『進撃の巨人』が堂々完結!『ダ・ヴィンチ』2011年6月号の諫山創氏インタビューを特別公開!

マンガ

更新日:2021/6/7

 2010年代を代表する超大作『進撃の巨人』(諫山創/講談社)が堂々完結! 6月5日発売の雑誌『ダ・ヴィンチ』7月号では、「『進撃の巨人』を、読む」特集を実施している。ストーリー&キャラクターガイドや声優・梶裕貴をはじめとする関係者インタビューなど、ぜひチェックを! ここで、過去にも『進撃の巨人』特集を実施してきた本誌の2011年6月号から諫山創氏インタビューを特別公開しよう!

(本記事は『ダ・ヴィンチ』2011年6月号からの転載になります)

 初連載にしていきなりミリオンセラーを生み出した諫山さん。まだ20代前半の彼に“若き才能” といった言葉を冠するのは簡単だが、ご本人から受ける印象は、もっとがむしゃらな荒々しさ。

 壁、巨人、そしてエレン――それらに託して何を描くのか、描けるのか。ひたむきに手探りを続ける諫山さんが、震災後に描こうとするものとは。

(取材・文=町村章生 写真=細川葉子)

日常を囲っていた壁が壊れてしまったとき

 東日本大震災があった3月11日、なんてこともない普通の一日のはずが、忘れられない記憶として刻まれることになった。

 その翌日、福島第一原子力発電所で事故が起きた。白煙が立ちのぼる無残な映像は、悪い夢を見ているみたいだった。それを見て想起したのは、『進撃の巨人』のあの一場面だ。

 一見、平和な日常。しかし、街は高さ50メートルの塀で囲われ、外には人類を捕食する巨人が跋扈する。ある日、人類の想定を遥かに超える50メートル超級の巨人が出現し、塀を蹴破ってしまう。塀が破壊され、無数の巨人たちが一挙に街になだれ込む、あの場面だ。東日本大震災のあの日、作者の諫山創さんはどう感じていただろう?

「あの日、僕は熱にうなされて寝ていたんです。ゴゴゴゴゴと揺れはじめて、世紀末が来たような印象でした。そのときの感覚は『ドラゴンヘッド』を読んだときの感覚でした。もう二度と日常は戻ってこない……という寂しい感じです。実際に被災された方とはぜんぜん比べものにならない感じ方で、以前に接したマンガの疑似体験に当てはめることしかできなかった」

 1923年に関東大震災があってから八十数年、いずれ大地震がくるだろうと想定していながら、ろくに準備ができていなかった。さらには放射能の脅威が重くのしかかる。『進撃の巨人』も同様に、塀の中の平和が100年続いたため、人類は巨人たちの脅威を軽視するようになっていた。実際に、壁を壊されてはじめて、その平和が一時的な安定にすぎなかったことに気づかされるのだ。まるで今のこの状況を予見したかのような構図だ。

「原発の事故があったときは、これからどうなるかわからないという不安のピークが2、3日あった。そのとき、妹がだいぶ混乱していまして、チェーンメールの情報を真に受けたり、放射性物質が入ってこないようにドアの隙間をガムテープで埋めたりしてたんです。その後、街で買い占めをしている人を見たりして、みんな何を大袈裟にやってるんだろうと思っていた。だけどそれは、自分のマンガで言うと、壁を壊される前に巨人対策に躍起になっている調査兵団をちょっと鼻で笑っていた人と同じ感じ方なんですよね……」

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巨人とは、読む人の心の鏡かもしれない

 物語の中で、人類の絶対的脅威として描かれる巨人。今読むとそれは、自然災害のメタファーのようにも見えるし、文明が生み出した原発のメタファーのようにも見える。しかし、諫山さんは『進撃の巨人』を現代と通じるテーマがあると考えて描いたわけではなかったという。

「19歳のときに講談社への持ち込み用原稿で45ページの読み切りを描こうと思って、そのときはじめて巨人のイメージを思い浮かべたんです。吸血鬼やゾンビをモチーフにした作品は多いですけど、なぜか巨人を扱った作品はあまりない。僕はすごく怖いと思うんですけど」

 記憶を辿っていくと、幼い頃にテレビで観た特撮映画『サンダ対ガイラ』が思い浮かぶという。しかし、それもうっすらとした記憶で、強烈なトラウマ体験といった感じでもないそうだ。

「『進撃の巨人』は何かのメタファーだとか難しく考えて描いているつもりはありません。ただ、壁の中に追い込まれた人類といった縮図的な見方は意識していました。それを見てどう思うかは、人それぞれの心情の鏡みたいになると思うんです」

『進撃の巨人』では、パニック状況に際し、さまざまな人の行動が描かれる。危機感が持てない人間、財産を守ろうとする人間、緊急事態にあっても平常時の規則に固執する人間、恐怖から逃げて隠れてしまう人間、そして、主人公のように脅威に立ち向かおうとする人間だ。

「本当にそうなったら、僕は活躍できないほうの人だと思います。それこそ『進撃の巨人』のエピソードのように、ガスが保管された部屋に閉じこもってしまう側。でも、そっちのほうがリアルですよね。主人公のように巨人に立ち向かうほうが、ファンタジーの世界の人物なんだと思います」

 主人公のエレンは、自ら調査兵団に入ることを志願し、外の世界を知りたいと願う。作者の諫山さんは、自分とは対照的なキャラクターだと考えている。

「実は僕自身は、わりとひきこもり症なほうで、あまり外に出たいという欲求がないんです。田舎で暮らしていた頃は、田舎以外のところに行きたいという欲求はあったんですが、今は普段もあまり家から出ない。ましてや巨人がうろうろしているような土地だったら、いくら塀の外に未知のものがあるからといって外に行きたいとは思わない」

 19歳の頃、『進撃の巨人』を描きだした際に意識した“壁の中に追い込まれた人類”という縮図。当時の諫山さんにとってそれは、メディアという壁だったのだという。

「ネットを使いはじめた頃で、いろいろ見ているうちに、テレビの言っていることが全部本当のように思われているけど、実はまったく違う真相があるとか、いろいろな意見があることを知って衝撃的だった。今では、そのネットにも間違った認識がたくさんあることもわかりましたし。それから自分で本を読み漁ったり、脚色されていないドキュメンタリーを探したりするようになったんです。そのときの僕にとって、テレビが壁みたいな感じでした。日本をメディアが壁のように囲んでいるけど、一歩外に出ると、世界ではまったく違う報道がされている」

 震災前の報道を思い出してほしい。世界ではウィキリークスの創始者の逮捕やエジプトの大規模な反政府デモなどがあった。だけど、それよりもっと多くの時間を割かれたのは、海老蔵や相撲取りの報道ばかり。伝統ある梨園や角界が乱れているからといって、何を今さら……といった印象しかない。

「世界でネットを通して自由への革命が起きているときに、日本だけは海老蔵さんの問題。いい加減にしてほしいですよね。
 最初に『進撃の巨人』を描いたときは、壁の中に追い込まれた人類を描こうという気持ちで、主人公はその中で動く記号的なキャラクターにすぎませんでした。僕自身の動機は反映されていません。僕はたとえ外の世界に溶岩や氷河や砂漠といった未知のものがあるからといって、それを見に行こうとは思わない。観光目的で命はかけられません。だけど、4巻冒頭あたりでようやく、主人公は外に行きたいわけじゃなくて、自由が制限されているのが嫌なんだと明確になる。そのために命をかけているんです。それは、自分の中にもある感情だと思えた」

あの震災の後に、描いていきたい物語とは

 あらためて、『進撃の巨人』は近年稀に見るインパクトだった。諫山さんの描く描線は、けして洗練されたものではないが、かえってその荒々しさが異様な迫力を生み、思わず心を奪われたのだ。アニメ的な絵柄が主流の時代にあって、あきらかに異端。均衡が崩れることを意に介さず、どこまでも突き抜けていく表現。これもまたマンガ表現ならではの醍醐味だと思う。

「連載が決まったときは単純に喜んだんですけど、その2分後にはヤバいぞって(笑)。商業的なマンガが描けないことに気づきまして、最初は打ち切りのプレッシャーに追い立てられるような感じでした。普通にやったら読んでもらえないような絵だから、見開きでインパクトを出したり、展開を練り上げたりしないと。だけど、巨人というモンスターの魅力を出すことにだけは自信がありました」

 巨人といっても、超大型巨人以外は、ぬらっとした裸の人間。理性が完全に抜け落ちた人間の不気味さを感じる。

「牙や角があって目がとんがっている。そういう記号的な怖さは避けました。怖いための造形をやってしまうと、これは怖いためのキャラなんだっていう意味が伝わって、逆に安心なんですよね。実は巨人にはモデルがあるんです。以前、池袋のネットカフェで深夜バイトしてたんですけど、酔っぱらいがよく絡んできたんです。酔っているから会話もできなくて、意思の疎通がとれないのが何より怖かった。しかも、意思はわからないのに知恵があるのが怖い」

 理由のはっきりしない不安感が『進撃の巨人』全体を覆っている。巨人が人間を捕食する理由もわからないし、中世なのか未来なのか時代もよくわからない。もっと言えば、地球なのかもわからない。すべてが曖昧模糊とした中で、ただただ不安感だけが浮かんでいる感じ。悪い夢を見ている感覚に似ているのだ。あらためて諫山さんに伺った。これは未来の地球を描いた作品なのか?「それは、最初のほうでちゃんと明示しておくべきことだったとも思ってるんですが……。さまざまな謎がありますが、それは、いつか突然明らかにするつもりです。それが明らかになったときが、物語が終わるときです」

 しかし、この世とのつながりのないはずの物語が、もっとも今起きている現実とシンクロしている。僕が今回の原発事故でまっさきに『進撃の巨人』を想起したように、この時代が抱える不安感をこの作品は先どりしていたように思うのだ。物語自体はパラレルワールドであっても、描いている作者は同時代の人。今、この時代、この状況で作品を描くことの意味を聞いた。

「今起こっていることを前にすると、どんな物語を描いても所詮、物語だな、という感は否めない。ましてや、24歳でたいした人生経験もない自分が描いているものですから。やっぱり今一番の衝撃は現実ですよね。震災前に『別冊少年マガジン』の表紙を描かせてもらったんですが、それは破壊衝動みたいな絵だった。震災が起こる前の日本には、停滞した閉塞感が蔓延していて、暴力的なものが足りなかったような気がしたんです。でも、あの日を境に、まったくそれが必要なくなってしまった」

 くしくも4巻の冒頭は、巨人に破られた壁の穴を塞ぐか塞がないかのエピソードが描かれた。

「今回の原発の問題を見て、実はちゃんと対策をやっていませんでした、というのはリアルに感じる部分です。『進撃の巨人』で言えば、壁を強化してこなかったことと同じですよね。だけど、それは後になってから言えること。3月日より以前に津波の対策のために必死に行動できたかというと、自分がそれをやっていない以上は他人にも言えないと思うんです。僕がこれから描きたいのは、実際に目の前にある脅威に対して、勝ち得るとしたら、どうやって勝ち得るのか。『進撃の巨人』では今後そういう部分を描いていきたい」

 震災前/震災後。今後、すべての表現は、この軸から変わっていくのかもしれない。『進撃の巨人』が今後、何を描き出していくか。この状況を乗りきるヒントがそこに描かれるのではないかと期待している。

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