商社勤務のアラサーOLが、会社乗っとりの危機に立ち向かう!『忍者だけど、OLやってます』①

文芸・カルチャー

公開日:2020/4/5

 OLの陽菜子には秘密がある。実は代々続く忍者の里の頭領娘だが、忍者の生き方に嫌気がさして里を抜けだしたのだ。ある日、会社の上司・和泉沢が重要書類を紛失してしまう。話を聞くと、どうやら盗まれた可能性が。会社のためにこっそり忍術を使い、書類を取り戻そうと奔走する陽菜子だが、背後には思いもよらない陰謀が隠されていて…!? 人知れず頑張るすべての人に贈る、隠密お仕事小説!

『忍者だけど、OLやってます』(橘もも/双葉社)

 ──いつかこういう日がくると、どこかで覚悟していたのかもしれない。

 タンスの奥に眠っていた十数種類のウィッグを、陽菜子は腕組みしたままじっと見下ろした。これをすべて処分しなかった時点で、たぶん未来は決まっていたのだ。柄にもなく感傷的なことを思ったすぐあとに、口元を皮肉げに歪める。

 世の中に運命なんて存在しない。僥倖なんてものもない。あるのはただ、緻密な計算の上に成る結論のみ。

 繰り返し言い聞かせられてきた言葉。陽菜子の育った里の教え。

 大嫌いだった。夢も希望もない、合理主義で利己的な里の人間たちを、死ぬほど憎んできた。だから捨てた。二度と関わらないと逃げてきた。

 それなのに今、陽菜子は封じ込めてきたものを解き放とうとしている。

 遠い山奥で密やかに継がれてきた、忍者の里に伝わる技を。

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「──ばっかじゃないの?」

 つるりと漏れた言葉は予想以上にフロアに響いて、陽菜子ははっと口元を覆った。

 だが定時を五時間ほど超過した会社には、鬼の形相でパソコンに向かっている営業部の人間が二、三人いるばかりで、彼らは陽菜子たちに一瞥の興味も示さない。声を落とし、陽菜子は改めて目の前にいる和泉沢に向かって吐き捨てる。

「あんた本当に、馬鹿でしょ」

「そう言うなよ、望月。同期のよしみで相談してるんだからさあ」

「よしみってどういう字か知ってる? 好みって書くのよ。わたし、あんたのこと全然好きじゃないんですけど。なんにも関係ないんですけど」

「だからそう言うなってえ。同じ部署の仲間じゃないか」

 へにょへにょと情けない声をあげるこの男は、これでも陽菜子より年上だ。国内最高峰の国立大学、すなわち東京大学の理学部を卒業し、あまつさえ大学院にまで進学していた彼は、同級生よりも二年遅れて和泉鉱業エネルギーに入社した。名前のとおり彼と縁続き、というよりも、彼の祖父が一代で興したこの会社に。

 つまりは正真正銘のおぼっちゃんである。

 山奥育ちの陽菜子とは、まるで気が合わない。──合わない、のだが。

「ぼくが相談できる相手なんて望月しかいないんだもん」

「31にもなる男がもんとか言ってんじゃないわよ。そんなだからボンなんて呼ばれるのよ」

「え、ボンって、坊ちゃんのボンでしょ。あまりうれしい呼び名じゃないけど、でも間違ってはいないよね?」

「ちがうわよ! あんたのボンは、ぼんくらのボン!」

 声を潜めながらも最大限に張る、というのはなかなか難しくコツのいる動作なのだが、忍びたるものどんな状況でも情報伝達ができねばならぬというのが忍術帳に書かれた教えのひとつで、騒がしい場所であれ静まり返った場所であれ、誰にも気づかれずに肉声を仲間に伝える技を陽菜子は身につけていた。そんな訓練の成果はいつだって、日常のどうでもいい場所で発揮されるのだけど。

「だいたいあんた、課長でしょ。まがりなりにも管理職でしょ。もっと威厳もたせられないの?」

「だって望月のほうが断然しっかりしてるし。……ね、それよりやっぱり、ごはん食べながら話そうよ。ぼく、奢るからさ」

「だめ。そんなところ行ったら誰に聞かれるかわからないじゃない」

「だったらせめて密談らしく階段の踊り場とか……座席で話すの、なんだか落ち着かないんだよね」

「あのね。階段なんて上も下も筒抜けよ? ここが一番安全なの。誰か来たらすぐわかるし」

「でも……」

「うっさい。文句があるなら、わたしは帰る」

 きつめに言うと、和泉沢はしゅんとうなだれた。そのまま消えてしまうのではないかと心配になるが、陽菜子は頓着しない。和泉沢のこれは半分くらいポーズなのだと、つきあいが長い分わかっている。もっとも、陽菜子以外の女子はたいてい、同期であろうと「母性本能がくすぐられるよね」などと呑気なことを言いくさるのだが、それがこいつをつけあがらせるのだと陽菜子にとっては苛立たしいことこの上ない。甘やかす人間があとを絶たないからいつまでたってもボンなのだと、陽菜子は入社以来、自分だけは絶対にほだされまいと心に決めていた。

 それなのになぜだかこの男は、優しくしてくれる女の子たちをさしおいて、いつも真っ先に陽菜子を頼る。つまり、もめごとを持ち込んでくる。

「それで、いつなくしたの。飛行機に乗ったときは、持ってたんでしょ」

「降りるときも持ってたよ! ぼく、確認したもん」

 だからもんはやめろもんは、と心の声を押し殺す。それを言い出してはいつまでたっても話が進まない。

 要するに我らが和泉沢課長は、重要書類を紛失してしまったのだった。

 和泉鉱業エネルギー、通称IMEは、石油をはじめとするエネルギーの輸出入を主な事業としており、資源開発課の陽菜子たちは、新しい輸入先を開拓し、契約をとってくるのが主な仕事だ。和泉沢は、新たに発見された油田をもつ上等な新規顧客との交渉のさなかに、先方との打ち合わせのもと作成した契約書の下書きをなくしてしまったという。

 望月さん、ちょっと残業いいかな。なんて猫なで声ですりよってきたときにいやな予感はしていたのだ。誰もいなくなったとたん、どうしよう、誰にも言えない、と半泣きになった和泉沢の情けなさに、苦々しく舌打ちしそうになる。

「ったく、なんのためにドバイくんだりまで行ってきたのよ。子供のお遣い以下じゃない」

「そんな何度も言われなくても自分が馬鹿だってことくらいわかってるよお。ねえ、望月。どうしよう。あの書類には、うちが提示する価格や条件が全部びっしり書いてあるんだ」

「知らないわよ、そんなこと」

 新規油田は金の湧き出る泉だ。獲得しようと躍起になっているのは、IMEだけではない。肌身離さず持っていた、落としたはずがないのだ、という和泉沢の弁を信じるとしたら、油田を狙う誰かに盗まれた可能性が高い。

「おとといの日曜に帰国して、それからどうしたの。会社には寄らなかったんでしょう?」

「……うん。羽田についたのが夜の八時だったんだ。疲れていたし、まあいいかなあって……。一応さ、きのうは必死で探したんだよ。航空会社にも問い合わせて、おとといの帰り道とか、お店とか、全部たどって。でもなくて……」

「お店? どこか寄ったの?」

「あ、うん。その、ほら、おなかがすいたから」

 急にきょどきょどとわかりやすく視線を泳がせはじめた和泉沢に、陽菜子は深い深い息をつく。

「ひとりで?」

「えっ、それはもちろん……ねえ、ほら、やっぱり、日曜の夜だと、遅くなるのもあんまりよくないし、それで」

「ひとりだったの?」

 射抜くような視線を向けられたとたん、和泉沢は鼻の頭に汗を浮かべた。そしてやがて、吹けば飛ぶような声で「ひとりじゃありません」と弱々しく白状する。

「だれと行ったの」

「……美波ちゃん」

「だから、誰よそれは」

「ぼくの彼女。つきあって2カ月くらいになるかな。森川くんに連れて行かれた飲み会で知り合ったんだけど、意気投合しちゃって、2回目のデートではもう手をつないで、それで」

「あんたの馴れ初めなんて聞いてない。興味がない。それで、その美波ちゃんはどこで働いてるどんな子なのよ」

<第2回につづく>

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