「スピード出世」「妻一筋」 ナゾ多き武将・明智光秀の真の姿/『日本の歴史人物 悪人事典』②

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公開日:2020/2/16

小説やマンガ、映画の世界では、 正義のために戦うヒーローがいれば かならず敵対する悪役がいます。 歴史上でも同じように、 世の中を動かしたスゴい偉人の裏には、いつの時代も悪人の存在がありました。だから、「悪人」を知れば 教科書にはのっていない歴史の秘密が見えてくるかも――? 大泥棒、独裁者、裏切り者、詐欺師、悪女、テロリスト… 日本史上の悪人40人が大集結! こわいけれど、おもしろい。「悪人」たちの世界へようこそ。

『日本の歴史人物 悪人事典』(河合敦/ワニブックス)

日本史上もっとも有名な裏切り者
ナゾ多き武将の真の姿は?

明智光秀

生没年:1528?~1582年
享年:54歳
出身地:美濃

 みなさんは、明智光秀という人物にどんなイメージを持っていますか? 本能寺の変で、主君である織田信長を殺した裏切り者というイメージが強いのではないでしょうか?

 明智光秀の若いころのことは、じつはよくわかっていません。鉄砲の腕が優れていたことで越前※の大名・朝倉義景の家臣となり、そこで、室町幕府の13代将軍足利義輝の弟・義昭と出会ったといいます。義昭は、兄・義輝を殺した京都の松永久秀をたおし、室町幕府を再興したいと願い、朝倉家に助けを求めてやってきたのです。でも、義景はなかなか動いてくれません。

 これを知った光秀は、尾張※の織田信長に働きかけ、義昭への協力を取りつけたといいます。1568年、信長は義昭を京都にともない将軍にすえて、室町幕府を復活させました。

 この後、光秀は義昭と信長の両方に家臣として仕えることになります。しかし、やがて義昭と信長の仲が悪くなると、信長を選びました。信長は光秀の能力を高く評価し、光秀は織田家で猛スピードで出世していきます。わずか数年で光秀は、近江国坂本城主となり、さらに丹波一国をあたえられ、織田家一といえる重臣に成り上がったのです。

 それなのに! 1582年6月2日、光秀は大事件を起こします。本能寺を大軍で襲撃して、主君信長を殺してしまうのです。その理由ですが、光秀はもともと天下をねらっていて下剋上を実行したのだとも、信長の横暴なやりかたにキレたのだともいわれています。しかし本当のところは、いまだナゾにつつまれたままなのです。

 では、光秀という人はどんな人物なのでしょうか。キリスト教の宣教師※のルイス・フロイスは、「ずるがしこくて人に取り入るのがうまい。信長には愛されていたが、織田家の家臣たちはみな、光秀をきらっていた。裏切りや密会を好み、自分をよく見せかけるのが得意だった」とボロクソにけなしています。一方で「忍耐強くて、戦いでの作戦が見事であり、城づくりに長けていた」と、戦いのセンスをほめています。

 他にもいい面はありますよ。戦国武将は、側室といって複数の妻を持つのがふつうでしたが、光秀は若いころから苦楽を共にした正室・煕子以外の女性をそばに置かなかったといいます。かなり一途な性格だったようですね。

 さらに、光秀が再興した近江国西教寺には、戦死した家臣を供養するため、光秀が米を寄付したことがわかる文書が残っています。その史料によると、苗字のない身分の低い者も、他の家臣同様、すべて同じ石高が寄付されていて、死んだ部下たちを分けへだてなく供養した光秀の精神がよくわかります。

用語解説

【越前】現在の福井県北東部。

【尾張】現在の愛知県西部。

【宣教師】キリスト教の伝道をおこなう牧師や司祭。

<第3回に続く>