演出家として心惹かれた、『クジラ』の「容赦のなさ」とは――イシグロキョウヘイ監督インタビュー(前編)

エンタメ

2017/12/17

『クジラの子らは砂上に歌う』(C)梅田阿比(月刊ミステリーボニータ)
「クジラの子らは砂上に歌う」製作委員会

 10月に放送をスタートし、12月半ばの今まさに佳境を迎えているTVアニメ『クジラの子らは砂上に歌う』。この作品を簡潔に表現するなら、「総合力がとてつもなく高いアニメーション」ということになるのではないか。そもそも梅田阿比の原作コミックは、見渡す限り砂が広がっているという絶望的なシチュエーションを舞台にしており、主人公・チャクロを取り巻く仲間たちが次々に命を落としたり、感情を失った人間たちが戦いを繰り返すという、「容赦のない世界」が広がっている。
 だからこそ、漂泊船「泥クジラ」の人々が、過酷な世界を生き抜くためにひとつになって前へ進もうとする姿に読み手は共感するし、群像劇的に描かれる登場人物たちも魅力的に映るのだが、原作が持つ強烈な引力をこぼすことなくフィルムに反映するのは、きっとものすごく難しい。本作の監督・イシグロキョウヘイは、『クジラ』から何を受け取り、どのように挑んだのか――原作がもたらした衝撃と、彼の人物描写の根幹を成す「年齢感」の話を交えながら、制作過程を振り返ってもらった。

梅田先生の原作は、いい意味でいろんなことに対して媚びてないと思った

――まずは、原作に触れたときの印象から教えてください。

イシグロ:今まで、ファンタジー作品を演出として手がけることがなかったんです。どちらかというと実景、地続きの世界をベースにした物語のほうが好きだったりするので、普段から観るものも聴くものもそちらに寄っていっちゃうんですけど、ざっくり言うとアニメはやろうと思えばなんでも作れちゃうわけで、ファンタジーって絶対向いてるはずで。ファンタジーの作品をやりたいなあ、と思っていたタイミングでJ.C.STAFFの松倉(友二)プロデューサーから原作を紹介してもらって、「監督興味ありませんか?」っていうお話をいただいて。その時点では、原作のことは知らなかったんですけど、表紙の絵が非常に素晴らしかったので、まずそこで心の中にくるものがありました。すぐに1巻を読んで、展開の容赦のなさに演出家としての面白みのようなものを感じて、「これは他の人に監督の仕事を取られるのはイヤだ」と思いました。原作を送ってもらった次の日くらいには「やります」って返信してましたね。そのくらい、気持ちとしては入れ込んでました。

――原作の引力をさらに詳しく説明してもらうと、どんな言葉になりますか。

イシグロ:僕は、梅田阿比先生の原作が、いい意味でいろんなことに対して媚びてないと思ったんです。もちろん、ファンに向けた一種のサービス的なキャラクターの配置もあったりすると思うんですけど、原作の中にある死生観と、群像劇をまっとうさせるためのキャラクターへの容赦のなさを、最初に1巻を読んだ時点で感じて。「これはすごい作家さんだな」って思いました。自分で監督をしてみたいって思った一番の理由は、そこかな。たとえば(主人公の幼なじみの)サミがこんなにも早く命を落とすとは思ってもみなかったですけど、それも物語の中では必然なんですよね。かつ、主人公のチャクロが記録者であることで客観性を保ってるクールさというか、ある意味作品世界を突き放してるので、そこもファンタジー的だな、と。感覚的に物事を動かしてるというか、計算はあるんだけど計算しすぎてないところに作家としてのすごみを感じましたし、映像化したら面白いものになるなって思いました。

――客観性っていうのはすごくヒントになる言葉ですね。ある種の冷徹さというか、物語を転がしたり、面白くするためだったらどれだけメインのキャラでも命を落とす話にするんだよ、っていう。

イシグロ:なかなかできないんですよ。やれるようでいて、実はやれない。『クジラ』は、運命に立ち向かうために戦わざるを得ない、もともと争いなんてしなかった人たちが争いに巻き込まれていく話なので、そこには戦いの必然性が生まれるんですけど。僕は逆の立場になったときに、生み出したキャラクターが命を落としていくことにはどうしても躊躇が生まれちゃうんじゃないかな、と思うんですよね。梅田先生はそこがある意味クールで、作家としての一番のアイデンティティはキャラクターの扱いに容赦がないっていう部分なのかな、と思いますね。ここまでお客さんに媚びずに物語を紡げるっていうのは本当にうらやましいな、と思いました。

――同時に『クジラ』がすごいのは、徹底的に作品世界を客観視しているにもかかわらず、命を落としていったキャラクターがどうでもいいヤツだったかというと、全然そうじゃないところなんですよね。サミもニビもトクサも全話に出てるわけじゃない、というかそれぞれ実質2~3話分くらいしか出てないのに「こいつが死ぬの、すごくイヤだ」みたいな感じになるじゃないですか。

イシグロ:そうですね。たとえが正しいかわからないけど、ファーストガンダム(『機動戦士ガンダム』)と近い感覚があるんですよね。

――ああ~、なるほど。リュウとか、マチルダさんとか。

イシグロ:そうですそうです。スレッガー中尉だって、たぶん3話くらいしか出てないんですよ。だけどやっぱり、みんなあの死に様を覚えてる。梅田先生自身も、キャラクターが死ぬのはつらい、って言ってました。でも、そこで判断を緩めるかといったらそんなことはなく、苦しみながら描いてるんですよね。そこが作家として素晴らしいところですし、尊敬もするし、僕自身もだいぶ影響を受けました。

――さっき例に出したサミにしろ、ニビにしろ、トクサにしてもそうですけど、感情が失われた世界でありつつ、泥クジラの住民にはすごく血が通っていて、観た人が何かしら感情移入できる部分もしっかり描かれている。逆に、そこがおざなりになると物語が壊れてしまうバランスの上に成り立ってるというか。

イシグロ:そうですね。そこを軽くしてしまうと、やっぱり見透かされると思うんですよ。だから、常日頃から『クジラ』のことを考えながら作ってますね。僕だけではなく、絵の現場や音響の現場も含めてそうなんですけど。やっぱり常日頃から考えないと、さすがにこの作品は扱えないな、とは思いました。まあ、この作品をアニメ化するのが大変だっていうのは、読んですぐわかったんですけど(笑)。でも、原作に魅力があるからこそ、「やりたい」って言ってくれる人が、今回の作品はほんとに多くて。現場のスタッフの原作愛は、僕も含めて強いですね、モチベーションが落ちずに、終盤までずーっと走り続けられてるのはすごくいいことだし、現場に恵まれています。今話していて思ったんですけど、たとえば作画を担当する人にカットを割り振りするときに、「このキャラを描きたい」っていう人に割り振ってたんですよ。だから、余計に思いがちゃんと乗っかっているのかなあ、と思います。

大人でも子どもでもない14歳っていう絶妙な年齢感で戦う判断をするところに、ドラマがある

――このアニメを観て最初にビックリしたのが、空の色だったんですよ。青空の描き方が印象的な作品だと思うんですけど、理想的な青空とはちょっとズレたものを感じるというか。

イシグロ:それは、まさに正しいと思います。ファンタジーであるっていうところで、僕の中で空の色や雲の差し色も含めて、あえて作り物であることをちゃんと提示したほうがいいと思っていて。1話の最初のカットは空から始まるんですけど、画用紙の目が残っていて、それは意図してやっていることなんです。「これは絵なんだ」っていう。そこで、いい意味で違和感を感じてもらいたかったんですよね。自分の中では、「これは作り物で、頭の中で考えたものが映像になっている」っていう図式なんですよ。だからこそ、作り物であることを隠さないっていう。でも、キャラクターをそういう世界に立たせたときに実体を与えることで、キャラクターへの思い入れも生まれるはずなので、声の芝居や作画で動かしていくところは、わりと地に足が着いた形で生っぽくやってます。結果的に、「どこかにこういう世界があるのかもしれない」とか、「絵本の中の話がそのまま映像になったんだな」って感じてもらえたらいいなあ、と思ってるので、そこが上手くいってたらすごく嬉しいですね。

――そここそが、このアニメのすごいところだと思うんです。フィクション感が強いにもかかわらず、登場する人物は非常に肉体的に描かれているじゃないですか。

イシグロ:そこは、飯塚さん(キャラクターデザイン・総作画監督の飯塚晴子)のデザインがほんとに秀逸なんですよ。かなりしっかりしていて、でもしっかりしすぎるとゴツゴツとしてディテール過剰になっちゃうんですけど、飯塚さんのデザインはそこが絶妙なんです。空にしても、フォトリアルな感じにしてしまうのは違うな、と思っていました。

――写実的であってはいけないっていう。

イシグロ:それはスタッフにもかなり言ってましたね、「定規を使わないでほしい」とか。少なくとも、泥クジラのまわりには、たぶん直線は存在しないんじゃないかって思っていたので。そこは有機的なものであったほうがいいはずなので、自分からもけっこう言ってました。

――登場人物が肉体的であるということは、観る人の思い入れを喚起するキャラクターが生まれていく、ということでもあると思うんですけど、ユーザーのリアクションにはどんなことを感じてますか。

イシグロ:死に対する受け取り方が、僕が思っている以上にシビアなんだな、と思いました。思った以上に苦しんでくれるんだな、というか。現場のスタッフの頑張りがそうさせたのかもしれないですけど――色も音も動きもついてしまうので、漫画よりも映像のほうがつらいんですよ。観てくれた方が苦しくなるっていうことは、苦しくなるような理由がちゃんと映像の中にあるということなので、いいことでもあるとは思うんですけど、そのさじ加減はほんとに難しいな、と思いました。

――人物が肉体的であるだけに、キャラクターが死んでしまったりすると、そのショックが倍化して伝わってきてしまうという。でもそれって、映像作品としてはすごく成功しているんだと思います。

イシグロ:そうだといいな、と思っています。

――「年齢感」についてお話を聞いてみたいんですけど、監督が手掛けた『四月は君の嘘』の公生やかをりは14歳だったじゃないですか。で、『クジ砂』のチャクロも14歳で。両方観ている身からすると、「この人はこの年代を描くのがすごく上手いんじゃないか」と思ったんですけども。

イシグロ:これは、つい最近飯塚さんともキャラクターの年齢感の話をしてたんですけど、僕は14歳のキャラクターって好きなんですよ。男の子でも、女の子でも。

――15でも13でもなく、14歳。

イシグロ:そうです。これは日本人特有のものかもしれないですけど、中学3年生の14歳がたぶん一番よくて。大人と子供の中間である部分が大きいんですよね。チャクロで言うと、戦いに巻き込まれてしまって戦わざるを得ないっていう判断をするところは、男として一歩踏み出した部分だったりするんですね。目の前で自分の幼なじみを殺されて、それまでは戦ったこともなかったし、能力的にもサイミアの扱いが苦手でデストロイヤーとか言われている男の子が、勝つか勝たないかはどうでもよくて、戦うっていう判断をするところがいいんだと思います。大人だったらそこまでグッとこないというか、当たり前のように守るべきものを守るってなると思うんですけど、大人でも子どもでもない14歳っていう絶妙な年齢感で戦う判断をするところに、ドラマがあるんですよね。14歳はあらゆる判断にドラマが生まれるし、ドラマチックになるので、そういう意味では演出しがいがある年齢感でもある。17、18歳になってしまうと、僕の中では大人寄りで、それはそれで面白みもあるんですけど、14歳には変身の余地も、成長の余地も無限に隠されている気がするというか。それは、僕が『エヴァンゲリオン』が好きだっていうのも大きいと思います。碇シンジくんが14歳なので、そこが原体験としてあるのかもしれないですね。中学生で世界の何かに関わるみたいなところに燃える部分があるというか。

――コンテを描いたり演出をする中で、特に面白いと感じるキャラクターは誰ですか。

イシグロ:ギンシュですね。裏表がなくてわかりやすいし、元気だっていうところは一番大きいかもしれないです。基本おバカですし(笑)。でもそういうキャラクターがいてくれないと、人がいっぱい死んでしまう作品なので、自分の中でもつらさが溜まっていっちゃうんですよ。逆に、リコスはやっぱり難しいですよね。境遇がちょっとかわいそうじゃないですか。お兄さんには捨てられちゃうし、秘密を抱えているけど明かせない。ただ、梅田先生にはリコスやサミを描くときに、人間らしい嫉妬みたいなものが出ないように気をつけてほしい、と言われていて。いい意味で、キャラクターに対しての薄味な距離感を作品として守りたかったんだと思います。そういう意味で、僕もちょっと突き放しつつリコスに向き合っていて、でも境遇や背後関係を考えるとすごく不憫になってしまうし、かわいそうじゃない状態にしてあげたくもなっちゃうんですけど、そうすると原作とは変わってしまうので、そこはちょっと葛藤がありました。でも、原作ものを監督するときはいつもそうなんですけど、作者の方がどういう意味で描いたのかっていうことを、すごく考えるんです。もちろん、原作どおりにやることの美学もあるんですけど、「作者は何を考えてこの物語を紡いだのか、キャラクターを生み出したのか」っていうことのほうがより重要で。どうすれば作者と同じような脳味噌になれるのか、ほんとに常日頃から考えてますね。

TVアニメ『クジラの子らは砂上に歌う』公式サイトはこちら

取材・文=清水大輔

【後編】再解釈&発想の飛躍が、『クジラ』の映像と音楽を磨き上げる――イシグロキョウヘイ監督インタビュー

イシグロキョウヘイ(いしぐろ・きょうへい)
1980年生まれ。アニメーション監督、演出家。サンライズに入社後、2009年にTVアニメ『FAIRY TAIL』で演出を手掛ける。2014年、『四月は君の嘘』で初監督を務める。他の監督作に、『ランス・アンド・マスクス』(2015年)、『Occultic;Nine -オカルティック・ナイン-』(2016年)。