突然のクビ宣告…。「野球部の監督には戻らない」と誓った私に奇跡が起きるまで/「一生懸命」の教え方

スポーツ・科学

公開日:2021/8/24

我慢強さがない、打たれ弱い、すぐにあきらめる…。そんな「今どきの子ども」との向き合い方に、悩んでいませんか?

甲子園の常連校・日大三高を率いる名将・小倉全由(まさよし)監督が実践するのは、選手に「熱く」「一生懸命」を説く指導。その根底にあるのは、「人を育てる」ことでした。
個を活かし、メンバーの心をひとつにまとめあげ、強力な集団に変えていく方法とは――?すべての指導者に知ってほしい、本当のリーダーのあり方を教えます。

※本作品は小倉全由著の書籍『「一生懸命」の教え方 日大三高・小倉流「人を伸ばす」シンプルなルール』から一部抜粋・編集しました

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「一生懸命」の教え方
『「一生懸命」の教え方 日大三高・小倉流「人を伸ばす」シンプルなルール』(小倉全由/日本実業出版社)

一生懸命やっていれば、人は必ず見てくれている

 一生懸命、物事に取り組んでいれば、必ず見てくれる人がいる。そして、その人たちは自分にとっての強力な味方になってくれる。だからこそ「手を抜かずに全力で取り組むこと」は大切なのです。

 

野球から離れても、常に全力で取り組んだ

 私は関東一高時代、野球部の監督をクビになったことがあります。88年夏の東東京予選が終わった直後に、監督をクビになったのです。前年の春のセンバツでは準優勝をしたものの、その年の夏の東東京予選ではベスト8で修徳に5対12、翌年の夏の東東京予選もベスト8で帝京に1対8で敗れて甲子園に届かなかったことが理由でした。

 私自身、監督に就任してから4年目の夏(1985年)に甲子園に出場し、その2年後のセンバツではPL学園に敗れたものの、準優勝という結果を出すことができたので、なぜクビを切られたのかがわかりませんでした。

 このとき私は、「もう二度と野球を教えることはしない」と誓ったのと同時に、「一教師として、生徒たちの指導にあたろう」と考えていました。野球部の監督は辞めたものの、教職免許を取っているので生徒たちを教えることができたからです。このとき支えになってくれたのが同僚の先生方でした。私が野球部の監督を辞めた経緯は、みなさん知っていました。けれども、私はそのことを愚痴ることなく、生徒の将来の幸せだけを考えるようにしていたのです。

 このときの私はいろいろな先生と話をしました。もちろん、授業のことや生徒のことが話の中心でしたが、私より年下の若い先生たちとも朝、夕を問わず話し込むことも幾度となくありました。

 監督をクビになってから2年目、私は当時の理事長から、「小倉君には学年主任になってもらう」と厳命されました。

 1年目はクラス担任だけですんだのですが、こうなると立場的にも学年全員の先生方をまとめていかなければいけません。このときばかりは学年主任の任務を遂行しようと尽力しました。ときには私より年上の人生経験豊富な先生と、学校全体のことまで話し込むこともありました。

 この間、私は「野球部の監督時代に、甲子園で準優勝したんだ」というプライドはすべて捨てました。甲子園の準優勝監督の肩書きは過去のものであって、今はグラウンドを離れた立場にいますから、学年主任として慌ただしい毎日を過ごし、生徒たちに全力で向き合っていたのです。

 そんな姿を多くの先生が見ていたからでしょうか。気づけばあちらこちらから「小倉先生、小倉先生」と声をかけられることが多くなっていきました。

 生徒の進路相談をもちかけられたかと思えば、ときにはくだらないバカ話で盛り上がる。放課後、工業科の先生から「小倉先生、コーヒーが入ったからちょっと飲んでいかない?」などと言われると、30分くらいは井戸端会議をしながら休憩するなんてこともありました。

 野球部の監督をクビになったときに、「もう二度と野球部の監督には戻らない」と頑なに誓っていたのですが、今振り返ってもこのとき過ごした時間は、そうした苦い思いを忘れさせてくれるほど充実していたように思います。

 

 そして、92年12月に野球部の監督への復帰が決まり、94年の夏に4年ぶりの甲子園出場を果たしたときには、先生方がまるで自分のことのように喜んでくれました。

「小倉先生、おめでとう。あっ、監督のほうがいいんでしたっけ?」

「いやいや、どちらでもいいですよ。そんなことで気をつかわないでください」

 甲子園出場が決まった直後、そんな会話をしながら、また多くの先生方と話し込んでいたのです。

 

全力でやった私に、先生方が言ってくれたこと

 さらにその2年後、私にとって人生の分かれ道が訪れました。私の母校である日大三高から監督就任のオファーが届いたのです。ただ、私はそれをすぐには決断できずにいました。関東一高の先生方は、私がなぜ三高を辞めたのか、その経緯を知っていますし、私もどうしたらいいのか、なかなか結論が出せずにいたのです。

 この相談をある先生にしたときには、こんなことを言われました。

「小倉先生は関東一高の監督として実績を残されたのですから、ここに残って監督を続けたほうがいいですよ。また昔のような苦労をするなんて、私は我慢なりませんよ」

 また、ほかの先生はこう言ってくれました。

「先生の母校が低迷しているんです。助けてあげるつもりで、一旗揚げてみるのもいいんじゃないでしょうか」

 どちらの意見も私にとってはありがたい話でした。一方は関東一高に残って監督をやったほうがいい、もう一方は三高に行って監督になったほうがいいという、まったく両極端な話なのですが、2つの話に共通しているのは、「私のためを思って言ってくれていたこと」でした。そのことを私自身が身に染みて理解していましたから、限られた時間のなか、本気で悩み抜きました。

 そうして考え抜いて最終的に出した結論は、「三高に行って監督になる」ことでした。私は先生方全員にそのことを伝えました。すると、こう言ってくださったのです。

「小倉先生はここで監督から離れていたとき、本当に一生懸命やってくださいましたよね。あのときの気持ちがあれば、どこに行っても大丈夫ですよ」

 この言葉は本当にありがたかったですし、関東一高に来てよかったなと心の底から思ったのでした。

 

 今でも考えることがあります。もし関東一高時代に、野球部の監督から離れたときに、いい加減な気持ちで教師を務めていたらどうなっていたのか?

 おそらく、誰も私という存在を認めてくれなかったどころか、親身になって相談にも乗ってくれなかったと思います。また、自分より年上、年下などは関係なく、私はどの先生とも同じように接していました。そうした振る舞いもほかの先生が見てくれていましたから、「小倉先生なら三高に行ってもしっかりやるだろう」と思ってくれたのかもしれません。

 人間、生きていればいいこともあれば悪いこともあります。けれども、どんな状況においても昔の栄光など引きずらず、目の前のことを一生懸命、全力で取り組むことで、人は高く評価をしてくれる―。私はそう信じているのです。

小倉流ルール 全力で取り組むことで自ずと評価はついてくる

<第7回に続く>

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