『働くおっぱい』第5回「会食ハラスメント」/紗倉まな

エンタメ

公開日:2018/9/21

 それでは明日、12:00に恵比寿で。

 そんなことをさらっと言える大人、若しくはさらっと言われる大人になりたいと願っていた数年前の自分からしてみれば、手元のスマホの画面表示にその一文が輝いたのは、なんだか夢のようなことだよなぁと思う。

 会食。人員構成や内容によっては有意義なものもあれば、とてつもなく億劫で気が引けてしまうものもある。ちなみに、「12:00に恵比寿~」案件は、前者の有意義な、ある種定例会のようなもので、今年から始まったこの「ダ・ヴィンチコラム」の打ち合わせなのである。

 名目は打ち合わせ。しかし、中身を開いてみればもはやランチサークル。グルメ通な女性マネージャーが同席するので、必然的に打ち合わせ場所を選ぶのも彼女になり、選ばれる店も回を重ねるごとになんだかすごいことになってきている。中華・フレンチときて、次が楽しみのような、怖いような感覚もあり、毎回レジで領収証を受け取るマネージャーを見るたびに、妙な罪悪感が襲ってくるのである…。

 そんなグルメサーク…いや、きちんとした打ち合わせの場で話していたときのこと。

 豊後水道の魚に慎重にナイフを差し込みながら、担当編集者さんが「そういえば」と目線を上げた。

「唐突に話が変わるんですけど、紗倉さんってネイル、どう思っていますか?」

 私は反射的に、言葉を放つよりも先に、何の色もついていない自分のまっさらな爪を見た。その日の朝、ピンク色と伸びた白い部分の境界線をぎりぎりに攻めて切り落とし、鑢(やすり)で角を丁寧に削った、個性もおしゃれの訴えもないただの爪だった。

「いや、なんか女性のお金の使い方って男性的には不思議なところがあるんですよね。もちろん否定をしているわけでは全くなくて、自分にはお金を使うところではないのでふと気になっただけなんですけど。例えばネイルもその1つだったりして」

 たしかに。

「ネイルをしていない人の方が珍しかったりしますもんね。でも私のOLの友達とかだと髪の色もネイルの色も、会社に怒られないように様子を窺いながら楽しんでいるみたいですよ」

 ラメやストーンが施されている綺麗なネイルをした女性マネージャーが、私が答えるよりも先にビシッとそう答えた。

 その話を聞きながら、たしかに男性と女性のお金をかける箇所、というか重要視している箇所の差というのは当たり前にあるということ、そしてそういった項目は他に何があるだろうかと思い浮かべていた。

 周りにいるAV女優さんは華やかで美しい人が多い。ブランド物のバックや洋服。高級腕時計。使っている化粧品もプチプラよりもデパコスが目立つし、美への徹底追及をしている人の話を聞くたびに感心してメモを取りたくなる。

 正直、頭から足の爪先まで、余すことなくお金をかけようとすればキリがなかったりして、私は途中で断念してしまったグループに属する。ダニ駆除とか部屋の掃除とかそういう衛生的な日常を守るための何かは徹底的にできるけれど、美容界はあまりにも回転が速くて、「あれもいいよ」「これもいいよ」と勧められては試しているうちに、はて、自分自身のものというのは、自分の個性というのは、美しさというのは、いったい何だったのかよくわからなくなってしまうのだ。

 本当に私はこうしたかったのか、それとも、ただみんながやっているからという義務感と焦燥感によるものなのか。単純に、私は綺麗になれるという希望なのか。今自分がしていることは、美容雑誌の過去の一ページになる一過性の盛り上がりのようにも見えて、変な話だけれど、なんだか苦手意識をもっている。

 これも「合う」か「合わない」かという気質の問題なので、当然、美容を徹底している人を否定する気持ちだなんていうのはさらさらない。「うぜえ、美意識低いだけの女が吠えるな」と言われればその通りで、ずぼら女の戯言でしかないのです。

 *

 話を戻して、爪のこと。凝ったネイルを施しても、二週間も経てば伸びた爪が目立ち始め、ネイルをオフしに行く手間や時間を、仕事の合間や休日に割かねばならぬことを考えると、ちょっとため息が出てしまう。「みんながしてるからした方がいいのかな」という気持ちと、「言われてみればそっちのほうがかわいいような気がする」という妙な確信で、はじめてジェルネイルをしてもらった瞬間はものすごく心がときめいた。

 かわいい。キラキラしてる。右手と左手をネイルが見えやすいように重ね、その周りにプラスチックでできたゴロゴロとした宝石と、かわいらしいレースを綺麗に置いて、パシャリと写真を撮る。ネイルのデザインを要望するときに参考にした、店頭のネイルカタログの一枚に加えられるのだろうけれど、私は本当に、またこのお店に来るのだろうか。嬉しい気持ちと同時に、そんな疑問が浮かんだ。

 それから数年が経った。手が不自由でいる時間が退屈でしんどいと思うようになった最近では、爪は到ってナチュラルなままであり、週一のぺースで男優さんのように熱心に爪を削っている(男優さんのこの作業は、女優さんの身体を傷つけないための配慮である)。以前の予想は的中、もうその店にも行かなくなったのだった。

 毎週、毎月というコンスタントなペースでサロンに通い続けている人は美しさも途絶えない。以前まで憧れだった美意識の高い女性像の輪郭を懐かしく思い出しながら、ラムチョップを咀嚼した。

 帰宅後。私は、何かに触発されていた。なんとなく戸棚の奥にしまっていたセルリアンブルーのマニキュアを取り出し、凝固した箇所をちまちまと取り除きながら、久しぶりに一層だけ塗ってみることにした。鮮やかで、照明の光を跳ね返すつるつるとした表面を見つめていると、不思議なことに「またネイルしてみようかな」という気持ちがぽこっと心の表面に浮かんだ。衝動再発。もう一度、重ねて塗る。しばらく乾かしているうちに「でもまぁ、面倒くさいし、いっかあ」と、激落ちくんでコンロを擦っていた。その際に、せっかく塗ったマニキュアも一緒に擦れて、爪の先端部分の色が少し落ちる。はぁ、ネイルの意味よ。私はいったい、何をしているんだろうか…。

 面倒くさい。結局、この一言が、「みんなもしているんだから私もやらなければいけない」という美容観念の軸をぱきっと折った。

 この面倒くさいという感情を乗り越えるほどの熱量が、お金の使い道には必要だったりする。自分がどうしたら心と体が満たされるのかが明確にわかっているからこそ、注ぎ込む対象が決まってくるわけで、所謂、自分という会社の必要経費でもあったりする。様々な要素で構築されている自分を分解していくと、自由な時間の過ごし方や息抜きという色味が必然的に織り交ぜられ、その糸が案外太く絡まっていたことに気が付くのではないだろうか。その自由な時間のために、その息抜きの行為のためにも、働くことに意味がある。つまり、生きる意味があるような気さえしてくる。モチベーション維持に欠かせないことを作ることは、向き合いたくない日常をフェードアウトさせて人生を楽しむためにも非常に有効的だと感じる。

 で、私という人間はいったい何にお金を使っているのか、しばらくの間考えてみたのだけれど、これが笑ってしまうくらいにつまらなかった。

 まず、一番に交通費。これはタクシー代。大嫌いな人ごみを避け、自分の体力を少しでも温存しておきたいという気持ちから、仕事のときはたいてい利用する。「勿体ないじゃん」「贅沢病だな」そのような異論、はい、認めます。

 そして第二が、食費。自炊は週二くらいしかしないのだから(しかもだいたいが作り置きにしたり冷凍保存される)、食事会も含めて外食が大半である。

 そう、私の息抜きのための消費は、ほとんどが「食費」なのである。

 生きることと直結する「食」。もっぱら、昔から食への興味は性欲と同じくらいに強かった。

 学生の時はサイゼこそが正義であり(たまにゼリアで区切る人もいるそうですが、木更津ではサイゼ呼称でした)、学校近くの白河ラーメン屋(中太縮れ麺で、やさしい味で激うまだった)にも週に三回は通っていた。二つのバイトを掛け持ちして稼いだお金は、学費とラーメン代で終わっていたのではないだろうか。母と一緒に大衆居酒屋で焼き鳥数本をかじるだけでも、コスパの良さを感じて満足していた。

 正直、私は味にこだわりがない。とてつもなく美味しい。うん、普通。なんだか美味しくない。これはまずい。この程度の判断しかできない私の稚拙な舌では、その繊細な味の違いにも鈍感で、例えば利き酒といっても、辛いか甘いか水っぽいかの三つのレビューしか特に思いつかない。とりあえず、飲みやすければそれを好んで嗜む程度だ。

 しかしながら大人になって極端に増えた会食のたびに、頭をフル回転し、脳内から絞り出した言葉を並べて、食事とその場を提供してくれた人へ、束の間のひと時に少しでも色味を足す努力をしなくてはならない。それは結構、しんどいことだったりもした。加えて、次の料理が運ばれてくるまでの会話もなかなかしんどい。「○○のあそこにできた、あのお店…」「もしかして○○通り沿いにある○○の隣の店ですか?」「あっそこそこ!」という会話を聞くたびに、自分もそういう話についていけるようにと、誰もが知っている名店であれば一人で行くことも度々あった。つまり、「興味がないけれど興味を持つようにするという習慣費」も、毎月加算されていったのだ。

 話は少しずれるけれど、会食で味わう料理の、その本当の味わいというのは、食べている瞬間も人に見られているような妙な緊張感で、まぁーーよくわからなくなります。挙句、急にみんな笑い出したりして、食べることと話すことを同時にできない自分は、その食べ物を慌てて咀嚼して口内には跡形もなくなったことを舌先できちんと確認したり、手を口もとにもっていって笑いを合わせようとして、時差が生じてしまう。

 終わってタクシーに乗り込んで安堵しても、さて、それらがどんな料理だったのか鮮明には思い浮かばず、噛めば噛むほど相手に何か言葉を求められているような恐怖に犯されたことと、口の中が灰色を帯びていくような居心地の悪さでいっぱいになったことだけが蘇るのだ。

 どれだけチープなものでも、「うんま~~」「超おいし~~~!!」の会話で済むご飯の方が圧倒的に楽で、美味しく感じる。美味しいものは、美味しい。「ぷりぷり」とか「パリッとしてるけど中はジューシーで」とか、食レポで求められている文言や広告のキャッチコピーのようなことを、どうして人は求めるのだろうか、いまだに不思議に思う。私だったら、自分が作ったものを「うんま~~~~~~~~」と叫ばれたら最高の褒め言葉に感じるし、「ありがとう!」と抱き着くに違いないけれど。会食の場は異質だもんなぁ。

 大人になってからいろんな料理店に行き、いろんな味が堪能でき、絶対に思いつかないような盛り付けや、店の内装や店員さんの美しい所作に魅了された。

 綺麗な箸使いでもって上品に食べること。咀嚼しきってから相手が満足する様な的確な感想を述べること。大人の会食に付きまとうテーブルマナーは、親に昔叩き込まれた「大人になったときに恥ずかしい思いをしないようにリスト」を一つずつ実践していくような感覚で、誰かに“見せる”ために食べに行ってるような不快感がある。純粋に、美味しいものを美味しいと共有できる“食”が欲しい。よって、一人で気軽に食べにいく焼肉のおいしさには到底叶わないということになるのだ。

 食事会で行った美味しい料理屋に、一人で再来店することもよくある。なんだかおいしかったような気がする、という記憶を頼りに、覚えていない店の名前をネットでなんとか探し出して、もう一度行ってみる。そうすると、「あれっこんなにおいしかったんだ」というとてつもない感動が襲い、素晴らしい場所に連れてきてもらっていたんだなと再確認するのだ。今度誰かと行くときには絶対にここを紹介しようとわくわくするけれど、行く相手も思いつかないので、やはりまた一人でこようとアイフォンにメモをする。まさに、孤独のグルメ。というか、私の中でのグルメはとてつもなく孤独なのかもしれない。会話をする必要もなく、相手の話を聞くときに箸を止める必要もなく、好きなスピードで好きなものが食べれて、食事のマナーで人間性や育ち方を問われることもない。自由で、とっても幸せだ。

 素晴らしい料理がもてなされているときに本題を話すだなんて、セックスをしながら充実した会話をするくらいに、なんだか難しいものではないだろうか。会社のスペースで本題を話し合い、食事は食事で楽しんで、その後ルノアールで珈琲でも飲みながら、のんびりアフタートーク(賢者タイム)をしませんか。このコース、働くおっぱい的には最高なんだけど。そうしたら、きっと、食費の使われ方は変わってくるだろう。時間の使われ方も。はぁ~~~。何もしなくても、生きてるだけでお金なんて散るように減ってゆくのだから、もっと楽しい「自分だけのお金の使い方」を今年は見つけたいものです。

バナーイラスト=スケラッコ

執筆者プロフィール
さくら・まな●1993年3月23日、千葉県生まれ。工業高等専門学校在学中の2012年にSODクリエイトの専属女優としてAVデビュー。15年にはスカパー! アダルト放送大賞で史上初の三冠を達成する。著書に瀬々敬久監督により映画化された初小説『最低。』、『凹凸』、エッセイ集『高専生だった私が出会った世界でたった一つの天職』、スタイルブック『MANA』がある。

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