なぜ悪口は悪いのか、そしてときどき悪くないのか。「言語哲学」の専門家に学ぶ「悪口にまつわる謎」

文芸・カルチャー

公開日:2022/4/6

悪い言語哲学入門
『悪い言語哲学入門』(和泉悠/筑摩書房)

 自分の「悪口」を耳にして心地よい人はいない。かたや、自分は人の悪口をつい言ってしまうことがあるだろう。また、自分の意図とは違って受け取られ、「悪口のつもりじゃないのに…」という場合もある。悪口とは、やっかいな存在だ。

 大学で哲学や言語学を教え、「言語哲学」を専門とする著者の『悪い言語哲学入門』(和泉悠/筑摩書房)を開いてみる。著者は、「言語哲学」を「言語についての哲学」と紹介し、言語の事実関係を明らかにする「言語学」に、ものごとの善悪について語る道具を提供する「哲学」を加えることで、言語の価値についての判断にまで到達できる、と説明している。特に、本書が取り扱う「悪口」のような言語のダークサイドに立ち向かう際には、非常に役に立つそうだ。オンライン・オフラインともに日常生活に悪口があふれているのは、私たちが思ったよりことば・言語について理解していないからだと著者は述べる。

 さて、本書はまず、悪口の定義を探っていく。悪口とは何なのだろうか。

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「悪口とは、他者を傷つけることば」…つまり、人を傷つけるもの、周囲の人々やさらには自分自身にも不快な思いをさせるもの、心理的な損害を与えるもの…。

 という答えでは、本書によると「まったく不十分」である。例えば、悪口を言われてもなんとも思わないような強い人物への悪口は必ずしも相手を傷つけないし、自分がエゴサをする中で“間接的に”自分の悪口を知った場合はどうなのか、という問いが浮かんだりするからだ。

 本書は、悪口にまつわる謎を2つ、示している。

謎1:なぜ悪口は悪いのか、そしてときどき悪くないのか

謎2:どうしてあれがよくてこれがダメなのか

 これらの謎を、本書はアカデミックに、しかし身近で親しみやすい例を挙げながらスリリングに解き明かしていくのだが、本記事ではごく端的に紹介してみたい。

 まず、謎1の「悪口がなぜ悪いか、そしてときどき悪くないのか」から見ていきたい。本書による理由としては、「あるべきでない序列関係・上下関係を作り出したり、維持したりするから」だという。人はお互いに平等であるはずが、悪口で相手をおとしめ、低い位置にランク付けるから「悪口は悪い」と著者は述べる。そして、悪口と同じ言葉であっても「ときどき悪くない」ことが起きる理由は、上下関係が絶対にないという環境や場においては相手を傷つけることがないためだと説明している。

 本書で紹介されている事例は次のようなものだ。

 本当に気のおけない親友を祝福する言葉としての「てめえやりやがったな! この野郎! おめでとう!」

 この言葉は一見すると相手を低い位置にランク付けようとしたり傷つけたりしているようだが、むしろ親しみを込めたものであるため、相手をおとしめたり傷つけたりすることがない。

 次に、謎2の「どうしてあれがよくてこれがダメなのか」について。本書は次の事例を挙げている。

 人を罵るときに「おいこらタコ!」ではなく「おいこらイカ!」や「おいこら本棚!」という言葉を使う。

 人はタコでもイカでも本棚でもないのだが、この文脈での「タコ」からは侮蔑的ニュアンスが感じとれることを否定できないため、イカや本棚と違って「タコ」は悪口となる、と著者は述べている。

 ちなみに、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流/式波・アスカ・ラングレーの有名なセリフ「バカシンジ」は、シンジと出会った当初はシンジを下に位置付けるメッセージであったものが、友好関係が徐々に成立してきた後においては「悪口」ではなく「軽口」に変容している、と解説している。やはり、広い文脈・背景次第で、悪口は「ときどき悪くない」し、「あれはよくて、これはダメ」というケースが生じる。

 本書は、悪口がいかに争いを生み出してきたか、また争いを防ごうとしてきたかについて、過去の歴史から事例を紹介している。例えば、鎌倉幕府が制定した「御成敗式目」は悪口を禁止する項目が含まれている。これは、悪口によって低い存在におとしめられた武士が相手と戦って殺してしまうことにつながるため、「裁判のときに悪口を言えば、すぐに裁判に負けたことにする」という項目がわざわざ設けられている、とされる。中世以降のヨーロッパでも、名誉を重んじる騎士は、悪口を言われたなら「名誉を損なうもの」として全力で撤回させる、または侮辱を超える侮辱か暴力を相手に与えていたことが紹介されている。

 著者は巻末で、人間の悪さには終わりがなく、人は言語の悪い側面とつきあっていかなくてはならないが、同じ人間同士、話し合い、歩み寄り、説得し、なだめ合い、しかり合い、励まし合い、なんとかうまくやっていこうとしていくことを願っている。私たちにとって身近となったSNSでの誹謗中傷やヘイトスピーチなどについても、本書は触れている。悪口の正体を本書で理解し、言語での相互理解に努めようとすることで、自分にとっても周囲の人たちにとっても生活がより心地よいものになりそうだ。

文=ルートつつみ (@root223

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