『料理は女の義務ですか』――なぜ女性ばかりが台所に立たなければいけないのか? その引力の根源を探る

恋愛・結婚

2017/11/29

『料理は女の義務ですか(新潮新書)』(阿古真理/新潮社)

 人類最古の悩み事は何だろうか。衣食住のどれが欠けても困るが、食だけはタイムリミットがある。人は生存するためにどうしても食べなければいけないからだ。狩りで獲物を追っている原始人も、ふと立ち止まって「私はどうして食べなければいけないのだろう」と考えた時があったのではないだろうか。

 幸いなことに現代日本では、獲物を追わなければ生存できない状況はほとんどない。食べる素材だけでなく調理済みの食品も、いくらかのお金さえあれば簡単に入手できる。料理を楽しむ人もいれば、手軽に済ませる人もいる。しかし、選択の自由があるかというと、そう単純にはいかない。そこには、一緒に誰と住んでいるかということや性別が関わってくる。歴史的に世界の多くの場所で、料理を作るという役割は女性が担ってきた。その理由・変化が丁寧に説明してある『料理は女の義務ですか(新潮新書)』(阿古真理/新潮社)では、このような現代的問題が指摘されている。

料理はいったい誰が、誰のために、つくるものなのか。どこまでが手づくりと言えるのか。つくるべきものなのか、つくりたいものなのか。さまざまな次元の情報が等価に流れ去る現代を生きる私たちは、情報の洪水に呑まれて溺れそうになっている。

 リンカーンの民主主義に関する名言を思い出させるこの文は、生き方が多様化するにしたがって、社会の中で「料理をする」という行為が持つ意味合いが複雑になっていったことを私たちに気付かせてくれる。親が赤ちゃんに料理を作ることと、レストランで店が客のために料理を作ることは何が違うのか。便利な料理キットを使った瞬間、「手づくり料理」の資格は剥奪されてしまうのか。一般的なホテルのように、台所なしの部屋で暮らすことは非人間的なのか。料理が嫌いな人は非常識なのか。様々な問題提起の中で、本書の題名が示す通り、現代日本においては女性が台所に立つ必然性はないかもしれないという思いがわいてくる。

 しかし、題名はあくまで考えるきっかけを提供するためで、本書の焦点は「食が育むつながり」にある。料理と愛情の関係について、著者自身の「料理=愛情」という結びつけに対するトラウマを前提にした上でこう書かれている。

食事を通して伝えられる愛情は確かにあるが、限定的である。それなのに「料理は愛情」と強調しすぎると、料理に苦手意識を持つ人、つくる余裕を持てない人の罪悪感を深めてしまう。

 人は必ず食べなければならない。食べるのは自分自身だ。食べ物を構成する成分は未来の自分の身体となり、その成分は自然の恵みによってもたらされている。そしてそれは他者においても同様だ。つまり、他者について思いやることは、料理をするかしないかに関係なく、食を豊かにすることにつながるのではないだろうか。原始人が聞いたらきっと羨ましがるけれども、軽くは片付けられない料理にまつわる悩みの数々。本書を読んだ後は、食事をする前に箸を止めて、SNSにアップする写真を撮るでもなく、目の前にある料理をじっと見つめてしまうかもしれない。

文=神保慶政