「井戸替えに見る住居の違い、病の違いとは?」『江戸秘伝! 病は家から』⑮

文芸・カルチャー

公開日:2019/12/6

 窓のない部屋に住むとうつ病に!? 小石が癌の原因に!? 医者が治せない病に悩む市井の人々は、なぜ江戸商人・六角斎のもとを訪ねるのか。その孫の我雅院(ガビーン)が謎に迫る江戸ロマン小説! バナーイラスト=日高トモキチ

【第十五病】井戸替えに見る住居の違い、病の違いとは?(市井の‘町医者’六角斎の見立て)

 ♪粋な深川、いなせな神田、人の悪いは麹町(だって麹町は、旗本八万騎の密集した鼻につくようなお屋敷町のため)と、六角斎はこんな一節を口にしては、彼にとってみては、ほんの一世代前の江戸をしのぶときがありました。

 そんな際は、もっと聞かせてと江戸風情をねだってみると、ガッテン承知!と腕まくりのしぐさで、

 「こちとら、神田上水の水を産湯に浴び、拝搗(おがみづき)の米を喰らって日本橋の真ん中で育った金、金、金箔付きの江戸っ子だ!」

 と、見事な啖呵(たんか)を切ってくれたりしました。頼みもしないのに、火消し半てん(本郷は八番‘た’組)まで引っ張り出して羽織った時、そこだけ江戸の風が吹き抜けたような気がしました。

 六角斎にかかると、‘神田’の地名の由来も独特で、誰もが考えつく初穂を奉納する神の田では?などと言わず、何と平将門を登場させて、戦に破れて京の河原に首だけをさらされた将門が、突然、

 「俺の体はどこだ!」

 とわめき立て続け、俺の体、体、からだ、……、かんだ、神田となったとのこと。(本当かなあ?)

 「久志よ、丁度いい機会だ。今言ったその江戸っ子達がひしめき合って暮らしていた当時の、江戸の‘井戸替え’が何たるかを知っておいた方がよかろうと思う」

 例によって六角斎の井戸替え話しは、きっと別のことを示すための伏線だろうと察しはついていました。六角斎は、まあざっとこんな風に説明を始めたのです。

 「井戸さらい、とも言うよ。裏店(雑多な町人達の長屋住まい)の住人総出で年に一度、共同使用の掘抜き井戸の大掃除だ。‘井戸替えは深さを横に見せるもの’とは、皆で五間(約9m)の綱を引けば井戸の深さは9mとわかる狂歌さ。もちろん、洗い場も厠(かわや、便所)も物干しも共同だったし、何とも人情味あふれる生活をしていたんだね」

 六角斎は次にこう問うてきました。

 「では、彼らの住む九尺二間の棟割長屋が、現在の君達の家と根本的に異なる点は何だと思うかね?」

 (ほーら、質問攻めだ)

 「うーん、間口九尺(2.7m)奥行二間(3,6m)だと、せいぜい今の4畳半か。そうだ、テレビ、クーラー、冷蔵庫、自家用車なんて絶対になかったよね」

 と、

 「いかん、いかん、即物的すぎる答えだ」

 面倒になって結論を早くとせがむと、

 「よいかな、江戸っ子各々の住むその限られた狭い空間には、蛇口をひねれば出る水道もないし、もちろんお風呂なんて家の中にはない。さっき説明したとおり便所も外にある共同便所さ」

 ガビーン! それは困る。よく人情長屋とか言うけど実際は不便だったんだ。

 「まあ強いて挙げれば、煮炊きする竈(かまど、へっつい)は備わっとったが。あとは薄っぺらい夜具(蒲団)と火鉢かな」

 ここで口調を改め結論らしき事を。

 「これまで、病の起こる(体の部位、症状)原因を、その家で相当する造りや働き、役目からたどって突き止めることを話してまいったが、こと江戸の長屋では病も現代に比べるとシンプルなものだったと思うんじゃ。おっ、久志もその事に気付いたようじゃな。つまり江戸っ子の住居内には、いわゆる‘水廻り’に関わる造り(水道、水道管、湯船、排水管、便器、肥溜め)がなかったと言う事」

 六角斎は続けます。

 「それが今のご時世を考えてごらん。江戸の長屋がアパートやマンションと名前は変われど、何とその一戸、一戸毎には、ありとあらゆる‘水廻り’の造作物が張り巡らされておる。大学病院に行ってごらん。よくぞここまでと細分化した何科、何科のオンパレード。何で現代はこんなにたくさんの種類の病気があるんじゃ。だからワシはこう思うんだよ。‘昔あったのに今はない病。昔なかったのに今ある病’の現象は、昔と今では家の構造、造作物の違いに大きなヒントが隠されていると言う訳さ」

 最初は♪粋な深川~などと酔狂な六角斎でしたが、こと話題が病と家の関係に及ぶと、孫の私にまるで遺言を託すかのごとき熱の入れようで語るのでした。

 そこで、前々から解けずにいた、もう一つの疑問を六角斎に投げかけてみます。

 「どうして、自分の体と自分の家で起こる事が結び付くの?」

 すると六角斎は反対にこんな質問をします。

 「久志よ自分はどこまでが自分と思ってるのかね?」

 またガビーン!

 「そんなこと分かりきってるじゃない。頭の先から足の先まで」

 「やっぱり、そう答えるのか。うむ、ではあえてちょっと難しいかもしれんが、‘不可分物’なる言葉で表現するとこうなる。すなわち‘自分とは、己が身体のみならず、己が所有する物全て含めての自分’なのだ」

 六角斎はそう言うと、己が胸板をバンと叩き、これはワシじゃ。次に目の前の畳や柱を指して、これもワシの物。障子を開け、視界にある庭も塀も木戸もワシの一部じゃよ。と続け、

 「いっそのこと、英語で考えてごらん。ある意味そのほうが分かりやすい。自分はI。この鉛筆はMy pencil。Myを付けるからには、自分と同一とみなす。‘不可分物(切り離しようのない物)’とはそういう事さ。だから本当は家のみならず、自転車も車も畑も田んぼも漁船も別荘も、およそ全ての物は、誰かさんの所有であり、誰かさんにとっての‘自分’の及ぶ範囲なわけさ」

 繰り返すようですが、♪粋な深川~の出だしから、すっかり六角斎の独壇場の様相と相成った今回。当時の私には、犬に論語か牛に経文の如しでしたが、時を経てみますと、住居の違いと病の現れの事や自分というものの定義を、一生懸命に孫の私に伝えようとしていた在りし日の六角斎の顔が声が仕草が浮かんで来ました。

 案外とても大切な礎(いしずえ)を身に付けたのかも知れません。第十五病「完」。

<第16回に続く>

我雅院久志(がびいん・ひさし)●江戸時代から続く商家の七代目当主。還暦を迎えた東京生まれの江戸っ子オヤジ。五代目当主だった祖父・六角斎のもとに、病に悩む市井の人々が日々訪ねてくることに気付き、その理由を探ることに。本連載がデビュー作となる。