「動画はディープフェイク」それでも退学はやむなし?/ 松岡圭祐『高校事変Ⅲ』⑥

文芸・カルチャー

更新日:2019/11/17

超ベストセラー作家が放つバイオレンス文学シリーズ第3弾! 前代未聞のダークヒロイン・優莉結衣が、シリーズ最強の敵、戦闘能力の高い元・軍人たちを相手に大活躍する…!?

『高校事変III』(松岡圭祐/KADOKAWA)

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 優莉結衣はリビングでひとりきりになった。

 来客が帰っていくのを見送るため、猪原は外へとでていった。施設長は善人にちがいないが、いまは戻ってくるのをまちたくなかった。面と向かっての話しあいは望まない。結衣は階段を上りだした。

 猪原は結衣を塚越学園に送りだすつもりだろう。経緯を考えれば、そんなふうに判断されてもしかたがない。無理に居座るのは困難になった。これからどうするか、早急に考えねばならない。

 二階に着いたとき、狭い廊下の暗がりに、セーラー服姿の理恵が立っていた。

 理恵はいまにも泣きそうな顔で見つめてきた。「結衣さん。でていっちゃうの? 今度の日曜、ティント買いに行く予定でしょ。ピンクピンクモンスター2も撮ろうって」

 親しくなってから一か月、すっかりタメ口だった。結衣が理恵にそうするよう頼んだからだった。

「いえ」結衣は視線をそらした。「見学に行くだけ。日曜は予定どおり」

 民家を改築した児童養護施設の二階には、八つのドアがある。もとは四部屋だったが、三畳ずつ八室に仕切り直されている。それぞれに二段や三段のベッドを備える。結衣の部屋はいちばん奥のドアだが、その前に理恵が立ちふさがっていた。

「でも」理恵の切ない声の響きがうったえた。「塚越学園に転校しなきゃ、警察に捕まっちゃうんだよね?」

「約束したでしょ。お姉さんが卒業するまで、一緒に通学する」

「そりゃ結衣さんがいなくなったら、お姉ちゃんはきっといじめられる。だけど結衣さんのことも心配。いまさら警察の取り調べを受けるなんて。不良三人をやっつけたぐらいで……」

 思わず視線があがった。結衣は理恵を見つめた。ほかの子供たちはまだ帰ってきていないが、階下には声が届く。施設長の猪原が戻れば、会話をきかれてしまう。

 理恵は察したらしく、困惑顔で押し黙った。不満をぶつけることさえできない悔しさが、潤みがちな目に浮かびあがる。

 無理もない。理恵は真実を知っている。姉の奈々未を救うため、結衣がなにをしたか、一部始終を把握ずみだった。男子生徒三人を負傷させたどころの騒ぎではなかった。

 階下で玄関のドアが開閉する音がした。猪原が戻ったらしい、スリッパの音がきこえてくる。リビングから結衣の姿が消えていたからだろう、当惑を感じさせる沈黙があった。けれども階段をのぞく気配はない。椅子を引く音が厳かに響く。猪原はひとり腰かけたようだ。

 理恵が距離を詰めてきた。気遣わしそうな表情とともにささやいた。「結衣さんが隠し撮りに気づかないなんて……」

 結衣は鼻を鳴らした。「隠し撮りなんてされてない」

「え? でもさっき……」

「あれはディープフェイク。加工された映像」

「ディープフェイク?」

「スマホで検索してみて。もう社会問題になってるけど、知らない大人も多くいる。簡単にいえばCGによる顔のすげ替え。動画のなかの顔が、すべて別人に替えられる」

「そんなこと、ほんとにできるんですか」

「どうせ近いうち女子高生向けアプリにも登場する。だけどいまのところは人工ニューラルネットワークや、グラフィックプロセッサのパワーが不可欠だから、それなりのスペックのパソコンが要る。世のなかの馬鹿な男たちが考えることは想像つくでしょ。有名な女優の顔がAVに嵌めこまれて、芸能事務所は泡を食ってる」

 動画に新たな顔を嵌めこむためには、当該の人物をあらゆる角度からとらえた画像が求められる。AIがディープラーニングのアルゴリズムを用い、画像アスペクトの交換部位を学習していくからだ。女優の顔データは、既存の映画やドラマから取得可能であると証明されている。結衣もこれまで、通学途中にマスコミの待ち伏せを受け、ワイドショー番組で勝手に映像を流されてきた。各局の番組を収集すれば、視覚材料としては充分だろう。

 理恵が目を丸くした。「動画に映ってたのは、結衣さんじゃなかったの?」

「空手部の女子部員が、不良の男子三人を見るに見かねて叩きのめした。優莉匡太の娘だったわたしが疑われたけど、否定せずにおいた」

「なんで?」

「その子は正しいことをしたのに、放校になるなんて理不尽でしょ」

「それで結衣さんが武蔵小杉高校に……。三人の男子生徒が当初、身におぼえがないといったのも……」

「ほんとにわたしと会ったことがなかったから」

「カメラをしかけたのは三人の男子生徒?」

「あそこは空手部女子部員の着替え室だった。盗撮目的でしょ」

「最低」理恵が嫌悪のいろをしめした。

 映像を加工したのはあの三人か。それ以外に考えられない。ディープフェイクのソフトウェアが市販されたのは二〇一八年一月。以来、いたずらやリベンジポルノに、頻繁に用いられている。結衣は転校後、武蔵小杉高校事変で世間から疑惑を持たれた。面白がった三人が、秘匿していた映像データに結衣の顔を合成し、健康育児連絡会に送りつけたのだろう。一方的に嫌がらせをしてくる数多の連中と同じだ。

 DVDーRに焼いたのは、故意に画質を劣化させ、粗をばれにくくするためか。動画サイトにアップしなかったのも、たちまち専門家に見破られる事態を懸念したからと考えられる。

 映像について三人の男子生徒は、ふたたび事情聴取を受けた。とぼけるしかなかったのは容易に推察できる。武蔵小杉高校事変の時点では、結衣を窮地に追いこむ材料が世に氾濫するかと思いきや、この映像だけが証拠になってしまったからだ。

 理恵が結衣を見つめてきた。「警察が動画を調べれば、さすがにわかるでしょ?」

「そのうちにね。でもすぐには期待できない」

 所轄の捜査員による、杓子定規な仕事ぶりは予想がつく。映像が科学的に解析されるまで何週間もかかる。それまでは過去の常識にしたがい、映像を動かぬ証拠ととらえるだろう。犯罪は日進月歩だというのに、警察の観念は古色蒼然としている。

 いや、たとえフェイクと発覚しようと、公安警察は結衣の身柄確保を優先するにちがいない。

 結衣は理恵を見かえした。「事実が発覚するとしても、それはわたしが補導されたあとになる。当面は犯人あつかいを免れないし、その時点で葛飾東高校も退学処分を下す」

「そんな。だからいまのうちに塚越学園に移らなきゃいけないって? 本当のことをいうべきでしょ。なんで猪原さんに打ち明けなかったの?」

 重要な理由がほかにある。結衣はいった。「クリスマスの直前、駅のホームで凜香に会ったでしょ」

「凜香さん……」理恵は目を瞠った。「結衣さんの妹だよね。ほんとにびっくりした」

 むろん結衣にとっても同様だった。いまさら妹のひとりに鉢合わせするとは、予想すらしていなかった。

 かつて六本木の店のバックヤードは、半グレ連合の拠点として使われた。うち一室はいつも託児所の様相を呈していた。兄弟姉妹のほとんどは母親を知らないまま育った。結衣が物心ついたのは三歳ぐらいだ。九歳になり機動隊が突入してくるまで、ほかの子らと同じく不登校だった。

 あの場に父がいることは少なかったように思う。店のホステスや常連客が遊び相手になってくれた。勉強を教えてくれた外国人らが、ヤクの売人だったとのちに知った。

 ふだんから兄弟姉妹はふたりずつ、半グレ幹部の大人たちに誘われ、外へと連れだされた。犯行の標的となる場所の下見には、子連れを装ったほうが人目につかないからだ。

 結衣が八歳になったころ、よく妹のひとりと組まされた。凜香はまだ五歳で、結衣が世話を引き受けていた。なぜそうなったか、理由はおぼえていない。顔はあまり似ていないから、母親が同じというわけでもないのだろう。凜香からは結衣姉ちゃんと呼ばれていた。

 もっとも結衣にとって凜香は、特に情愛を感じた妹ではなかった。兄弟姉妹の誰とも心が通じあっていた実感はない。結衣はそんな子供だった。駅のホームで凜香と再会したとき、淡泊な思いだけがよみがえってきた。一見して凜香とわかったこと自体が、むしろ驚きだった。金髪のショートボブにしていたが、童顔は変わっていなかった。

 あの日、凜香は電車に乗りあわせると、妙に明るく親しげに接してきた。理恵には目もくれなかった。いまは千代田区の麹町西中学校に通っている、凜香はそういった。他愛もない話を一方的にしたのち、ひと駅で降車し、そのまま姿を消した。

 結衣は理恵を見つめた。「凜香が電車を降りるとき、わたしに耳打ちをしたのをおぼえてる?」

「もちろん」理恵が真顔になった。「どうかしたのって、わたしは結衣さんにきいた。でも結衣さんは、なんでもないっていってた」

「あのときはわたしも、よく意味がわからなかった。もうすぐ塚越学園に移るって、凜香はそんなふうにささやいた」

 理恵はまた目を丸くした。「塚越学園に移るって、凜香さんが?」

「だと思う。そういう言い方だったし」

「さっきのお客さん、学園長だったんでしょ。凜香さんのこと、きけばよかったのに」

「わたしが角間学園長の顔を知ってたのも、凜香と会ったのがきっかけ。塚越学園をネット検索して、画像を確認したから。もっとも日常的に、公安がなにかにつけて、優莉匡太の子供を塚越学園送りにしたがってた。凜香も近いうちそうなるってこと」

「なぜ結衣さんに伝えたの」

「さあね。会ったのが偶然とも思えない」

「まさか、わざわざ結衣さんに知らせにきたとか? あの時間、あの駅にいるなんて、どうしてわかったの?」

 それ以前に、兄弟姉妹どうしが接触すること自体、困難なはずだった。互いに居場所も不明なうえ、みな公安の監視下に置かれている。

 とはいえ駅のホームや電車内に、公安の尾行はなかったように思う。プライベートを四六時中追いまわされるわけでもない。休日の外出目的がはっきりしている場合は、わりとほうっておかれる。人権派の支援団体がうるさいからだ。凜香も同じ境遇だろう。

 理恵がきいた。「塚越学園ってどんなところ?」

「よく知らない。三浦海岸近くの南下浦町にある。グーグルマップで見たけど、ふつうの学校ぐらいの敷地だった。大勢の生徒や児童が校庭にいた。学校法人って触れこみの、非行少年少女の矯正施設なのはたしか」

「ほんとに?」

「そういう施設だって明言してなくても」結衣はスマホをとりだし、ブラウザを立ちあげた。画面上のバナー広告に〝お子様を立ち直らせます〟と大書してある。「一回だけ塚越学園を検索したらそれ以降、検索ワードが広告に反映されてる。類似の業者ってこと」

 理恵が指を伸ばし、そのバナーをタップした。表示されたテキストを読みあげる。「怪しい施設に注意しましょう。三十年ほど前、熊本で國臍升覚塾という、厳しい指導を売りにした不良少年更生施設の開校が宣伝されました。しかし学費を前払いで募ったあげく、主宰者の國臍氏は雲隠れ……」

 結衣はスマホをしまいこんだ。「うちはそんな怪しい施設じゃありませんと強調しながら、似たような業者が広告をだしてる。同じ穴の狢なのは見え見えなのに」

「塚越学園もうさんくさいところなの?」

「そうは思えない。もともと一部の矯正施設に、詐欺やトラブルが頻発したから、国でちゃんとした施設を作ろうとしたんだし。角間さんの著書や論文を読んで、きょうも話をきいて、不幸な子を救済したいっていう強い意志は感じた。そこに嘘はないと思う」

「なら学園長さんは信用できる人?」

 彼の誠意や誠実さに疑いの余地はない。ただし塚越学園をひとりで切り盛りするわけでない以上、敵対派閥なり勢力なりも存在するだろう。公安警察の意に沿おうとする人間が、運営側に潜んでいないともかぎらない。

 結衣はいった。「なぜ凜香が接触してきたか、理由を知りたい。そのためだけに塚越学園に見学に行く。入学する気はない」

 理恵のすがるような目が見つめてきた。「絶対に戻ってきて」

「むかしから約束を破る大人たちが嫌いだった」結衣は思いのままをつぶやきに変えた。「同じことは絶対にしない」

第7回に続く

松岡圭祐
1968年愛知県生まれ。97年に『催眠』で作家デビュー。代表作「万能鑑定士Q」シリーズは累計450万部を突破。他の作品に「千里眼」「探偵の探偵」各シリーズ、『ジェームズ・ボンドは来ない』『ミッキーマウスの憂鬱』など多数。
写真=森山将人