“若さ=夢や希望にあふれてる”なんて、歳を重ねた大人が美化した幻想『エレジーは流れない』三浦しをんインタビュー【PR:双葉社】

小説・エッセイ

更新日:2021/6/1

三浦しをん

三浦しをん
みうら・しをん●1976年、東京都生まれ。著書に『舟を編む』『ののはな通信』『愛なき世界』、本作のヒントにもなったというエッセイ『ぐるぐる♡博物館』など。本作でお気に入りの人物は怜たちの担任・関口先生。「ものすごく心もとないけど憎めない。あんな先生がいたら、学校生活も楽しいでしょうね(笑)」(三浦)

(取材・文:立花もも 写真:石田祥平)

 もっちもっち、もちゆ〜。という、のどかなテーマソングの流れる餅湯温泉駅前商店街が、約3年ぶりとなる長編小説の舞台。

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「商店街を舞台にした明るい小説はどうですか、とご依頼を受けたんですが、あまり人情モノには寄せたくなくて。ちょっとさびれた温泉街……といっても鄙びた山奥ではなく、熱海のイメージに近い場所で暮らす男子高生たちを描こうと決めました。だからといって、何かに挑むような熱血青春小説にもしたくなかった。だって……ねえ。私が高校生のころ、いや、二十歳を過ぎてからも夢や希望なんて大してなかったですし、ぼんやりした夢想はあったけど、そのためにがむしゃらな努力を重ねることもなかった。『将来の夢はなんですか?』って聞かれるの、本当にきらいでしたもん。でもそういう無気力な若者、意外と多いと思うんです。それなのに世の中には夢に向かってがんばろう的な物語や歌が溢れてる。あれって本当にみんなの胸に響いているのかな?ってところから発想していきました」

 主人公の怜もまさに、将来への確たる展望もない若者だ。成績はいいけど、特技もなく、母が営む土産物屋を継ぐのかな? 程度の人生設計のなか、ぼんやり進路に悩んでいる。

「なんとなく、夢をもたなきゃいけない圧力が、昔より強くなっている気がするんですよね。堅実に努力することをよしとする今の風潮を見ていると、社会にとって扱いやすい人間をつくりたいだけなんじゃないかと疑ってしまう。もちろん不景気のせいもありますが、親元から近い大学に進学したり、地元に戻って就職する子たちが増えているのも、親孝行を過度に美徳とすることで、しがらみを抜けて“外”に出ていこうとする子たちの意欲や反骨心を削いでいるような気がして……。でもこれが加齢ということなのかな。だいたい年をとると『この腑抜けが! わしらの若いときはなあ……』って憤慨するじゃないですか。それは、『若さとは夢や希望にあふれたいちばんいい時期だ』って美化した記憶を若者に押しつけるのと同じなので、気をつけにゃならんのですが、商店街を舞台に進路に悩む怜を描くことで、そのあたりの葛藤も描けるんじゃないかなと思いました」

こんな女同士の連帯がどこかにあってほしいと

 怜が明確に将来を見据えられない理由は家庭環境にもある。ふだんは〈おふくろ〉である寿絵と商店街で暮らしているけれど、月の第三週目だけは高台の豪邸で〈お母さん〉の伊都子と過ごす。それが物心ついたときからの日常だが、どちらが実母なのか、はたまたどちらも違うのか、そして実父はどこの誰で何をしているのか、怜は知らないままなのだ。

「怜はどんな子だろうと考えたとき、ふっと浮かんだんですよね。たぶん、彼女たちのように女同士が連帯して子育てする家庭もどこかにあるんじゃないか、いやむしろあってほしい、という願いがあったんだと思います。過去に寿絵と伊都子のあいだで起きたことを考えれば、実際はこれほど平和的に事を進められないかもしれないけれど、父親にあたる男がどうあれ、自分たちの感情もさておき、目の前で生まれようとしている命こそ大事で、守るためにはいがみあうのではなく共闘の道を選ぶ、という関係性は十分にありえるんじゃないかなと思ったんです。“普通”の定義がどんどん塗り替えられている今、家庭に父親と母親が一人ずつ揃っていることを重視する必要もないですし、女同士が互いに足りないところを補い合って、手を携えて生きる世界があってもいいじゃないか、と」

 女同士の連帯、というのは別の形でも描かれる。怜たちの住む餅湯町は隣町と仲が悪く、学内でも対立しているのだが、女同士のおしゃべりの前では因縁など無意味。「隣町より提灯をたくさん吊るそうぜ!」と息巻く商店街の男たちに「うるさったい」と女たちが却下する場面も。

「性別でくくっちゃいけないとは思うけど、提灯問題みたいな意地のはりあいは男性間でよく起きますよね(笑)。ときどき女性は非論理的って言う人がいるけど、私から見れば男性の自称論理性とやらも、全然筋が通ってないなって思うことが多くて。怜の幼なじみである竜人が、修学旅行先で喧嘩する理由だってめちゃくちゃですし。そういうとき、目の前にあるなすべきことを片すために女性が合理的にいなすってことも、よくあると思うんです。もちろん、だからといって男性がダメだと言いたいわけではないですよ。竜人のつきぬけておバカな行動が学内の分断も他校生との溝もひょいと溶かしてしまったように、彼らは彼らのユーモアと作法で手を携えていくことができる。私、勉強ができるのとはまたちがう頭の回転の速さでもって、全力でおおまじめにふざける男性がすごく好きなんですよ。さりげなく愉快な発言をするから腹を抱えて笑っちゃう。その感じを、怜や竜人だけでなく今回の登場人物にはもたせたかったんですが……なかなかうまくいかなかったですね」

 何をおっしゃる。今作で描かれる軽妙な会話のキレ味は、三浦作品のなかでも随一だ。シリアスな局面でブラックコーヒーを選んだ怜が〈牛の乳などという赤ちゃん牛の飲み物で苦さを誤魔化している場合ではない〉と思う場面など、些細な比喩表現にも技巧の限りが尽くされており、それこそ腹を抱えて笑ってしまう。

「それならよかったです(笑)。今回は、神輿を破壊しつくす祭りや博物館での土器盗難、怜の父親騒動など、それなりに事件も起きるんですが、特別大きな盛り上がりがあるわけじゃなく、ゆる〜く話が進んでいくものですから……。いつも以上に細部の文章を練らねばと、最後の最後まで手を入れていました。だから、伏線にもならないようなしょうもない会話や、はたから見たらちっぽけな悩みに苦しむ彼らの日常を、温泉に浸かるような気持ちでのんびり楽しんでいただけたらと思います」

ラストに辿りつけばわかるタイトルの意味

 三浦さんの小説はしばしば“さびしさ”に言及される。本作もまた、確かに軽妙な笑いに満ちているが、怜をはじめとする登場人物たちのさびしさが、ときどき隙間風のように吹いて身に沁みる。

「さびしくない人っているのかな、ってよく考えるんです。たとえば私、部屋にいるピカチュウのぬいぐるみに話しかけるのがクセで、このあいだうっかり母がいるのを忘れ、ピカチュウの声真似をして応答しているところまで聞かれてしまったんですよ。『なんてかわいそうな子……!』と母は顔面蒼白でしたが(笑)、別にそれ自体はさびしくないし、私は幸せに暮らしているんです。たぶん私の抱く根本的なさびしさは、一人暮らしだから沸き起こるわけじゃなくて、どうあっても解消できないもの。それはみんな同じだからこそ、誰かと気持ちをわかちあうために出会い、相手のことを理解したいと願うんじゃないかなと思うんですよね」

〈あらゆるしがらみから解き放たれて、案外自由で楽しそうに見える。でも、さびしさを感じる余地もないほど一人だ〉という一節が作中にある。さびしいのは、一人ではないからだ。家族や地元に対するありがたさと煩わしさ。友人たちへの尊敬と嫉妬。常に表裏一体の感情が招くさびしさは、きっと死ぬまで続く。だがそれを教えてくれる本作を、読んでいるあいだに流れるものは、エレジー(哀歌)ではない。「ちょっとわかりにくいタイトルかなって思ったけど、最初からその場所に辿りつくことは決めていました」という三浦さん。その意味は、どうか読んで確かめてほしい。

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