働く人の毎日に寄り添う、“薫り高き”嘆きの数々
公開日:2016/8/4

先日、知人への誕生日プレゼントを選ぶ機会がありました。お酒、特に、ウイスキーが好きな方でしたので、それがいいかなと思ったのですが…嗜好品の得手・不得手って、本当に色々あるそうですね。そもそも私自身が普段お酒を飲まない上に、先方の好みにもそれほど詳しくないという状況でしたので、専門店まで行ったはいいものの、店員さんを困らせてしまうこととなりました。結局、事情を説明して、無難なものを選んでいただいたのですが、相当親密でない限り、嗜好品を他人へ贈るのはリスキーな行為であると学習したできごとでした。お酒とか、たばことか…コーヒーなんかも、好みの分かれる商品のひとつでしょうか。どうしてもプレゼントにしたい場合は、それそのものではなく、関連グッズを贈るのも手かもしれませんね。というわけで今回は、とあるコーヒーにまつわる本をご紹介します。
『それでも、前を向く』(岩田純平/晋遊舎)は、働く大人の悲哀をミニマムな言葉で表し、明日へ向けて背中を押してくれるメッセージ集。出版社による売り文句は「サラリーマン必読の超短編小説誕生!」というものなのですが、具体的な中身としては2012~2014年にかけて発表された、缶コーヒー「Roots」の電車広告がベースとなっています。竹野内豊さん出演のTVCMや掲示物が話題となり、ロングランシリーズの間には、著名な広告賞も獲得しています。
収録されているエピソードは、どれも数行で完結するものばかり。見開きが1本のお話になっているので、前から順にめくっていかなくても、ぱっと開いたところから、ぐいぐい読めてしまいます。幾つかご紹介しましょう。
『前世』
占い師に、前世を絶賛された。前世に生まれたかった。
『メール』
「昨日は楽しかった」
彼女からメール。それ、僕じゃないです。
『相談』
部下から切実なメールが来た。署名回りは☆だらけだけど。
『質問』
「金輪際ってどう書くんだっけ?」
彼女に聞かれた。何を書いているのかは聞けなかった。
作品の多くはこのように、前半のフリと、後半のオチという二段構えになっています。描かれている感情は、自嘲だったり、落胆だったり、嫌な予感だったりと様々なのですが、どのエピソードについても、フリとオチとの間に流れる空気の、気まずさったらありません。まさに、缶コーヒーでもあおらなければやっていられない状況です。
また、作中には固有名詞が登場しないため、自分を含む身の回りの人の姿を簡単に投影できてしまうのも、同書の特徴です。逆境に見舞われた時、作中のエピソードに自分を重ね合わせることで、状況を一歩引いて捉え直し、冷静に客観視するという使い方もできるでしょう。そういう意味では、社会人1年生の皆さんにもオススメです。
著者である岩田純平氏は、電通に在籍するコピーライター。サントリーの「角ハイボールがお好きでしょ」や、公文式の「くもんいくもん」などを代表作に持つ、まさに当代きっての売れっ子さんです。見様によっては、いささかネガティブなアプローチとも感じられる、この「Roots」ブランドの広告。そこに込められた意図は何なのか――本書のあとがきのなかで岩田氏は、次のように語っています。
前向きな言葉で前を向ける人は幸せですけど、
世の中、電通の人みたいに前向きな人ばかりじゃないですから。
(中略)
そんな時、そっと背中を押してくれる言葉。それは、
自分と同じように弱っている人の、心のつぶやきなのかもしれません。
自分と同じようなことで閉塞している人がいる。
そう思うだけで、なぜか気持ちは軽くなる。
一見後ろ向きにも感じられるような、異色の広告コピーたち。しかしこれらは「Roots」という商品を、頑張るサラリーマンの共通言語としてブランディングし、「みんな大変だけど、何とかやっていこう」というメッセージの共有を見据えていたのかもしれません。
2015年2月、JTは飲料事業からの撤退を発表しました。約15年にわたり愛されてきた「Roots」もここまでか…と思いきや、同年5月には、サントリー食品インターナショナルによるブランド取得が発表されています。これぞまさに大逆転劇。広告のなかでは報われなかった魂たちでしたが、「それでも、前を向く」ことが、希望へと繋がったようです。
文=神田はるよ