人間は自分たちだけが賢いと思っていないか?――『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』

暮らし

公開日:2017/12/2

『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』(フランス・ドゥ・ヴァール:著、柴田裕之:訳/紀伊國屋書店)

 賢い動物というと、どんな動物が浮かぶだろうか。チンパンジーの知能が高いことは有名だし、身近な動物では犬猫も「賢い」と感じる場面は多々あるだろう。言葉を話すという面では、オウムなどの鳥類も外せない。こういった動物たちを私たちが「賢い」と言う時、それは何と比べて「賢い」と判断するのだろうか。言わずもがな、その基準は私たち人間である。人間が賢さの頂点にあり、その動物が持つ知能が人間に近いほど「賢い」とする……これが普通の感覚である。『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』(フランス・ドゥ・ヴァール:著、柴田裕之:訳/紀伊國屋書店)では、進化認知学という学問の観点と、「人間と動物の知能は比べられるものではない」という観点から、動物の賢さを科学している。

 例えば、犬である。人間にとってもっとも身近な動物のひとつとも言える犬は、行動による結果を学習する。わかりやすいところだと、(飼い主が)投げたボールを取ってくる(行動)→餌を貰える(結果)ということだ。これは、裏を返せば犬の行動は結果ありきで規定されているとも言える。例えば、犬がボールを持って飼い主の前に来た時、これはその犬が飼い主と遊びたがっている……のではなく、ボールで遊んだ結果に得られる報酬のためにしている行動に過ぎないとするのがこの意見(行動主義)だ。こういった考えに対し、著者は以下のように述べている。

動物の行動は過去にどのような誘因を与えられたかに還元できるという考え方は、私には受け容れ難かった。それでは動物は受け身の存在になってしまうが、私にしてみれば、動物は自ら探し求めたり、望んだり、奮闘したりする生き物だった。結果に基づいて彼らの行動が変わるのは確かだが、そもそも彼等は行き当たりばったりに振る舞ったり、偶然に行動したりは決してしない。

 考えてみれば、同じボールを投げるという行動に対して、犬は熱烈な捕食者かのように反応するが、別の動物……例えばウサギなどだと、こういった反応は決して起こらない。ウサギには、犬のような動くものを追う本能がないからである。ひたすらに行動にのみ焦点を当てる考え方である行動主義は、こういった生来の傾向を見過ごし、それぞれの動物種が羽ばたく・穴を掘る・棒を使う・木材をかじる・木に登るといったような自ら学習の機会を御膳立てするということを忘れているらしい。動物が現在のような行動をとるに至ったのは、平たく言うなら“進化の結果”ということになる。それでは、動物は皆どのような行動をとるのか? チンパンジーの雌雄は仲直りのためのキスをするし、ゾウは鏡に映った自分の顔を理解できるし、アシナガバチは顔の模様で個体を区別することができる。こういった行動や能力について、何か思い当たることはないだろうか。そう、どれも私たち人間のそれとほとんど 同じなのだ。例えば、犬の話で出てきた結果の学習についてもこれは言える。わかりやすいのは小さな子どもの行動だ。子どもは行動に対して褒められたら、その行動を反復するようになる。これもまた、行動による結果の学習と言える。著者の言う「学習機会の御膳立てとなる自発的な行動」に関しても同じだ。子どもは誰に教えられるともなく寝返りをうち、ハイハイを始め、立ち上がって歩き出し、自ら行動範囲を広めて学習の場を広げていく。つまり、この点において動物と人間は同じ種類の知能を持っていると言えるだろう。本書の中で、著者は以下のような問いかけを綴っている。

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私たちは、他の種にも心的作用があると考えるだけの度量の広さを持ち合わせているだろうか? そうした心的作用を調べられるほど独創的だろうか? 注意と動機づけと認知の役割をうまく識別できるだろうか?

 人間と他の動物の違い――それは私たちが思っている以上に、ほんの些細なものなのかもしれない。

文=柚兎