渕上舞「これが最後」と臨んでいた ―『ガルパン』がこれほどまでに人気を得た理由

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更新日:2014/4/5

 2012年のアニメ放送から、プラモブームや舞台となった大洗の聖地巡礼など、さまざまなブームを巻き起こした『ガールズ&パンツァー』。しかし、最初から大注目され、人気も高く、すべてがうまくいっていたというわけではない。そこで、アニメスタッフから、ガルパンを広めた大洗のとんかつ屋さん、茨城県庁広報課といった人々のインタビューが掲載されている3月17日発売の『ガルパンの秘密 美少女戦車アニメのファンはなぜ大洗に集うのか』(廣済堂出版)から、ガルパンがこれほどまでの人気を得るまでの軌跡を辿ってみよう。

 まずは、企画の段階から“背水の陣”で臨んでいたという制作会社から。そもそも、ガルパンはアニメ制作会社・アクタスの社長でアニメーションプロデューサーでもある丸山俊平が、バンダイビジュアルの湯川淳に声をかけたことから始まった。繋がりはあったが、知名度も低いアクタスと仕事をするのは、バンダイビジュアル側としてもすぐにOKを出せるものではなかったよう。そこで、湯川は「旬なクリエイターを一人連れてきてくれ」という条件を出す。それに対して、丸山は使えるツテを使ってどうにか島田フミカネを紹介してもらったのだ。スタッフから「お前向いてないよ」と言われたり、2009年に創業社長が亡くなってその後を継ぐことになるなど、悩みも多かった丸山。どこの誰ともわからない新米社長。結果の出せていないスタジオ。「戦車をガチでやるのはダメ、コストに見合わなすぎるから」という先輩の言葉。そんななかでも、戦車を題材にすることが決まってからは「おそらくアクタスと自分にとってはきっと“最後の作品”となるだろう」と思い、まさに「背水の陣」で臨んだという。その気持ちに応える形で、湯川が水島監督や脚本の吉田玲子など、万全のスタッフを集め、最高のチームができあがったのだ。

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 それほどの覚悟で臨んだのは、丸山や湯川だけではない。主人公であるみほ役の渕上舞も、声優をやめて別の仕事を探そうと思っていたところだったそう。「これが最後」という思いで、できることはすべてやろうとひとりひとりが全力で『ガルパン』に向かい合っていたからこそ、その思いがみんなに伝わったのだろう。

 また、ガルパンブームを牽引した立役者として忘れてはならないのが、舞台となった大洗にあるとんかつ屋兼Oaraiクリエイティブマネジメント社長の常盤良彦だ。Oaraiクリエイティブマネジメントは、大洗の名産品を販売する大洗まいわい市場の管理、街の活性化事業などを行っており、『ガルパン』のアニメにも協力している。「港を撮りたい」「マリンタワーを撮りたいです」という要望を受け、一番かっこよく見える場所のマップやタイムスケジュールを作ったり、茨城交通や鹿島臨海鉄道、商店街に声をかけて協力してもらうのが大変だったという常盤。まず、アニメの内容を説明しても相手は「ポカンとした表情をする」ので、何度も何度も説明しに赴いたり、かつて営業マンとして培ったプレゼン能力を発揮して、資料を見ずに話せるぐらい何回もひとりで声を出して練習したそう。それに、「ローカル局がない茨城県で、大洗を舞台にした『ガールズ&パンツァー』を地元の人に見せたい」という思いから、インターネットテレビでの配信に向けて尽力した茨城県庁広報広聴課の樫村裕章も外せない。彼が「やりましょう」と即答し、実現できたことで、茨城県内でも『ガルパン』が認知され、盛り上がっていった。そして、常磐を中心に、協力してもらえる人たちとは密に信頼関係を築けるよう、最初は少人数でやる「コソコソ作戦」を実行したのだ。

 報道される機会は少なかったが、実は大洗も震災で津波の爪痕や風評被害に悩まされ、多くの人が疲れ果てていたという。だから、『ガルパン』を盛り上げたのは、単なる町おこしというより、大洗の人を元気づけ、大洗の人たちが楽しむためでもあったよう。

 「これが最後」という思いで臨んだスタッフと、その思いに打たれた人たちの協力によって『ガルパン』は生まれ、制作側や大洗の人も含めた作り手が楽しんでいたからこそ、観る人にもその思いが波及していったのかもしれない。

文=小里樹