「マンガの実写化」と「マンガから生まれた映画」はどう違う? 公式のはずの作品が炎上する理由

文芸・カルチャー

公開日:2020/9/12

キャラがリアルになるとき
『キャラがリアルになるとき ―2次元、2・5次元、そのさきのキャラクター論―』(岩下朋世/青土社)

 マンガの実写作品を観て、落胆したことのある人は少なくないはずだ。そして、こうも思ったことだろう。安易に実写化してくれるな、と。ただ、マンガ史においては、マンガの実写作品は、実写映画のプロモーションとして活用されていたという事情もある。テレビの普及によって映画が斜陽産業と囁かれた時期、映画製作の資金を集めるのにプロモーション用のフィルムを作ろうとすると、俳優を手配し撮影するだけでも多額の費用がかかってしまう。しかも、そのときの俳優を本番でも起用できるかという問題もある。

 その点、マンガなら経費は漫画家への原稿料程度で済み、それすら単行本の販売で回収できることから、映画会社がマンガの出版社に出資していたのだ。そしてこのビジネスモデルは、現在でもさほど変わらない。せめて、実写化して良かったと思える作品に出逢いたいものなのだが、ではその条件とは何なのか。『キャラがリアルになるとき ―2次元、2・5次元、そのさきのキャラクター論―』(岩下朋世/青土社)に、答えを求めてみた。

キャラとキャラクターの違いを知る

 マンガの表現と歴史を研究している著者は本書の序論において、伊藤剛氏が提唱した概念である、図像で描かれ「人格・のようなもの」により存在感を感じさせる「キャラ」と、「物語上の登場人物として」の「キャラクター」とを区別するという理論的な前提を解説している。たとえば『らんま1/2』の主人公である早乙女乱馬は、水をかぶると女になって、お湯をかぶると男に戻るというキャラクターだが、男と女のどちらの図像で描かれていても読者は同一人物として認識できる。それは髪型であるとか服装といった外見的要因だけでなく、「人格・のようなもの」がキャラとしての存在感を感じさせるからでもある。マンガが実写化されたときに、もっとも抱く違和感、コレジャナイ感は、同一人物と認識できないことによる齟齬なのかもしれない。

「マンガの実写化」と「マンガから生まれた映画」の違いとは?

 マンガが実写化されるさいに、「実写化不可能」と云われたとか「完全実写化」などという煽り文句が付くことがある。著者はそれらの据わりの悪さを、「どこか言い訳じみて見える」と評している。つまりは、困難なことに挑戦しているのだから、そのつもりで観てほしいという逃げ口上だ。そして、そもそも「2次元」の物語を「3次元」として顕現させることが本当に求められているのだろうかと問う。さらに、世間では実写化の成功例として近年のアメコミ・ヒーローの作品群が挙げられるが、CGを駆使してVFXをふんだんに使った映像世界は果たして「実写」と呼べるのかという疑問も提示している。

 一方、国内における成功例の一つに「釣りバカ日誌」シリーズがあるものの、「原作に忠実」な実写化とするのには語弊がある。先のアメコミ・ヒーローがそうであるように、「実写化」というより「映像化による異本」であって、原作はその「素材」だというのが著者の主張だ。

2.5次元には何が足されているのか?

 実写化なるものを、現実の役者が演じるということで云えば、舞台劇についての考察も外せない。本書では『テニスの王子様』と『弱虫ペダル』を取り上げており、両者の制作サイドのスタンスは似ているようで異なる。共通している点としては、役者は別の役を演じても「同じ役者」と認識される「キャラ」であり、それが特定の作品の中で「キャラクター」を演じる二重写しの構造となっている。さらに、同一の役がダブルキャストで演じられることを想定すると、役者Aと役者Bが演じるキャラは別物でありながら、しかしやはり同じキャラクターであるため、概念上の整理が必要になり複雑さを増していく。

『テニスの~』は公演を重ねるごとにキャラと共に役者の成長も見守る形になるのに対し、『弱虫~』では場面によって男性の役者が女性キャラクターまで演じ、果ては自転車で走るコースの「側溝のヘリ」さえ役者が演じるといった、舞台劇では古くからある手法が取られているが、面喰らう観客もいるだろう。しかし、現実ではありえない表現をするのはマンガも同じだ。

公式のはずの作品が炎上する理由

 実写作品に、作者の意見や想い入れがどこまで反映されているかは分からないが、公式コンテンツでもある。ということは、私たちが感じる実写作品への拒否感は、「公式と(の)解釈の違い」とも考えられる。マンガの読者は、物語や設定を好んでいるのはもちろん、誰しも推しキャラを持っているはずであり、相応の愛着を抱いている。そして著者は松永伸司氏が持ち出した、物語世界内の存在としての「D(ダイエジェティック)キャラクタ」と、それとは区別される演じ手としての「P(パフォーミング)キャラクタ」の関係から、次のような結論を導き出している。
「公式の提供するコンテンツは、推し(Pキャラクタ)に見当外れのキャラクター(Dキャラクタ)を演じさせている」

文=清水銀嶺

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