戴き物きもの/きもの再入門⑤|山内マリコ

文芸・カルチャー

公開日:2024/2/1

きもの再入門

戴き物きもの

 きものにハマり、夢中になって買い集め、思いきって手放す――というプロセスを経て手元に残った多くは、祖母と義祖母と母から譲ってもらった、戴き物のきものたちだった。年齢を問わず着られる、手仕事で作られた天然繊維の、質のいいものたち。良さはわかるし、もちろん愛着もある。

 ただ、いずれも欲しくて欲しくてたまらなかったもの、というわけではない。三者三様の箪笥の中から選ばせてもらったものだ。ありがたく継承したものの、なかには「うーん微妙」と思いつつも、「マリちゃんこれ持って行きな」と外野からのプレッシャーに負けてもらったものも含まれている。

 そのせいか、きもの箪笥を開けるときのテンションは、戴き物が増えれば増えるほど、静かに下がっていった。なにしろテイストが異なるきものがごっちゃになっているので、組み合わせるのはかなり難易度が高い。上質なラインナップに様変わりはしたものの、すっかりわたしの手には余るワードローブになってしまった。

 母の箪笥の肥やしっぷりをあれだけ嘆いていたのに、気づけば完全に同じ轍を踏んでいた。

 

 そんなある日、きものへのマインドセットが変わるきっかけがあった。

 祖母の家が取り壊されたのだ。

家ときもの

 九十代となった祖母はここ数年、施設で過ごしており、もう自宅に戻ることはない。空き家となった家をどうするか。長年の課題に、跡を継いだいとこが下した決断に異論はない。それでも、家がなくなることへの一抹のさびしさはあった。

 大正~昭和一桁生まれの祖父母は、戦争と高度経済成長という、両極端な社会の変化のど真ん中を生きた。敗戦ですべてを失ってから、右肩上がりの上昇という時代を生きた世代の特徴だろうか、祖父母ともに、物質的な豊かさに対してとても無邪気だった。

 言うまでもなくこの時代の豊かさとは、便利な暮らしを送り、物をたくさん持っていることだった。だから祖父母も、立派な家を建て、庭を造り、きものを買い、美術工芸品なんかも気の向くままに収集した。一度買った物は捨てられることなく、ひたすら家に溜まっていった。戦後復興を成し遂げた世代の、夢の欠片。その堆積物をどうするかは、その恩恵を受けてぬくぬく育った、われら孫世代の命題でもある。

 

 地震の多い日本の場合、古い家を維持して住み継ぐことはとてもハードルが高い。ちょっと調べたところ、家の寿命はそもそも木造住宅で約三十~八十年が目安。鉄骨住宅で約三十~五十年、鉄筋コンクリート住宅で約四十~九十年という。適切なリフォームをすれば耐用年数は延長するものの、祖父母の家は半世紀を過ぎており、取り壊しは妥当だった。

 子どものころからしょっちゅう遊びに行っていた、第二のわが家のような家。庭には池があり、鯉がいた。アメンボが水面をすいすい歩いていた。

 跡形もなくなった様子を見て、わたしはこう思ったのだ。家は住み継ぐことができなかったけれど、その代わりに、きものを生かそう。「肥やし」とか言ってないでちゃんと向き合おう。断捨離なんて考えないでずっと持ちつづけよう。家をせっせとリノベするのと同じような心持ちで、わたしは戴き物きものを大切に着るのだ。

うそつき襦袢

 心意気だけは改まったものの、さてどうすれば戴き物きものを少しでも自分好みに着られるか。どうすれば、一度失われたきものへのパッションが復活するのか。

 

 といっても、きものや帯はもう充分あるし、収納スペースを考えると安易に増やせない。見ると欲しくなるので、長らくきもののお店に近づくのも、ネットショッピングも避けていたほどだった。けれども、胸がときめいて、思わず「きゃー!」が出るアイテムを増やさないことには、きものを着たいという気持ちにどうにもなれない。いまの自分に必要なのは、手持ちのきものを着たいと思えるアイテムなのだ。

 

 きもの熱が上がらない理由はなんだろうと考えて、箪笥を見渡し、もっとも「ときめき」から遠い存在を見つけた。長襦袢である。

 

 長襦袢は本来、下着だ。現代では、和装ブラの上に肌襦袢(肌着の役割)を着るのが普通なので、その上に着る長襦袢は、ワイシャツみたいなポジションになっている。袂から布地がチラリと見える程度だから、よほどこだわらない限り白一択となる。

 着付け教室で最初に、腰紐や伊達締めといった和装小物を一揃えした際、問答無用で薦められて買ったのは、いわゆる「うそつき襦袢」だった。二部式、つまり上下セパレートで、半襦袢と裾除け(巻きスカートのようになったもの)がセットになった商品である。

 

 「うそつき襦袢」は奇妙な細工でできており、説明がとても難しい。

 前身頃、背中、肩回りは、晒(さらし)など着心地重視の布でできている。ただ、腕からたらりと下がった袖だけは、つるりとした、きものっぽい生地が縫い付けられている。つまり、見えない部分はなんでもアリ、見える部分だけきちんと、といった感じで、ツギハギされているのだ。ちなみに袖が付け替えられるように、マジックテープ式になっているものもある。

 

 きものの世界にはこんなふうに、着付けのハードルを下げるための工夫を凝らしたアイデア商品が多い。うそつき襦袢はその筆頭。ロマンと現実が渾然一体となった襦袢に、「うそつき」と名前を付けた人の遣り手ぶりが光る逸品だ。

 最初に見たときは、なんて珍妙なものなんだと目をゴシゴシしたが、たしかにとても便利なものだった。左右の襟先にひらひらした紐がついていて、それを襟の後ろの「衣紋抜き」に通してきゅっと締めれば、簡単に形よく襟が抜けるようになっている。晒なのでシワも寄せやすい。実用性は抜群。

「姿良くきものを着るには、まず土台を整えることが大事です」

 そのために初心者にも着やすい「うそつき襦袢」はマストアイテムだった。

 ただ、着付け教室で「うそつき襦袢」を着て鏡の前に立った瞬間、ひゅーっと白けた気持ちになったのも、また事実なのであった。

体を海苔の缶に!

 わたしが通っていた着付け教室が理想とするのは、「画報」的なきもの姿である。「婦人画報」や「家庭画報」といった、ハイソサエティの香り漂う、リッチな奥様たちの世界。付下げや訪問着といった、上品で上等で高価な、格の高いきものをちゃんと着るための着付けの習得を目指す。一分の隙もなくピシッとしていて、先生たちはとにかく着崩れることを恐れていた。

 そのためには、体を筒型にするのが理想と、まず教わる。胸のでっぱり、腰の窪み、お尻の張りをタオルなどの詰め物で補正して、海苔の缶みたいな形にするのだ。

 女体をまず一旦、海苔の缶にする。

 これはフェミニズム的になかなか面白い事象だ。“女性らしい”美を体現するために、“女性らしい”とされる体の特徴をすべて殺すところからはじめるというのは。衣服としてのきものの、抑圧的な要素の多さについては、いずれちゃんと考えたいところだが、ともかくわたしは着付け教室の初手で「海苔の缶みたいに」と、理想を叩き込まれたのだった。

 

 きものを纏う前の襦袢の状態は、言うなれば白鳥の水かき。優雅に湖面をすーっとたゆたう白鳥も、水中では足をバタバタさせている。光あるところに影あり。というわけで、襦袢は単に土台でしかなく、影の存在という扱いだった。

 

 わたしもまた、襦袢に情熱を傾けたことはなかった。うそつき襦袢のほかに、ポリエステルの赤い長襦袢も持っていたけれど、いずれも処分している。この数年は、義祖母の箪笥にあったサラピンの絹の長襦袢を使っていた。うそつき襦袢のような細工もない代わりに、味も素っ気もない、クリーム色の長襦袢。本当に「下着」という感じの長襦袢である。

 箪笥を見回し、くったりしたクリーム色の長襦袢を見て、わたしは思った。この箪笥の中でいちばんときめかないものは、これだな。やっぱりわたし、きものには、もっとときめきたい。

 

 見えないからなんでもいいという発想は、ある意味、正しい。実用性を極限まで高めた便利な商品は素晴らしい。現にわたし、洋服では「見えない部分はなんでもいい」派である。見目麗しいランジェリーをいいなと思いつつ、そこにお金をかける気にはなれない。

 

 だけど、きものはわたしにとって、非日常のものなのだ。そこはやはり、「うそつき襦袢」でもなく、「おばあちゃんのベージュの肌着(みたいな長襦袢)」でもない、なにか素敵なものが欲しい。もっと夢のある、ときめきをくれるアイテムが欲しい。

 

 パソコンに向かいながらわたしの指先は、ネット検索の小窓にこう打ち込んでいた。

 〈京都 紫織庵(しおりあん)〉

<第6回に続く>

あわせて読みたい