「これって…、ふつうのことじゃないの?」介護スタッフのプロ意識を痛感した出来事とは/介護施設で本当にあったとても素敵な話④
公開日:2021/2/16
もはや、介護は誰にとっても他人事ではない時代。著者で医師の川村隆枝さんが実際に見た介護施設は姥捨て山ではなく、入居者にとって“楽園”のような場所でした。「自分の親を施設に入れて大丈夫?」そんな心配を持つ人々に教えたい、介護施設で本当にあった心温まるエピソードの数々。その一部をご紹介します。

介護のプロは、パジャマ一枚でも簡単に破かない
「おはようございます!」
施設内に響き渡る、桑原師長の明るく元気な声。
老健たきざわの一日は、そんな師長の声で始まります。
彼女は、寝たきりの人、意識のない人、認知症の人など、入所者全員分け隔てなく声をかけながら朝を告げていきます。
しかも、彼女の声には不思議な力があります。
声の出ない人も、言葉が話せない人も、目を閉じている人も、意識がはっきりしていない人も、彼女の声にはしっかり反応するのです。
私が声をかけても無反応なことが多いのに……。
彼女だけではありません。
うちの介護スタッフは、常に入所者の幸せに目を向けて工夫することを惜しまない優秀な人ばかり。
例えば、自力で食事ができなくなり、鼻からチューブを挿入して栄養を摂る入所者がいます。
しかし、ずっと異物を挿入されていたら鼻がムズムズしてくるもの。
それに耐えられず、チューブを抜き取る人がいます。ただ、チューブを抜いてスッキリするのは、ほんの一瞬だけ。自力で栄養を摂れないので再挿入することになり、挿入時には痛みがあるだけではなく、吐き気も感じて辛いはずです。
そう思っていましたが、抜き取るのは認知症の方が多く、再挿入の辛さを忘れているようです。
だからといって、そのままにしておかないのが、うちの介護スタッフ。
「チューブを抜き取らないように、可愛いぬいぐるみをいつも抱いてもらったり、手袋をしてもらったりしています。その手袋には、スタッフがいろいろ工夫を凝らしているんですよ」
師長はそう言って、手袋をした入所者の一人を指差しました。
五本の指にそれぞれ人形の刺繍が施されています。
「にぎやかで可愛くて、何だか声をかけてきそうな手袋ね」
その入所者だけが使い、その入所者だけに意味がある一点ものの手袋。
完成までの苦労を考えると頭が下がります。
そうした入所者の情報は、ほぼ毎日、カンファレンスのときに共有しています。
カンファレンスは入所時に立てた診療計画を確認しながら、入所者一人ひとりについて検討するのがメイン。メンバーは、医師、看護師、介護福祉士、管理栄養士、ケアマネージャー、相談員、リハビリテーション科からは作業療法士あるいは理学療法士が参加します。
毎回、意気込みが感じられて、とても心地いいカンファレンスです。
そんな介護スタッフのプロ意識を痛感した出来事がありました。
毎朝、私の部屋には事務部長の吉田隆幸さんが報告書を持って来ます。その報告書で私が注目するのは、インシデント報告です。
現場で事故につながりかねないハッとした出来事がまとめられたもので、類似する出来事の再発を未然に防止するのが主な目的であり、責任者、つまり私が常に注意しなければならないものです。
その日、私は、一つのインシデント報告が理解できませんでした。
『介護の必要な入所者を車椅子に移乗させる際、パジャマを破いた』
どう読んでも、私には反省文としか思えなかったからです。
「これって、仕方のないことじゃない?」
「いいえ、インシデントです」
「本当に?」
「本当です」
当然という表情で、吉田さんは答えます。
私はその表情を見ても理解できず、衝撃的でした。
私は、夫を自宅介護していたことがあります。そのとき、二四時間体制でヘルパーさんを依頼していましたが、車椅子に移乗させるときに何度もパジャマを破かれました。パジャマのズボンの上部を掴んで移動させるので、当時の私は破れるのは当然で、そういうものだと思っていました。
それなのに……。
「これって……、普通のことじゃないの?」
夫のために何度も買ったパジャマを頭に浮かべながら、もう一度だけ吉田さんに聞いてみました。
「パジャマの端を持って入所者様を立たせたり、車椅子に移乗させるというのは介護の技術にはありません。しっかり技術を学んだ介護スタッフであれば、きちんと身体を支えて移動させるので、パジャマが破れることはないんです」
吉田さんの至極冷静な答えを聞きながら、私には一つの疑問が浮かんでいました。
それは、ヘルパーさんと介護士の違いです。
基本的に、ヘルパーさんは、老衰や心身の障害などの理由で日常生活に支障のある高齢者や障害者の家庭を訪問し、家事代行サービスや身体の介護を提供する人のことを指します。そこに資格の有無は関係ありません。
一方で、介護士は、介護福祉士と呼ばれる社会福祉専門職の介護に関する国家資格を取得しています。要するに、介護福祉士は介護のスペシャリストとして様々な技術を学んでいるというわけです。
老健たきざわの介護スタッフは、ほとんどが介護福祉士の有資格者。
つまり、介護に関してはプロ中のプロ。パジャマ一枚でも破いてしまったら事故だと考えていたのです。
そういう人たちが、ここの入所者を守っているのかと思ったら、いつものように明るく入所者と接する介護スタッフたちが誇らしく思えて、うれしくなってきました。