『顔に魅せられた人生』――アカデミー賞に輝いたメイクアップアーティストが伝える仕事の教訓

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公開日:2018/10/2

『顔に魅せられた人生』(宝島社)

 第90回アカデミー賞で、辻一弘さんは他2人とともに、メイクアップ&ヘアスタイリング賞に輝いた。作品は『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』。第二次世界大戦中のイギリスを舞台に、チャーチル首相の葛藤を描いた傑作だ。主演のゲイリー・オールドマンも主演男優賞を獲得したが、イギリスを代表する名優の最高の演技は辻さんのメイク技術によって引き出されたといってもいい。

 メイクアップアーティストとしてハリウッドで活躍してきた辻さんの半生を、本人の言葉で振り返る一冊が『顔に魅せられた人生』(宝島社)である。若くして世界に飛び出し、スケールの大きい仕事を何本も手がけてきた辻さんが考える「夢を叶える力」や「プロフェッショナルの矜持」は、日本人の心に響くはずだ。

 1969年、京都に生まれた辻さんの周りには伝統工芸の店があふれていた。自然と「ものづくり」に興味を持つようになった辻さんは映画『スター・ウォーズ』や、ホラー映画雑誌の特殊メイク特集などの影響により、映画界で働くことを目指し始める。

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 辻さんの人生からは、大きな教訓をいくつも学べるだろう。まず、

「自分のやりたいことを自覚するのが大切。100人いれば100人分の機会がある」

 という本人の言葉が印象に残る。辻さんの人生は、ディック・スミスに手紙を送ったことで変わった。スミスは『ゴッドファーザー』や『タクシードライバー』の仕事で知られるメイクアップ界の世界的巨匠である。辻さんは当時高校3年生。英語は苦手で、スミスへの手紙も辞書片手に書いたつたないものだった。しかし、スミスからは「君が作ったもののアドバイスをするよ」と返事が来る。辻さんの熱い気持ちが伝わったのだ。以降、7、8カ月ほどの間に手紙のやりとりは12往復ほど続く。やがて、来日したスミスと対面した辻さんは、彼の誘いもあって東京の工房に入り、映画業界で働き始めるのだった。

 次に、

「人と違うことができる人は、恐れのない勇気のある人たち」

 も重要な教訓だ。ハリウッド進出を果たした後、辻さんは『メン・イン・ブラック』『ヘルボーイ』『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』といった作品の仕事で評価されていく。アカデミー賞にも度々ノミネートされた。しかし、辻さんは「スタッフからは嫌われていただろう」と振り返る。既存の方法論に不満があれば、はっきりと口にする辻さんは職場で衝突も多かった。それでも、実際に自分でやってみせて周囲を納得させる辻さんの姿勢は、徐々にハリウッドでも受け入れられていく。

『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』はまさに、不可能を可能にした映画だった。撮影が始まる前の2016年春、辻さんは映画界を離れて現代美術の分野で成功を収めつつあった。そんな辻さんを映画界に呼び戻したのは、以前から彼の実力を高く買っていたゲイリー・オールドマン本人だった。イギリス人俳優がイギリス史上もっとも有名な偉人を演じる映画をオファーされ、オールドマンは役作りに真剣だった。

「カズが受けてくれなければ私はこの役を降りるつもりだ」

映画『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』にて、ゲイリー・オールドマンをチャーチルに(書籍より)

 オールドマンからそうまで言われ、辻さんは仕事を引き受ける。しかし、痩身のオールドマンと、肥満体のチャーチルは体格から顔つきまですべてがかけ離れている。しかも、メイクアップしてもなお、演技のために細かい表情を作れるよう工夫しなければならない。無理難題に対し、辻さんがどのように取り組んだのかは是非とも本書で確かめてほしい。

 故・黒澤明やギレルモ・デル・トロ、デヴィッド・フィンチャーなど、一般的には「気難しい」とされている完璧主義者の監督たちとも辻さんは「やりやすかった」と振り返る。明確なビジョンを持ち、いい作品を仕上るために努力を惜しまないという点で共通していたからだ。ストイックに、自分のやりたいことと向き合い続ける辻さんは、日本的な「職人気質」と世界規模の大きな視野が共存している真のクリエイターだといえるだろう。

文=石塚就一