美人であればそれだけでいいのか? 他人の美しさを奪いながら大成していく女優、得るのは永遠の栄華かそれとも破滅か――。

マンガ

公開日:2017/5/21

『累-かさね-』(松浦だるま/講談社)

 大切なのは外見よりも中身。そんなきれいごとを言えるのは、けっきょく美しい者だけだ。見た目だけで侮蔑され、迫害された経験のない、恵まれた人間だけが言える世迷い言だ――そんな一つの真理をつきつけてくるマンガ『累-かさね-』(松浦だるま/講談社)。己さえも目をそむけたくなるほどの圧倒的な醜さで生まれついた少女・累(かさね)が、美しい他人の“顔”を奪って女優として大成していく、現代の怪談劇だ。

 伝説の大女優・淵透世(ふち・すけよ)の娘でありながら、似ても似つかぬ醜さゆえに、幼い頃からいじめられ、辛酸を舐めてきた累。だが小学生時代のある日、彼女は、母の遺した赤い口紅の存在を思い出す。それを塗って他者と唇を重ねると、相手と“顔”が交換できるのだ。その力によってクラスの美少女・イチカに成り代わった累は、学芸会の舞台に立つ。天賦の卓越した演技力とその美貌で学校中を魅了した累は、生まれて初めて羨望と称賛に満ちた光の世界に立つ。そして知るのだ。見た目が変わっただけで、世界はこんなにも簡単に反転してしまう。いくら才能があっても、醜いままでは誰にも認めてもらえない。累が人生の幸せを手に入れるためには、“自分”でいてはいけないのだ――。

 誰だって、一度は「あんな顔に生まれていたら」と他人を羨んだことはあるだろう。累ほどの醜さでなくとも、よほどの美女でない限り、瞼が二重だったら、もっと鼻が高かったらと、容姿への不満は尽きることがない。いや、よほどの美女であったとしても、他者と比べられるほどに欠陥が見えてくることがあるかもしれない。だからこそ世の中には、整形、というものが存在する。整形のハードルを一度踏み越えれば依存になりやすく、くりかえした先で歯止めが利かなくなる人も多いというが、累の入れ替わりもそれに近いものがあるかもしれない。ほんのわずか、小学校の学芸会で味わった一瞬の幸福を、累は二度と手放せなくなってしまった。――人を殺してまでも。

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 最初の殺人は偶然だった。顔を奪われ、憤ったイチカの口をふさぐには、殺すしかなかった。そして次は、丹沢ニナ。18歳になり、かつて母と秘密を共有していた演出家の羽生田(はぶた)に導かれて出会った彼女の顔と身分を手に入れて、女優として輝きだした累は、最初は彼女と共犯関係にあった。だが、累の行為は、本物のニナから尊厳も立場も幸福も何もかも奪うことでしかない。仮に交換をやめたところで、累の演技力にはとうてい及ばない。ありのままの自分に戻ったところで、ファンにも、好きな人――誰より尊敬する演出家にも失望されるだけ。すでに自分は死んだも同然だったのだと、ニナは気づいてしまう。

 ここで、別の“反転”が起きているのも、本作の面白いところだ。

 外見がすべて。内面がいくらすばらしくても、見た目が醜ければなんの意味もない。では、美しかったらそれだけでいいのか? すべてはうまくいくのか? そうではないのだ。累の才能をもたないニナは、女優として行き詰まっていた。舞台を降りて、プライベートの場でさえ、好きな人には「いつもと違う」と拒絶された。美しさ、だけじゃだめなのだ。他者を圧倒する存在感と才能。それもまた、華々しい栄光をつかむためには必要不可欠なもの。いやむしろ、美しさは必要最低限の“前提”でしかなかった――。

 そう。本作が描き出すのは、単なる、美醜にとらわれた女たち、ではない。才能という努力では越えようのない壁に直面した、演じる者たちのもがき苦しむ姿なのだ。

 仮に、累に演技の才能がなかったとしたらどうだっただろう。美しさを手に入れただけであれだけ堂々と振る舞えるようになった彼女のことだ。多少の整形をほどこせば、栄華の道は不可能でも、分相応の幸せをつかんでそれなりに生きていったかもしれない。だが、醜さゆえに“他人に成り代わりたい”という執念を抱く彼女だからこそ、演者として怪物級の才能を開花させていくのだから、同じだったかもしれない。けっきょくはその醜さこそが、彼女の唯一無二の才能だったのではないかとさえ思えてしまう。

 やがてニナを失った累は、もう一つの、今度は何よりも望んでいた顔を得る。亡き母・透世に瓜二つの少女・野菊だ。といっても、口紅の保持者だった透世の美しさが、生来のものであるはずがない。野菊の美しさは、彼女の母――透世が顔を奪った女のものだ。そしていま、野菊もまた己の母と同じ道を歩もうとしていた。業の深い罪累の道に巻き込まれた2人の少女。その先で得られるのは永遠の栄華か、それとも破滅か。ますます加速していく物語に、今後も期待したい。

文=立花もも