『働くおっぱい』第3回「サマーおっぱい問題(プロブレム)」/紗倉まな

エンタメ

更新日:2018/11/20

 揺れる胸元に吸い込まれそうになって、ハッと目が覚める。

 ゆきすぎた肌の露出面積は○○cm2以上だという規定などは無い中、「視線をどこにやっていいのか困るからしまってほしい」と嫌悪感をいだく殿方もいるという一方で、心の中で手を合わせて拝みながら渋谷を歩く自分がいる。

 夏はさまざまな長さや深さの一本線(や二本線)の眼福が、女性陣の胸元に溢れかえっているというのに、「よろしくないんじゃないかしらそれ」と冷たい視線を送る人もいるという話を聞いて驚いたことがあった(これは男女関係なしに)。

 受け継がれてきた「隠すこと=上品」という価値観の名残をふと思い出しては持ち出して、「NO!」と言う人は意外にも多いらしい。本当に、意外にも。

 一概に“谷間を見せること=女を出すこと”だとは決して思っていないけれど、「女を出すってどういうこと?」という疑問を投げかけて返ってくる答えの中には、「胸元の露出」という外見的な要素が含まれてくるのは否めないのではないだろうか。

「あざとい」「いやらしい」「異性への媚び」と断定されてきた外見的な主張は、しかしながら2018年という現代に状況を変換し直し、街の背景と谷間の被写体を照らし合わせてみると、変に浮くわけでもなく、やけに馴染みがよかったりする。

 とあるネット番組での街頭調査を眺めていたら、実際に谷間を見せている女性たちに話を聞いてみたところ「誰かに見せたいわけではない。かわいいからこの格好をしているだけ」と言い切っていたりして、目から鱗である。

 なるほど、妖麗な谷間から性的な匂いが薄れている原因は、女性陣のこの前衛的な心理なのだと、腑に落ちたのが記憶に新しい。

“異性受け”ではなく“自分ウケ”の定義に置き換える感覚は、“谷間を見せる=女を出す”という概念を少しずつ変えてきているようにも思う。

 しかしながらずっと「下品!」「女を露骨に出していやらしい」と叫び続けているチームとの意識の差っていうのはあるわけで、はたしてどこで歪曲して形成されてきた新感覚なのだろうか。

 不思議。世代の違いなのではと指摘する人もいるけれど、実際ティーンエイジャーや、私(25歳)と同世代の男性陣でも、不快さを露わにしている人は多いようだったから、年齢の差とも言い難い気がする。

 多様化する社会に適応していこうとする柔軟な人と、固定概念から抜け出せない人達との差? それともただの印象論? 価値観の相違といったらそれまでだけれど。

 そもそも世間が求めている上品って、どのあたりに転がっているんだろうか…。うーん。銀座かな? もしくは白金辺りかな。下品なことを攻め続ける生業に就いている私は、この身を力強く絞ったところで、一滴の上品の雫すら出てこないのでありました。

 

 話はだいぶ逸れますが、昔は陰部(生殖器官)のことを“と”と呼び、丁寧に接頭語を置いて「みと」「ほと」と呼んでいたという話を読んだことがある。(これを書きながら適当なことを言っていないか心配になって本棚を漁っていたら、白田秀彰さん著「性表現規制の文化史」に載っていたものだと判明。とっても面白いのでぜひ皆さんも読んでみてください)

 話を戻すと、山の峰に挟まった谷のことを“戸”と呼ぶので、そこに“みと”“おと”の由縁があるのでは、と白田さんの本の中では紹介されていたのです。それを受けて、エロ屋は拙いことを考えてみる。山の峰に挟まった谷、か。そうしたら胸も、ある意味“戸”なのでは…と。

 いやいや絶対に、胸が性器ではないのは百も承知ですが、二つのプレートの尖端を引きずり込みながら沈んでいるような構造というか、加えて視覚的にも興奮するというのは、この“谷間”と“陰部”の、“戸”という意味合いでの共通項にも見えたりしたのであります。

 陰部はこの国では”隠すべき”こととして当然扱われ、モザイクというフィルターがかかる。たかが谷間なのにされど谷間扱いされてしまうのは、程度の違いはあれど、これと同様に“露わにせず隠すべきもの”という戒めが、心のどこかに浸透しているようにも思えたのだ。うーん、とはいえ谷間って、そんなにいやらしいものなのだろうか。別によくね?

 谷間の作り方は昔に比べると容易になった。

 アイプチ(二重幅)とヌーブラは女子にとっての“皮膚寄せ二大スター”であると思っている。

 それ故に、谷間自らが「もぎゅもぎゅっ!」と自発的に現れるのではなく、「意図的な谷間」が世間に混在するようになったし、街中でよく見かける海外輸入の服も「デデーン!」と大胆にも胸元に切り込みが入っていたりして、着方と購入に迷う。

 だからこそ女性陣は、中にインナーを着込んで胸元や透けを隠したり、グッズや技術を駆使して胸を寄せ上げ、創作物としての谷間を浮かばせては「自分が服のスタイルに合わせてあげる」方向へと定着してきているようにも見える。「かわいいから見せている」と谷間をのぞかせながら答える女性にとって、胸元も、顔に化粧をするのと同じような感覚なのではないだろうか。

 ここまで谷間のことを散々書いてきたけれど、私は普段はあまり谷間を出さない。しかも、世間一般がいうような“女の子らしい色合い”の服さえ着ない。

 テレビに出演するときは茶褐色やアース色の服を着るし(なんかこれが落ち着くんじゃ~)、大根足を隠すためのロングスカートは最高に素敵な味方である。

 そういう服を好むのだから自然と肌の露出は減っていく。しかしそこでお咎めが入り、「普通に服を着てると没個性で何の人かわからないよ?」「お前はAV女優らしい格好をしろ!気取ってんじゃねえ」などなど、皮肉な言葉がちらほらと聞こえてくるのである。理不尽である。胸を隠せといったり胸を出せといったりなんなんだ!だっふんだ!!

 しかしながら、世間から求められるエロ屋らしい格好(法に保護される範囲内)をきちんと選び、メディアに対応する女優さんも実際に多いので、その姿を見れば、しみじみ偉いなぁと拍手を送る。別に胸を出したって、足を出したって何かが減るわけでもないしと、私もセクシーな服を着てみるが、「この服を着ている私はエロいんだ」という演出スピリットが、自分らしさを壊していくような気がする。

 自分が着たい服というのはやはり“纏うような衣”という機能性重視であって、その方が実際、本当に言いたいことが言えるような安心感に包まれるのだ。

 なんだか「谷間反対派」のように見えてしまったかもしれませんが、谷間を出すことを恥ずかしいことだとは全く思っていないのです。他の人が出している谷間は、冒頭でも書きましたが、眼福でしかない。目薬をさすよりも目が潤う。

 それでは、なにが自己の谷間を出すことへの制御心に繋がり、全身を月餅色に染めさせているかというと、“この場でセックスをするわけでもないのに露出する必要はあるのだろうか?”というところに辿り着いてしまうのだ。

 これが人間的にもちゃんとセクシーな女性であれば、その姿を自分で客観視しても恥ずかしくはないと思う。ただ、私の本性は、“ただのズボラ&非セクシー”だからこそ、「なんだか似合わないな」と躊躇してしまう。

 結局、ネガティブな心理が、選ぶ服に反映されるのである。

 したがって、AVの撮影で谷間を見せるのは恥ずかしくない。イチモツが目の前にちらつけば、“パブロフの犬”状態で無意識のうちにパンツまで脱いで、喘いでいる自分がいる。セックスを見せることが商売であって、裸を見せることやセクシーな格好をするのが本質的な商売ではない、ということなのかもしれない。

“セックス=裸になること、露出をすること”という方程式が成立している。だから、AVでの肌の露出は、何一つとして恥ずかしくないけれど、AV以外での肌の露出は、なんだかむず痒くてたまらない。

 結局、谷間や露出の多い服を着ている人を見て、一概に“女を出している”と色眼鏡で断定してすぐに叩いてしまうのは、ナンセンスなわけだ。私の場合、普段の自分は“女を出す”勇気すらない人間なわけで、その上“ファッションとして着こなす”自信だってないわけで、だからこそ谷間を見せて戦闘態勢をとっている女性は、どの角度から眺めても、クールでしかないのだ。かっこいいし、かわいい。それは確かに、合っている。

 酷暑を睨むように露出を試み、周りが目を細めても華麗に視線を振り払う。「そこをおどき」と言わんばかりに街中を歩く女性の、汗ばんだ谷間が見れる幸福というのは、長引いた夏の唯一のプレゼントなのかもしれない。

バナーイラスト=スケラッコ

執筆者プロフィール
さくら・まな●1993年3月23日、千葉県生まれ。工業高等専門学校在学中の2012年にSODクリエイトの専属女優としてAVデビュー。15年にはスカパー! アダルト放送大賞で史上初の三冠を達成する。著書に瀬々敬久監督により映画化された初小説『最低。』、『凹凸』、エッセイ集『高専生だった私が出会った世界でたった一つの天職』、スタイルブック『MANA』がある。

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