Nintendo Switchが話題の今、任天堂の後塵を拝した“アタリ”を振り返る『負け組ハード列伝』

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2017/6/1

『負け組ハード列伝 家庭用ゲーム機編』(前田尋之/オークラ出版)

 千葉県浦安市に東京ディズニーランドが開園した1983年、テレビゲームの歴史が大きく動いた。何を隠そう、任天堂が7月15日にファミコンの愛称で知られる家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売したからである。

 以降、日本はテレビゲーム界の先駆けとなり今日に至る。昨今では任天堂の「Nintendo Switch」やソニーの「PlayStation4」を中心に、現実と見まごうばかりの美麗な映像や迫力をもたらす音に包まれる空間を、自宅のテレビを前にして味わえるようになった。

 しかし、だ。ファミコンを契機とすればの話であるが、据え置き型の家庭用ゲーム機の歴史は、今年で34年もの歳月が流れたことになる。今でこそ任天堂とソニーの2強に、かろうじて「Xbox One」を手がけるマイクロソフトが追随するかのような様相をみせているが、長い長い歴史の狭間では、不遇なままその片隅で置き去りにされた様々なメーカーやハードが存在する。

 そんな歴史に埋もれたハードたちに光を当てた一冊が『負け組ハード列伝 家庭用ゲーム機編』(前田尋之/オークラ出版)である。本書には、ゲームファンにとっては懐かしさすらおぼえる様々な家庭用ゲーム機が名を連ねるが、その中から、世間的に「Nintendo Switch」への関心が高まる今、その元祖ともいえるファミコンの後塵を拝したあるハードに焦点を絞ってみたい。

 さて、アタリと聞けば思わずニヤッとするゲームファンも多いはずだ。それもそのはず。世界初のビデオゲーム専門会社として北米で誕生したアタリは、ファミコンの登場する約6年前、1977年にこれまた世界初のカートリッジ式のゲーム機「アタリ2600」を世に放った会社だからである。

 本書で紹介されている「アタリ2800」は先の「2600」をベースに、本体のデザインやコントローラの形状を変更して1983年5月から販売開始された家庭用ゲーム機である。当初、本家の「2600」を並行輸入品として東洋物産とエポック社から発売していたアタリであったが、この「2800」をもって、満を持して本格的に日本でのテレビゲーム市場へ打って出たというわけだ。

 しかし、黒船として華々しくデビューした「2800」は、わずか1年足らずで日本市場から撤退することになる。本体と同時発売で、当時一世を風靡していたアーケードゲーム「スペースインベーダー」などを擁した「2800」であったが、不幸だったのはやはり、わずか2ヶ月後にファミコンが登場したことだった。

 ハード面では変更点のなかった「2800」に対して、ファミコンは「2600」の発売から約6年もの歳月の中でじっくりと先行他機種を研究し尽くした末にできた代物だった。加えて、ファミコンの価格が1万4800円であったのに対して、「2800」は2万4800円と1万円も高く、対峙するにはあまりにも分が悪すぎたのだ。

 そして、ちょうど時期を同じくして、アタリのお膝元である北米ではテレビゲーム市場に異変が起き始めていた。発端は1982年頃からで、本家の「2600」をきっかけにバブルともとれる状況の中、様々な業種がテレビゲームのソフト市場へと参入しはじめた。

 しかし、新規参入が相次ぐ中で起きたのは、粗悪品が濫造されるという事態だった。アタリは当初、ロイヤリティを支払いさえすれば自社のハードへ誰でもソフトを供給できる体制を取っていた。ただし、本来は“餅は餅屋”であるべきで、ゲームを作るのはそれ相応の技術や実績を持つ者が担うのが定石であるはずなのだが、慣れない業種の参入で結果的に“クソゲー”が市場へ出回ったことで信頼はガタ落ち、北米のテレビゲーム市場は崩壊へと向かった。

 この一連の事態は俗に「アタリショック」と呼ばれている。くしくもその窮地を救ったのが、任天堂が1985年6月に発売した海外仕様のファミコン「NES(Nintendo Entertainment System)」だったのはあまりにも皮肉である。

 ただ、様々なメーカーによる切磋琢磨があったからこそ、今日のテレビゲーム市場が切り開かれたのも事実。長い長い歴史の中で、アタリもたしかにその名を刻んできたのである。

文=カネコシュウヘイ