遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。 旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」#108〈後編〉

文芸・カルチャー

公開日:2024/4/18

※本記事は連載小説です。

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 あれは、何であったか。
 炎の灯りで、宝物群を照らして歩くうちに、ふいに、青壺は見つけていた。
 それを──
 見たとたんに、それが捜していたものだということがわかった。
「これだ」
 青壺は、宝の山の中から、左手でそれを摑み、持ちあげた。
 それは、ひとつの、古い胡燈ランプだった。
 どうやら銅でできているらしい、の国の胡燈だった。
 そうか、金や宝石、玉などの宝の山の中にあって、こんな、古びた水差しに似たかたちの胡燈が、どうしてこんなところに置かれているのかと、それがちょっと気になったのだ。
 手に持つと、中に、液体らしきものが、まだほんの少し残っているらしい。胡燈の中に入っているのなら、それは油だろう。
 ならば、これをひとまずここへ置いて、あとは、人魚の脂を捜しにゆけばよい。
 もしも見つからなければ、ここへもどってきて、身につけているきぬを小さく裂いて、その布をって芯を作り、胡燈に挿して、灯りとなせばいい。
 青壺は、胡燈を床に置き、歩き出した。
 しかし、人魚の脂らしきものは、どこにもない。
 松明も、もう、燃える部分が少なくなってきた。
 ならば、今のうちに、食料を調達してこよう。
 ここまで羊の屍体を運んでおかねばならない。
 いや、一頭を、柩のところまで担いでくるのはたいへんだから、場合によっては、羊の屍体の傍に、居場所を定めた方がいいかもしれない。
 しかし、それは、今決めなくともよいことだ。
 羊の肉を、少し切り取って、まずはここまで持ち帰ることだ。
 まずは、一頭も必要がない。
 次は、水だ。
 自分は、かつて、始皇帝の近くにいたので、この陵の事情は、他の者より多少は心得ている。
 自分が、不死のことで始皇帝をだましている頃、すでにこの陵の工事は始まっていて、その時に仕込んでいた知識も多くある。
 この陵を掘り下げるのに、さんせん穿うがっているはずだ。
 三泉──つまり、三つの水脈を貫いて掘り、地下にこの宮殿を造ったのだ。
 銅の板を使って、地下の水がこの死の宮殿に浸入しないようにしているはずだが、どこからか水が入り込み、溜っている場所もあるかもしれない。
 水と羊の肉、そして、火があれば、自分はもう少し生きることができるだろう。
 羨道に向かいながら、青壺はそんなことを考えている。
 もう少し生きる──それが、あと一カ月か二カ月かはわからないが、その間にやることがないわけではない。もしかしたら、この陵墓には、がいせんもんとは別の出入口があるかもしれない。
 臆病な始皇帝が、この地下深い陵墓で、もし偶然にも何かの加減で目覚めてしまったらどうしたらよいのか──それを考えないはずがない。その時のために、始皇帝は、ひそかに抜け穴を造らせたのではないか。
 おそらくそうだ。
 ならば、それを捜し出せば、自分は外へ出ることができるかもしれない。
 そんな、細い糸のような、淡い夢を抱いて、青壺は歩を進めている。
 羊のところまでやってきた。
 しばらく前に見た風景がそこにある。
 何本もの矢に射抜かれた、羊の屍体。
 部位をどこにするかは、すでに決めていた。
 腹だ。
 腹の肉をあばらごと、二本も、持ってゆけばいい。
 そのついでに、肋からいだ肉をそのあたりに置いて乾燥させる。乾燥した肉は腐りにくいからだ。しかし、問題はこの墓室内で、腐る前に肉をどこまで乾燥させることができるかだ。
 いや、考えるよりは、それをやるしかない。
 脂身も、うまくやれば、灯りに使えるかもしれない。
 青壺は、松明を消えぬように立て、羊の脚を持って、屍体の位置を変えた。灯りの方に、腹がむくようにしたのだ。
 のどから腹まで、まず、切り下げて、腹を開かねばならないからだ。
 幸いなことに、まだ、小刀は帯に差したものが、一本ある。
 小刀をさやから抜こうとしたその時、青壺は気がついた。
 羊の死骸の下に、何かがあることを。
 これまでわからなかったのだが、羊を動かしたので、その一部が見えたのだ。
 剣のつかの一部だ。
 青みをおびた石があしらってある柄頭──見覚えがある。
 まさか──
 青壺は、羊の死骸を大きく動かした。
 その下から、ざんけんが出てきた。

    (五)

 なるほど、そういうことか。
 生焼けの肉を、骨から歯ではぎとりながら、青壺は考えている。
 短くなった、松明の灯にかざして焼いた肉だ。
 火が、もう少し小さくなったら、胡燈に火を移さねばならない。
 人魚の脂は見つからなかったので、肉をあぶる前に、着ている衣の布を裂いて、芯を作り、それを胡燈に挿しておいた。念のために、火を点けてみたら、灯が点った。胡燈の中に残っていた油が、きちんと働いたのだ。
 それを確認してから火を消して、肉を炙ることにしたのである。
 今、その肉を食べているのだ。
 食べながら、破山剣のことを考えている。
 その破山剣は、今は、青壺の背の鞘の中に収まっている。
 あれは、項羽がやったのだ。
 項羽は、自分には能力の失せた破山剣に用はないと考えたのだろう。
 始めから、そのつもりだったのだ。
 破山剣をもらってゆく──
 そう言って、去ってゆけば、このおれが、
“待て、本当のことを言う”
 項羽を呼び止めて、破山剣をよみがえらせる方法を口にするかと考えたのだろう。
 そのために、項羽は、破山剣をわざと持ってゆくと見せたのだ。
 しかし、自分は、項羽を呼び止めなかった。
 ならば、今はただの剣である破山剣は必要ないと、あそこに置いていったのであろう。
 ただ、置いてゆくのも芸がないので、羊の死骸の下に入れたのだ。
 青壺が、この墓室で生きようとするなら、必ずや、この羊の肉をとりにくるであろうとそう考えて、あそこに置いたのだ。
 生きようとするなら、必ず見つかる場所に──
 しかし、見つかったからといって、ここから脱出できるかどうかは別の話だ。
 脱出できる可能性は、ふたつしか思いあたらない。
 なんとか破山剣の力を蘇えらせるか、あるかどうかわからない秘密の抜け穴か抜け道を捜しあてることだ。
 他にない。
 ほぼ絶望的な状況と言えた。

(つづく)