読書を仕事や学びに活かすには… なぜ読書をすると記憶力を培えるのか/「記憶力」と「思考力」を高める読書の技術①

文芸・カルチャー

公開日:2020/7/16

忙しい人でも簡単にできる、法律家のすごい読み方を伝授! 木山 泰嗣氏が仕事にも学びにも効く読書法を紹介します。読解力はもちろん、記憶力、思考力のすべてを鍛えることができる著者独自の手法が満載です。

『「記憶力」と「思考力」を高める読書の技術』(木山泰嗣/日本実業出版社)

1 「義務感」「速読」「効率」の呪縛が読書を遠ざける

読書の効用

 本を読むことから得られるメリットには、膨大なものがあると思っています。

 まずは、純粋に文章を読む力、いわゆる「読解力」が向上します。日本人学生の読解力が世界ランキングで低下したというニュースが、2019年にありました。読み解く力は「受験」や「資格試験」でも重要であり、また社会に出てからもおそらく、どの分野でも活躍するための鍵になります。なぜかというと、読み解く力は、書き手が伝達しようとした内容を理解し、それを記憶する力でもあるからです。

 多くの人は、他者が伝達したい内容を正確に理解することができません。あるいは、理解しようとしません。なぜなら、自分の価値観で、あるいは、自分の主観で、「この人はきっと、またこういうことをいいたいんだろう」などと邪推しながらみるからです。その意味で、文章に表れた情報を、まずは正確に理解する力は重要だと思います。これは、文章化された言語を読み取る場面では「読解力」となりますが、人の話を聞く場合には「傾聴力」(耳を傾けて、その人が伝えたい内容を正確に聴き取る力)となって表れます。

 ということは、上司の話、先輩の話、取引先の話、顧客の話、専門家の話を、ふだん正確に理解できないと感じている方は、まずは言語化された文字情報を、時間をかけてでもよいので「読むトレーニング」を積む。そのことが、じつは有益だといえます。つまり、読書を通じて「読解力」を養うことで、さまざまなメリットが得られるのです。

 具体的には、日常的にメールや資料など、仕事で読み取ることが必要な情報を、短時間で正確に読めるようになるでしょう。それだけでなく、上司や部下やクライアントから耳で聞くリアルな話も短時間で正確に理解できるようになるでしょう。そんなメリットが、じつは読書にはあるのです。

 こうした「読解力」を手にすることができる読書の効用には、ほかに「記憶力」と「思考力」も挙げられます。もちろん、ほかにもあるのですが、本書のテーマは、〝読書を仕事や学びに活かす〟ですので、この2つを強調しておきたいと思います。

記憶力と読書

 記憶力とは、ほかならぬ、得た情報を頭の中にとどめておく力です。

 受験勉強では、「第二次世界大戦が終結したのは1945年で、東京オリンピックが開催されたのは1964年です」というように起きた事象について、その年(年号)を結びつけて覚える力があると、日本史などの暗記科目では得点を稼ぐことができます。

 わたしは、もともと数字の記憶については、語呂合わせなどを要せず、目で文字をみるだけでさっと覚えることができるタイプでした。そのため、大学受験では浪人をしましたが、高校時代に日本史の期末試験で100点をとったこともありました。その一方で、数学や理系科目の成績がとても悪かったのです。唯一、高校の成績で10(10段階評価)をとることができたのが、高校3年生の日本史でした。そして大学受験では、私大文系の難関校を目指していたので、教科書3冊分くらいの日本史の数字はほぼすべて記憶しました。そのため、浪人時代の日本史の偏差値は常に70を超え、ときには75くらいだったこともあります。

 大学受験を終えたのが1994年ですが、それから25年たったいまでも、かなりの年号を記憶しています。また、歴史に限らず、自分の人生の出来事もほとんど年号で記憶していて、趣味で観戦・応援が好きなプロ野球についても、「1998年10月8日に横浜ベイスターズが38年ぶりに優勝した。それから22年たった今年こそ優勝してほしい」と、何もみないで正確な数字で話すことができます。

 なお、わたしの子どもは小学生ですが、幼少期から数字と西暦を使ってわたしは語り続けてきました。そのためか、わたし以上にプロ野球でも日本史でも西暦の記憶が正確です。わたしたち親子は西暦を使って日常会話をしています。大学のキャンパスに小学生の子どもを連れてきたときに「この建物は1959年ごろに建てられたらしい」と説明をしたら、「1959年といえば、元大洋の屋鋪要が生まれた年だよ」と返すのですが、このような年号を使った会話は日常的です。記憶力がよいので、子どもから間違いを指摘されることもあります。

 西暦の話をしましたが、記憶すべき対象は、「5W1H」が基本です。いつ(When)、誰が(Who)、どこで(Where)、なにを(What)、どのようにしたのか(How)。それを、なぜ(Why)、という理由つきで覚えるのです。このように、「覚える」というと、「丸暗記する=暗記をする」という態勢になる人が、学生時代から多いように思います。でも、そうではありません。記憶というのは、体験を整理しておき、それをときどき思い返して確認し、整理した内容を強固にしながら、会話をするときや物事を考えるときに、必要に応じてそれを表現し、あるいは出力する技術だと、わたしは思っています。

 丸暗記したことは、時間が経つと丸々忘れてしまうものです。しかし、「自分が大学生のときに彼女とはじめてデートした」という事実は、体験です。これを数字も含めて整理しておけば、「わたしが、はじめてデートをしたのは1994年で大学1年生のときである。それはクラスの女子から、スペイン語の授業の後に『ねえ、神宮球場のチケットがあるんだけど、木山君、ベイスターズ好きだよね。よかったら行かない?』と誘われたからだった。ナイターで神宮球場のレフト側の横浜ベイスターズの応援席に座り、ヤクルトスワローズ対横浜ベイスターズのプロ野球の試合を観戦した。それが生まれてはじめてのデートだった」というふうに、体験を呼び起こすことができます。

 しかし、このように記憶するためには、ただ、「女の子と野球をみにいった」という漠然とした情報ではなく、その年がいつだったのか(When)、球場はどこだったのか(Where)、そして、「どこ」についても、その球場のどのあたりの席で……というふうに、そもそもディテールを把握しながら体験していることが前提になります。

 こうした詳細な「事実」の記憶が前提になって、そこに「感情」(感想)が加わった淡い(苦い)体験、例えば先ほどのデートの場合は「ナイターだったのだけど、どのタイミングでご飯を食べていいのかがわらかなくて困った」というディテールの記憶も引き出すことができます。

 そして、「若かったなあ」という、年配者のような感想も出てきますが、その「感想」だけの人と、前提としてのディテールの記憶が即座にアウトプットできる人とを比べると、仕事の質も、会話の充実度も変わってきます。なぜなら、そのような「1994年」という年号を出して会話をした場合、同じように「1994年」を理解している相手であれば、「その年ってヤクルトの三塁手のレギュラーはハウエルでしたよね?」とか、「野村監督でヤクルトが強かった時代ですよね」という内容のある会話もそのままできるからです。

 このような「記憶力」を培うためには、5W1Hを意識して体験するということになりますが、体験には映像はあっても、文字情報は通常ありません。これに対して、読書をすると、逆に映像がなくて文字情報だけがあります。いわば、日常の体験と真逆の状態になります。

 この記憶力が、読書の効用の1つといえます。つまり、日常では「映像」体験だけをするにもかかわらず、「文字情報」も得ていく人がいるわけですが、それは読書をしているかどうかに関係している、ということです。なぜかといえば、読書をするときには逆に「文字情報」だけから、映像をイメージし、そこで物事を考えているからです。

 つまり、読書をする人ほど、映像しか体験できないはずの日常に、自身で文字情報も加えながらセットで体験に味付けをしていくので、それで自然と「それは1994年だった」「それはレフト側の横浜の応援席だった」というように、文字情報も添えることができるのです。

<第2回に続く>