「ほんと、スパイには向いてないわ、この子」『忍者だけど、OLやってます』⑧
公開日:2020/4/13
OLの陽菜子には秘密がある。実は代々続く忍者の里の頭領娘だが、忍者の生き方に嫌気がさして里を抜けだしたのだ。ある日、会社の上司・和泉沢が重要書類を紛失してしまう。話を聞くと、どうやら盗まれた可能性が。会社のためにこっそり忍術を使い、書類を取り戻そうと奔走する陽菜子だが、背後には思いもよらない陰謀が隠されていて…!? 人知れず頑張るすべての人に贈る、隠密お仕事小説!

「うまくいくといいね。ていうかさ、がんばったんだから、デートくらいはしてほしいよね」
「でっしょお? クリスマスも近づいてるし。身体使ってでも落としたいから痩せなきゃ。最近、なかなか体重落ちなくて。なんでかな」
「これだけビール飲んでたら当たり前だよ。……そうだ。脂肪を燃焼しやすくするツボ、押してあげようか」
「えっ、ほんとに? 効く?」
「占いよりそっちが本業だし。末梢神経が冷えてるみたいだし、肩も凝ってるんじゃない? 凝りがたまると太りやすいよ」
言いながら、手の全体を強めの力でもみほぐす。指先があたたまってきたところで、はしゃぐ美波の背後にまわり、耳の下や首筋、そして肩甲骨のあたりを軽く押していった。さりげなく椅子の位置を変え、美波の視界から鞄を隠す。隠しながら、足でそっと自分の座席のほうへと鞄を移動させる。
押したのは、血行をよくするツボと、そして睡眠を促進させるツボだった。
ひととおり強めに押したあと、ここぞとばかりに陽菜子は美波にビールを勧める。身体がぽかぽかしてきたかも、と上機嫌になった美波は、それからも聞きもしないことをよくしゃべった。
かくして20分後、陽菜子にあおられ度数の高いビールを3杯もあおった美波は、無防備に机につっぷし、ぐっすりと眠りに落ちたのだった。
──ほんと、スパイには向いてないわ、この子。
陽菜子の生まれ育った八百葛以外にも、日本にはいくつか忍びの里が潜んでいる。同盟を結んでいる里もあるがごくわずかで、そのほとんどはどこに存在しているかも定かではない。ゆえに、美波ももしかしたら、陽菜子の知らない里の忍びかもしれないという疑念はあった。堂々とSNSに情報公開をしているからといって、そのすべてが本当とは限らない。むしろ、あやしまれないようにあえて偽りの自分を装っているケースもある。
だが美波は本当にただの女の子だった。好きな人に気に入られたい、その一心だったのだろう。自分も誰かに仕掛けられるなんてつゆほども思っていない。あまりにあっけなさすぎて不安になるが、一般人相手ならこんなものかもしれない。
美波の鞄から取り戻した契約書を小さく折りたたんで、上着の内ポケットにしまう。二重底になっているから、落とす心配はない。ついでに、机の上に放置された携帯電話にも手をのばした。暗証番号は、指の動きで確認済みだ。0713。プッシュすると、あっけなく解除される。
メールボックスにめぼしいものはない。
とするとやはりLINEかと、未開封のものをうっかり読まないように気をつけながら、その好きな人とやらの履歴をさがす。
そして。
──嘘でしょ。
見知った名前に唖然としたのは一瞬で、ううん、と動いた美波を横目に、すばやくやりとりのスクリーンショットを撮り、自分のアドレスに送った。契約書を奪った証拠にと、美波は相手に画像を送信していたため、その元データも消しておく。念のため写真フォルダも一巡したあと、指示したと思われる人物とのツーショット写真を確保し、すべての痕跡を消すと、ようやく、気持ちよさそうに寝息をたてている口元に携帯をもどした。あとは立ち去るだけだ。
明日になればきっと美波は、陽菜子の顔をはっきりとは思い出せないだろう。限りなく美波に近く、そして美波の友達にいちばんよくいるタイプに変装したのだから。
──そういえば、社会人になってから外でこういうことするの初めてだ。
大学を卒業するまでは、学費の援助を打ち切られても困るので、里の言うなりに動くこともあった。けれどやめてからどれほど経っても、陽菜子の表情も言葉も心とは裏腹に計算どおり動いてくれる。たとえいま嘘発見器にかけられても、見破られない自信がある。
──だから、いやなのよ。
平気で人を欺き、嘘をつける自分が。
それに対する罪悪感をかけらも抱けない自分が。
やっぱりやめておけばよかった、と後悔しながら店を出る。余計なことをするから、さらに余計な情報を手に入れてしまった。
だけどやってしまったものは仕方ない。とりあえず目的は達した。いまはそれで十分だ。
一晩だけの友人に別れを告げて、陽菜子は足早に駅へと向かった。