昼の女から夜の女になる幸恵ねえの姿が誇らしくて…『里奈の物語』⑤

文芸・カルチャー

2020/1/15

物置倉庫で育った姉妹(里奈と比奈)は、朝の訪れを待ちわびた。幾つもの暗闇を駆け抜けた先に、少女がみつけた希望とは―。ルポ『最貧困女子』著者が世に放つ、感涙の初小説。

『里奈の物語』(鈴木大介/文藝春秋)

 学校が終わると、里奈は走って比奈を預けてある幸恵ねえの友人宅に行き、比奈に軽く食事をさせる。幸恵の昼の仕事先である自動車用品店は、朝の10時から夕方5時までが勤務時間で、里奈はその仕事を終えて帰ってくる伯母を比奈とともに待つ間に比奈と自分の入浴も済ませ、やっぱり念入りに髪の毛をサラサラに乾かしておく。

 幸恵ねえの愛車はサイレンサーが入れ替えられていてボボボボという独特の低い排気音がするので、迎えに来たのはすぐにわかる。いつだってあわただしく現れる幸恵ねえが、昼の女から夜の女になるこの時間が、里奈は好きだ。

 幸恵の自動車用品店での仕事はレジだが、整備のほうが混んでいればオイル交換といった軽作業から、タイヤチェンジャーの操作といった結構な力仕事までこなすから、紺とオレンジ色の作業着はいつも汚れているし足元はつま先に鉄板の入った安全靴だった。

「ほら里奈! あんたも手伝って!」

 勝手知ったる我が家のごとくバタバタと友人宅の玄関を入ってくると、幸恵は重い安全靴を脱ぎ飛ばし、キャスターを鳴らしながら引きずってきたピンクのキャリーケースを上がり框に投げるように置く。作業着を床に脱ぎ捨ててユニットバスのシャワーを浴びに行く幸恵の背中を見ながら、里奈はちょっと誇らしげな気分で、胸がドキドキするのを感じるのだ。

 里奈のお手伝いは、幸恵の脱ぎ捨てた作業着を畳み、安全靴や姉妹の着替えなどを詰め込んだデカいトートバッグと共に、アパートの外に停められた幸恵の愛車のトランクに運び入れること。もちろん比奈が忙しい幸恵にじゃれつかないように相手をしつつの作業だ。そうして鉄階段をカンカン駆け戻ってくる頃には、幸恵は座卓に小さな鏡を出して、半裸に咥え煙草でメイクを始めている。

 里奈の目が輝く。

 広げられた幸恵のキャリーケースは、まるで魔法の箱のようだ。いくつもの色とりどりの化粧瓶や、里奈にはまだ何に使うかわからない化粧道具の数々。昼の仕事でも薄化粧をしている幸恵だが、昼と夜の境目で伯母は一度丹念にメイクを落とす。自動車整備で油染みていた伯母の細く長い指が、流れるようにいくつもの化粧道具を駆使し、その顔を見る間に彩り上げていく。

 まるで大きな花が咲いていくようなその変容に、思わず横に正座して幸恵の手元に見入る里奈だが、幸恵はそんな里奈には目もくれずに立ち上がると、タイトで胸の開いたスカートスーツに着替える。広げたのと同じぐらいの手際よさで化粧道具をキャリーケースにしまい込むと、最後の仕上げは玄関のピンヒールだ。

 里奈はこの、まるで武器のようにとがった不思議な靴に足を通す幸恵ねえを見ると、いつだって誇らしい気分になった。ピンヒールを履いた瞬間、幸恵ねえの脚はモデルのように長く細く美しくなり、なにより里奈には「強く逞しい」脚に感じられるのだ。

 いつだって幸恵ねえは里奈に対してぶっきらぼうだったし、機嫌が悪ければ平手で頰を張られることもあったし蹴られることもあったけど、里奈はやっぱりこんな逞しい幸恵ねえが嫌いじゃなかった。

 寸分の隙もなく身支度を終えた幸恵は、細い腕には意外な力強さで比奈を片手に抱え上げ、空いた片手にキャリーケースを引き下げてガタガタと鉄階段を下りていく。

「里奈、今日は比奈のこと寝かしつけたら、お店のほうにおいで。島尾先生来るってさ」

「はーい」

 幸恵の背中を追いながら間延びした返事をする里奈に、幸恵は苛立った声で振り返る。

「あんたわかってんのかい⁉ 怒りにくるんだべ。あんたこのあいだ、男子ぶって怪我させたってゆうじゃねえかい」

「殴ってねえ。おっぺしただけさね。それに怪我じゃなくて擦りむいただけだっちゅ~の」

「だっちゅ~のじゃねえっちゅーの」

「そうだっちゅーの」

 苛立った幸恵の言葉も、どこまでもめげないマイペースな里奈にかかると、徐々に親子漫才のようになってしまう。

 ふたりのやり取りに出てきた島尾先生とは、小学生になった里奈の初めての担任の先生だ。入学後、里奈が平仮名の読み書きを覚えていないことに気づくと、頻繁に幸恵の勤めるパブスナックに飲みに来て、里奈に平仮名の書き取りを教えてくれた。

 島尾先生のほかにも、店の客の中には里奈と比奈が幸恵の仕事終わりを待つ倉庫にやってきて、酒臭い息で里奈に掛け算を教えてくれるおじさんなどもいた。こうして里奈は、クラスで誰よりも早く掛け算九九の暗唱ができるようになったというわけだ。

<第6回に続く>