倉庫暮らしの姉妹が頼る、ガラの悪い三十路前の男とは?『里奈の物語』②
公開日:2020/1/12
物置倉庫で育った姉妹(里奈と比奈)は、朝の訪れを待ちわびた。幾つもの暗闇を駆け抜けた先に、少女がみつけた希望とは―。ルポ『最貧困女子』著者が世に放つ、感涙の初小説。

「潮(うしお)にい! 潮にい!」
反応はない。ドアの横の錆び付いたポストには、何日分かの新聞やチラシが突っ込まれたままだが、それは周囲の借家のどれもが似たようなものだ。
「いるのはわかってんだ」
「わかってんだ!」
めげずに叩き続けると、ようやく中から物音がして、ドアが開いた。顔をのぞかせたのは、ニキビの目立つ丸顔の眉毛を全部剃り落とし、その上にボサボサの金髪を載せたガラの悪い三十路前の男だ。
「あー、おー。んだ、里奈比奈かよ。朝からうるせーなお前らは」
「潮にい! 飯!」
里奈が催促すると、金髪頭をかきむしりながら潮にいが顔を歪めた。
「んだよ、幸恵あのクッソアマ、またおめえら放って飲みいっちまったんかい。ほんっと、しょーがねーなお前らのかーちゃんは」
「いいから飯!」
「飯なんかねえよ」
「え~~。じゃ、金」
口は悪いし見た目は悪人そのものの潮にいだが、パンツにシャツのままの姿で部屋から出てくると、比奈の前にしゃがみ込んで相好を崩す。
「おはよ~比奈子。いないいない、ぼあー」
「ぎゃあああああああああああああ」
比奈の絶叫に耳をふさいで立ち上がる背の高い潮にい。逃げるように、比奈は里奈の後ろに隠れて里奈のシャツをぎゅうぎゅう引っ張る。
「比奈子じゃねえ、比奈だもん!」
「あ? 子がついた方がかわいーが。ていうか、比奈子はほんとに里奈以外ぜんぜん懐かねえな」
「潮にいが変な顔でビビらすからだ」
むくれる里奈のおでこに小さなデコピンをくれる潮にいだが、ぶつくさ言いながらも散らかり切った部屋の中に戻り、財布をもってくる。
「あれ、小せーのねえが。しょうがねえな……」
渡された金は、1万円札だった。
「わおう」
「わお、じゃねえだがね。里奈、1万円貸し、ちゃんと幸恵ママに報告しろよ」
ひったくるように1万円札をポケットにしまうと、里奈は潮にいの太ももを小さな手で殴りつけ、生意気を言う。
「ママはママじゃなくて伯母さんだから、ママって呼んじゃいけねーんだよ。幸恵ねえさんってんだ。知らねーのか」
里奈の小さな拳のパンチは、意外に食い込んで痛い。
「分かった分かったから、お前、きちんと釣り貰えよ。無駄遣いすんなよ。もお小学1年なんだし、お釣りぐらい分かんべ?」
「ちゅーか舐めてんのか潮にい。あたしもう、掛け算できるもんね。くいちがく、くにじゅうはち、くさんにじゅうしち、くくはちじゅういち」
「微妙に省略してんじゃねえが。つか、今日はマジ暑くなりそうだあ。今年こそエアコン買うか……」
潮にいが晴れ渡った夏空を見上げて伸びをすると、強い風に乗って勇壮なファンファーレの音が聞こえてきた。
里奈のやってきた長屋の数百メートル先には公営競技場があって、重賞レースがある日には早朝からこのファンファーレを鳴らす。伊田桐は農業と下請け製造業の街であると同時に、博打の街でもある。付近の飲食店や風俗店やパチンコ屋などは、みなこの競技場を訪れるギャンブラーたちを最大の客筋として、栄えてきた。
「おお~。これ聞くと、なんか漲るもんがあるんだがね」
1999年、既にバブル経済の記憶も遠のいていた頃だったが、重賞レースの夜は街の書き入れ時だ。潮にいは、里奈の養母であり伯母である幸恵が勤めるパブスナックと同じ長屋に入っている風俗店のボーイだった。
「今日は店の方も熱くなりそうだあ。里奈、お前らは飯食ってどおすんだ? 幸恵が来るまで潮にいの部屋で遊んでくけ? 俺は寝るけどな」
「やだ。潮にいの部屋、足がカイカイになるんだもん」
「かいかいなうもん」
里奈の言葉を可愛らしく復唱する比奈に、自らの部屋の不衛生を指摘されてしまった潮にいは、怒るに怒れない。苦笑しながらしゃがんで里奈の目線になった。里奈の目鼻立ちは、まだ小学校に入り立てだというのに三十路の潮にいがドキッとするほど、整っている。
額で分けたまっすぐな黒髪の下からのぞく、すこしつり気味の大きな瞳。細く通った鼻筋。その眉は強い性格を表すようにつり上がって歌舞伎役者のようだが、女の容色で飯を食っている潮には、里奈が「化ける女」になることがこの幼さで確信できるのだった。
一方の比奈は、里奈よりももっと分かりやすい美少女だ。里奈の黒髪と並ぶと一層目立つ栗毛に、西欧系の血を思わせる顔立ちは、幼いながらも母親の幸恵の面影を感じさせる。
「ったく幸恵もよお……。おめえらみてえなの、ロリコンにさらわれたらどうすんだって話だい」
そんな美しい姉妹の間を吹き抜ける夏の朝の風に異臭を感じて、潮の顔が固まった。
「てか、なんだおめえ、臭ぇぞ? おめえ里奈、小学校上がってもまだ寝小便治んねーか」
眉をひそめた里奈が自らの身体の臭いを嗅ぐと、酸っぱい臭いがした。
「大丈夫。チビっただけだし、段ボールだからセーフ。布団でやったらママ、じゃなくて幸恵ねえにぶたれるけど、段ボールはセーフ! セーフ‼」
「そういう問題じゃねーがん。待っとけ」
再び部屋に戻った潮にいは、今度は里奈と比奈の着替えを持って来た。以前、里奈たちが寝小便の臭いを漂わせたまま訪れた際に用意しておいたものらしい、シンプルなワンピースと下着だった。そのまま玄関前の三和土で脱ぎ出そうとする里奈を止め、玄関の中でまずは固く絞ったタオルで身体を拭かせながら、潮にいは顔をしかめていた。
「ひゃーー! 冷てぇ! 比奈もほら、足上げれ」
「ひゃー!」
「おめーらもな……。ガキなのに、おおごとだがね。幸恵がもーちっとマシな女ならなあ……」
「おおごとって?」
「ガキなのに苦労人だなって言ってんだ」
「くろーなんかしてねー!」
着替え終えたふたりの尻を潮にいがパンパンと叩くと、里奈は弾けるように玄関を飛び出して、勢い余ってひと回りしてから比奈のところに戻って来て、力いっぱい抱きしめる。身体を拭いてスッキリした比奈も、ご機嫌でひゃあひゃあと変な声で叫ぶ。
「んで、俺から1万ガジってどこ行くんだがね里奈」
「まず飯! んでパチンコ屋! あそこクーラー涼しいもん!」
「なんか言うこと忘れてねーか!」
「潮にい、ありがとな!」
小学校に上がったとはいえ、同年代よりもずいぶん小柄な里奈が、比奈の手を引いて駆け出していく。ふたりの背中を見ながら、潮からは小さなため息が漏れた。
「ほんと、おおごとだがね……」