【「これまで」と「これから」】宮藤官九郎と阿部サダヲ/松尾スズキ『人生の謎について』

文芸・カルチャー

公開日:2021/11/2

 よくできた物語だなと思う。自分が出ておいてなんだが、『いだてん』の放送を毎週心待ちにしている。誰よりファンだ、と言ってしまいたい。プロローグが終わり、大友良英さん作曲の勇壮なオープニングタイトルが始まる瞬間の高揚感、あれは、素晴らしい。それが、俳優と過去のオリンピック映像と絵をダイナミックにCGで掛け合わせたタイトルバックに重なると、ああ、たまらん、となる。私は、橘家圓喬という落語家の役で出ているのだが、私が出演する回はおおむね主演である阿部サダヲが平泳ぎでこちらに迫ってくる映像の横に名前が出る。NHKさんの遊び心なんだろうが、この瞬間、大人計画主宰である私、うちから出たスター脚本家である宮藤官九郎、うちの看板俳優でついに大河ドラマの主役となった阿部サダヲの「これまで」と「これから」というものが、感傷、と言われればそれまでだが、どうしても凄い風速でもって頭をよぎり、「ここまで来ちまったか」と、腕組みせざるをえないのである。言うに言えない感慨に包まれる。

 二人と二十代の頃に出会った。みな、食えてなかった。みな、女の人のお世話になっていた。そして、大人計画全員に言えることだが、みんな、なんとなく笹塚近辺をうろうろしていた。

 まず、池津祥子と顔田顔彦が住み、その後、女と別れて下北沢を出た私が住み、後から笹塚の居酒屋でバイトしていた宮藤も近くに越して来た。阿部は千葉に住んでいたが、家が遠いので、しょっちゅう顔田の家に泊まりこんでいた。顔田君の家は、完全に阿部たちのたまり場になっていて、彼がいないときは、鍵を壊してでも中に入って皆で寝たりしていたのだから、ひどいものである。劇団で作っていた『山と警告』という小雑誌の編集を手伝ってくれていたTという女性も近くに住んでいた。『山と警告』というタイトルは、私が印刷会社で働いていた時、版下を作っていた『山と溪谷』という雑誌があって、そこからいただいた。

 とにかく時間だけはやたらとあったので、私と宮藤とTは他の劇団員も巻き込んで、やたらとこの一銭にもならない雑誌作りに没頭していた。非常にアングラ臭のする雑誌だったが、私も宮藤も二カ月に一回のペースで発行していた『山と警告』で、間違いなく文章の腕を磨いたのである。まだ文筆家としてデビューしてない日大を中退したばかりの宮藤はともかく、私ですらまだ『Hanako』で、一本連載があるだけだったのだ。

 そのうち、遊び仲間だった日本テレビのディレクターの大塚さんからドラマを書かないか?という打診があった。二十八歳のときである。原案は大塚さんで『演歌なアイツは夜ごと不条理な夢を見る』というアバンギャルドなタイトルまで決まっていた。竹中直人さん主役で、まだ劇団にいた温水洋一もメインの役で出したいという。タイトルを聞いただけで、「やりますやります!」である。

 私に頼まれた仕事だが、ぜひ、宮藤も一緒に書かせてくださいとお願いした。その頃は、なにをするにしても宮藤と一緒だったから自然な流れだったし、これを機会に宮藤もプロとしてデビューさせたいという思いもあったのだろう。それから、宮藤は私のアパートの六畳間に通いつめ、私がアイデアを口頭で伝え、宮藤がそれを原稿用紙に書き写すという日々が始まり、三カ月で四本の台本ができあがった。そして、撮影が始まる前に温水が腰のヘルニアを悪化させ番組を降板し、大塚さんとの話し合いの末、大人計画に入ってまだ初舞台を踏んだばかりの阿部が出演することになったのだ。

 視聴率は空ぶりだったし、それ以来私にドラマの脚本はほとんど来なくなったが、「他の誰にあれが書ける?」という誇りはいまだに持っている。

 それから、二十数年。宮藤が脚本を書いた『いだてん』のオープニングで白髪頭で泳ぐ阿部の横に私の名前が出るとき、「ああ、この瞬間の原点はあそこだったよなあ」と、うっすら思い出すのだ。『いだてん』の裏に流れる物語はあの頃もう始まっていた。それが言うに言えない感慨を生むのかもしれない。

 私達のこれからの物語は、どうなって行くのだろう。『いだてん』はよくできた物語だが、こっちばかりはさっぱり予想がつかない。わかっているのは、まだまったく途中なのだということだけなのだ。

 

 人生って、なんなんだ。

<次回は【生きちゃってどうすんだ】>

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