがせいいっぱいだった。自分が息を吸っているのか吐いているのかもさだかでなくなる。じりが濡れている気がしたけれど、生理的に落ちる涙と汗の区別もつかなかった。見てまわるほどの広さもない室内を見終えた男が、うるせえな、と吐き捨てる。
「お母さんが運んであげる」
 母の細い腕が、動けないぼくを抱き上げようとした。けれどなかなか持ち上がらない。
「あれ? はるや、思ったより重いなあ……大きくなったんだね」
 視界が、濡れているのに燃え盛っているようだった。火の幻影が、見たものをまともに処理できないぼやけた視界に広がって、母の白いはずの頬は燻るオレンジ色に見えていた。母の顔のうしろが燃えていると思って、横抱きにされて浴室へ運ばれながら、ひどく混乱した。狭くて短い廊下で男とすれ違ったとき、ひときわ強く、まだ残っていた甘い煙の気配を感じた。

★つづき【6/10】はこちら

作品紹介

美しい夜
著者 中山 史花
発売日:2024年05月21日

「わたし、悪い人間になりたいの」純粋すぎる二人の、胸を打つ青春純愛小説
高校生の晴野はるやは部屋を出られない。胸がどきどきして苦しくなるからだ。
そのせいで学校にも行けず、ひとけのない夜にだけ外に出る生活。
奔放な母親は再婚した義父と暮らしており、連絡は途絶えがちになっている。
母親の記憶は、見知らぬ男からの暴力と二重写しだった。
ある夜、コンビニからの帰り、晴野は同級生の美夜子みやこと出会う。
「悪い人間になりたい」という彼女は、そのわりに、飲酒も喫煙も、
万引きも暴力も「犯罪だから駄目だよ」と言う。
そして晴野は美夜子と、まるで子供の遊びのような、無邪気な夜の時
間を重ねていく。しかし夏のある日、彼は彼女の「秘密」に気づき……。

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞
優しく美しい言葉で紡がれる、胸を打つ青春純愛小説。 

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