母のきもの箪笥/きもの再入門①|山内マリコ

文芸・カルチャー

更新日:2023/11/14

きもの再入門

母のきもの箪笥

 富山の実家には納戸があり、ずっしりした母の婚礼家具が三つ並んでいる。そのうちの一つは、観音開きの扉を開けると桐の引き出しが並ぶ、本式のきもの箪笥だ。

 たまに風を通すため扉が開けられることはあっても、母が畳紙に包まれたきものを取り出して着ることはない。着られないのだ。着るどころか、畳み方もわからないので、おちおち広げることすらできない。そうして、きものは躾糸がついたまま箪笥に眠りつづけた。それはわたしが生まれる前からそこにあり、十八歳で県外へ進学したときも、変わらずそこにあった。

 では誰が、着もしない大量のきものを買ったかというと、祖母である。昭和一桁生まれの祖母は日常的にきものを着ていた最後の世代だ。戦争ですべてを失うも、高度経済成長とともに豊かになり、洋服を誂えるようにもなるが、同時にきものも買った。奥様たちがきもの姿で、茶道や華道といった趣味に邁進していた昭和の時代を満喫したであろう形跡が、祖母の家にはたくさんあった。祖母は派手好みで、買い物好きである。

 だから母の結婚の際も、おそらく祖母が出しゃばって、呉服屋さんにあれこれ注文をつけたんだろうなと、わたしは想像する。娘の結婚にかこつけて買い物を楽しむ祖母のとなりで、ちょっと迷惑顔でため息をつく母の顔が目に浮かぶ。母は質素なたちだし、目立つことを嫌う。わたしと母も本当に親子? というくらい性格が違うが、母と祖母はもっと違う。だから祖母が、既婚女性はちゃんとしたきものを一揃え持っておかないと恥ずかしいのだ、というようなことを語気荒く言って母を困らせているところも、手に取るように想像できてしまうのだった。

 

 母はぎりぎり団塊世代に含まれ、その時代にしては結婚は少し遅く、三十歳になる年にわたしを産んでいる。わが家は核家族であり、母は専業主婦だった。その時代の専業主婦というと、年中無休ワンオペ育児がデフォルト。そんなハードな生活に、優雅にきものを着て出かける時間など、どこにもなかった。

 ところがわたしときたら、母に自分の面倒を見てもらっているということが、まるで見えていなかった。せっかくのきものを箪笥の肥やしにするばかりで、自分では着ることすらできない母を、内心どこか情けなくも思っていた。いやいやそれお前が言う? という感じだが、そうなのだった。

 七五三などのお祝いごとには祖母が手を回してか、晴れ着を着せられた写真が残っている。けれど二十歳のときは、成人式を割愛した。両親から振り袖を買うお金の用意はあるよと言われると、わたしはそのお金でマッキントッシュのパソコンを買ってほしいとせがんだ。成人式になんて行きたくなかったし、形式ばらない両親は欲しいものを買うのがいちばんだと言った。そんなわけでわたしは二十歳のとき、振り袖を蹴って、あの時代、最新型だったApple Computer Power Mac G4を手にしたのだった。

 

 きものにはまったく興味がなかった。ところがこのあと二十代も終わり頃になり、わたしは一転して、きものに首ったけになった。それは突然、降って湧いた機会だった。

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