期待に応えようとするのは、認められたいから? その人への愛情から? 隠された動機に気づこう/他人に気をつかいすぎて疲れる人の心理学②

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公開日:2021/4/17

他人に気をつかいすぎて疲れる人の心理学』から厳選して全5回連載でお届けします。今回は第2回です。相手のために自分をすり減らしていませんか?「がんばっているのに認めてもらえない」「イヤなことを押しつけられても“いい顔”をしてしまう」…。そんな風に他人に気を使いすぎて疲れてしまう人の心理問題を解説する一冊です。

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他人に気をつかいすぎて疲れる人の心理学
『他人に気をつかいすぎて疲れる人の心理学』(加藤諦三/青春出版社)

こんな動機で他人の期待に応えようとしていないか

なぜ期待に応えようとするのか

 同じ嘘をつくのでも動機はいろいろとある。

 相手を騙すために嘘をつく人。

 自分を飾るために嘘をつく人。

 尊敬されたくて嘘をつく人。

 愛を求めて嘘をつく人、「できないことをできないと言えない」。

 動機は人が感じること。

 この人は「騙すために嘘をついているな」と感じる。それが心で考えるということである。

 

 非利己主義と利己主義は行動特性は全く違うが、性格特性は同じように見える場合がある。

 行動は非利己主義に見えるが性格は神経症者ということを理解していない人は多い。

 神経症者は冷酷なまでに利己主義か、あまりにも非利己主義である。*8

 

 他人の期待に応えることが、本当に美徳なのは、他人への愛を動機として応えるときである。

 認められたいから他人の期待に応えようとすることとは行動特性である。行動特性で物事を判断してはいけない。

 不安から他人の期待に応えるのか、愛情から他人の期待に応えるのかが性格特性である。

 報われない努力か、報われる努力かの問題は行動特性ではない。性格特性の結果である。行動は見えるが、性格はその場では見えないことがある。

 生きるのが辛い人は、世の中の全ての美徳を、自分の心の中で再検討しなければならない。

 世の中の全ての美徳は性格特性で判断しなければならない。

 行動特性としての美徳は、時に人を地獄に連れて行く。人に絡むからである。

 この世の中で怖いのは悪魔ではない。美徳という仮面をかぶった悪魔である。

 日本人を不幸にしているのは、この美徳という仮面をかぶった悪魔である。美徳という仮面をかぶった悪魔は、本人は美徳の人と思い込んでいることが多い。

 行動特性と性格特性が違うという認識が欠如しているために様々な間違いが起きている。

 愛に基づく厳しい教育が疎かにされる。体罰という名の下に禁止される。志の高さと、「〝べき〞の暴君」が混同される。

 愛情からの厳しさと、憎しみからの厳しさが混同される。

 厳しいという行動特性が同じために、性格特性の違いが無視される。

 その結果、「悟り世代」という驚くべき誤解が生じる。単なる精神活動の不活発さを「悟り」と称する人まで現れる。要するに怠け者で、人の物をとることだけを考えている人まで「悟り」と誤解する。

 道徳的衝動が、無視される。we-feeling も無視される。

 

 これが現代の閉塞感の根源である。

 社会的感情からの努力は心の安定をもたらすが、劣等感からの努力は、より深刻な不幸をもたらす。愛情からの努力は心の安定をもたらすが、劣等感からの努力は、さらに大きな不幸をもたらす。

 

「心理的健康な努力」と「神経症的努力」

 社会的成功をして、私的生活が破綻している人の社会的成功は劣等性の過剰補償であることが多い。努力はしている。でも社会的感情がない。

 励ましあって生きる仲間意識がない。

 劣等性が劣等感を生み、過剰補償をする。社会的にはうまくいって、それが社会的成功になる。

 その過程には強迫的名声追求があった。

 

「心理的健康な努力(healthy strivings)と神経症的努力(neurotic drives for glory)の違い *9」がある。

 努力する前に、自分が今している努力が「心理的健康な努力」か、「神経症的努力」かを理解することが先決である。

 

 心理的健康な努力は「その人固有の、持ち前の、生得の(inherent in human beings)」「好み、傾向(a propensity)」から生まれる。

 神経症的努力との違いは「自発的努力か強迫的努力か *10」である。

 強迫性とは、その努力は辛いけれども止められない。危険を避けるための努力だから。

 限界を受け入れているか、受け入れていないか。

 結果に焦点を当てているか、過程に焦点を当てているかである。

 

「隠された真の動機」を見つけだせ

 悩みは、「自分が何に動かされているか?」が分かれば解決に向かう。

「これがトラブルの原因」と分かれば、悩みは解決に向かう。

 

 我執の愛とは。

「この服着て行きなさい」という。子どもは別の服を着ていきたい、それが安い服。

 母親らしさを一方的に押しつけて、自分のペースに相手を巻き込む。相手を自分の中に巻き込んでしまい、相手の個性を認めない。つまり現実否認。でも本人は愛と思い込んでいる。

「相手が傷つくことに鈍感。なぜなら自分を守ることに注意がいっているから」、しかもそれに気がついていない。

 憎しみが愛情の仮面をかぶって登場する。本人は愛情と思い込んでいる。報われない努力になる。

 自己不在のお人よしが恋をする。気に入られようと人間関係にひたすら打ち込んだあげくに、もてあそばれただけで、疲労と失意の中で生きている意味が分からなくなる。

 悩んでいる人には嘘がある。

 神経症的非利己主義は欠乏動機からの努力であり、報われない努力の生き方である。

 

 ワーカホリックは不安からの活動で自己拡張型解決でしかない。

 内面のアパシーと不安のどちらも強くその人を動かしている。

 そういう人は他者を喜ばすことばかり考えて自己不在。

 不安から努力し、頑張って消耗する、燃え尽きる。真実から目を背けるための活動であり依存症的傾向の努力である。

 自己実現のエネルギーでなく自己断念のエネルギーである。

 自己実現の感情を失う自己喪失。これが自己疎外。

 社会的事件を起こしたときには、「あのいい子が」と驚くが、忍耐力も、気力も普通の子どもほどない。

 普通の子どもより不安である。それだけのことである。

 今その人が思っているよりも、もっとたくさん生きる道はある。不安な人は「これしか生きる道はない」と思うから苦しいのである。「こちらの道もあった」と気がつけば幸せになる。

 

 自己消滅型解決の努力には二種類ある。

 一つは不安からの迎合である。

 次は、自我価値の剥奪を恐れて現実否認する。その結果、自分の潜在的能力の開発ができないで、神経症になっていく。

 それらは小さな独りよがりの努力である。報われない努力である。

「辛い! 苦しい!」と言っている人は生きる道は一つしかないと思っている。「生きる道は一つしかないと思ってしまう」のは、今生きている道を自分で選んでいないからである。だから苦しい。

 

*8 Karen Horney, Our Inner Conflicts, W.W.NORTON & COMPANY, 1946. PP.291-292

*9 Karen Horney, Neurosis and Human Growth, W.W.NORTON & COMPANY, 1950. p.37

*10 ibid, p.38

<第3回に続く>