命と引き換えに願いが叶うとしたら、あなたなら何を望む? 死神と禁断の契約を交わした少年は、死者を蘇らせる――

文芸・カルチャー

公開日:2021/5/19

ぼくらが死神に祈る日
『ぼくらが死神に祈る日』(川崎七音/メディアワークス文庫/KADOKAWA)

 日本最大級にして最高倍率の新人賞、電撃小説大賞。第27回は4355作品もの応募総数となり、各賞の受賞作が相次いで出版されている。そのトリを飾るのが、《選考委員奨励賞》を受賞した青春ホラー『ぼくらが死神に祈る日』(川崎七音/メディアワークス文庫/KADOKAWA)だ。VOFANさんによる陰影のあるイラストが、世界観を際立たせている。

 主人公・作楽(さくら)は高校1年生の少年。誰からも慕われていた人気者で優等生の姉・葉月を、不慮の事故で目の前で失ってしまう。その葬儀が行われた後、亡き姉との思い出の場所である高校の敷地内の礼拝堂跡地へと足を運ぶ。その場所には、「なんでも願いを叶えてくれる神様」がいるという都市伝説めいた噂があり、困った人が訪れては捧げものをしていた。

 そこで作楽は、男とも女ともつかない、禍々しくも美しい人ならざる異形の存在、モーンガータと出会う。モーンガータは、自分に祈りを捧げる人間の心の隙につけ込んで、その人の願いを叶える代わりに寿命を奪ってきた――つまり、神は神でも死神だったのだ。

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 自分をかばうようにして無残な死を遂げた姉。自分が代わりに死ねばよかった、と罪悪感でいっぱいの作楽は、禁断の契約をモーンガータと交わしてしまう。

 葉月を生き返らせる。その代償として、自分の命を残り4カ月に縮めてしまうことに――。

 死者を復活させるのは、ある意味では傲慢だ。自然の摂理に逆らい、運命を捻じ曲げる。亡き婚約者を蘇らせた『フランケンシュタイン』の主人公然り、死んだ息子の帰還を願った『猿の手』の老夫婦然り。たとえ動機が愛であっても、その行為は死者の死を弄ぶことに他ならない。

 作楽の日常に戻ってきた葉月は、かつてのような快活さを失くしていた。自分の置かれた状況に違和感を覚え、苦しむようになる。そんな姉の姿を見て作楽は決意する。

 残された時間、自分は姉に代わって姉のように、誰かを助け、人のためになることをして生きていこう、と。

 物語には作楽の他にも何人か、死神と契約を取り交わした人々が登場する。それぞれに切実な悩みを抱えて、命を削り取ってもかまわないというほどに思い詰めている。そんな彼らに作楽は寄り添い、共に悩み、問題を解決しようと奔走する。もしも姉の葉月なら、きっとこんなふうに行動しただろう……と想像しながら。

 そうするうち作楽自身が、生の実感を掴んでいく。

 姉が生きていた頃は、なんでもできる姉に対してコンプレックスを持っていた。他者と積極的に関わることをせず、どこか自分を閉ざして生きていた。

 しかし命のリミットを自覚することで、彼は生きることの意味に気づいていく。死を見つめ、残酷な現実を見つめることで、生をも見つめる。

「最後にはうまくいくようにできている」

 葉月の口癖であるこの言葉は、作楽の心の中にいつも通奏低音のごとく流れている。この口癖に込められた姉の思いを理解した作楽は、寿命が尽きる最後の最後で真正面から向きあい、対峙する。

 私たちはけっして『フランケンシュタイン』の主人公も、『猿の手』の老夫婦も、そして作楽も笑えない。自分の大切な人の命が、自分の命で助けられるとしたら、彼らのような行動をしないだなんて、言いきれない。

 もしも命と引き換えに願いが叶うとしたら、私なら、そしてあなたなら何を望むだろう。

 そうしてまでも叶えたい願いがあるとしたら、そうしてまでも助けたい人がいるとしたら――それはたぶん、きっと、とても幸せなことなのではないだろうか。

 死について、生について、幸せについて。

 そんな、考えても考えても答えの出ない命題について、作者は愚直なほどに真剣に向きあっている。だからこそ読み終えた後、透明な喪失感と共に静かな感動が胸の底から込み上がってくる。

文=皆川ちか

『ぼくらが死神に祈る日』詳細ページ
https://mwbunko.com/special/shinigami/