「福島は生き恥を晒されてる感じがする」福島の“その後”を追った写真集『かさぶた』中筋純さんインタビュー【前編】

社会

更新日:2020/9/1

かさぶた 福島 The Silent Views』(中筋純/東邦出版)

 2011年3月11日に起こった東日本大震災から今年で5年。復興が進む場所もあるが、今もあの日で時が止まってしまった場所がある。福島第一原子力発電所の事故によって汚染した地域だ。その福島へ何度も通い、数多くの震災後の風景を写真に収めてきた写真家の中筋純さんが、節目となる今年、写真集『かさぶた』(中筋純/東邦出版)を出版した。人の立ち入りが制限され、無人の街になった一見静かな風景は、多くのことを語りかけてくる。

福島の“その後”を追いかけ、時間軸で表現





桜の名所である「夜ノ森」の四季。咲き誇る桜の木の間に、かなりの高線量であることを示す毒々しいピンク色の看板があることにハッとさせられる。この場所からすぐ先は立ち入り禁止区域だ。(2014年 富岡町)

 雑誌の企画で写真を担当したことから、廃墟や産業遺構の撮影を始めたという中筋さん。数年後には日本国内の主要な場所をほとんど撮り尽くしてしまい、海外の遺構へ行ってみようと思った時、ふと思い浮かんだ場所が1986年に原発事故を起こしたチェルノブイリだったという。

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「原発事故がどうとかっていうのは最初は正直言ってなくて、純粋に産業遺産という捉え方で撮影に行ったんです。でもビルの屋上からチェルノブイリの街を見渡したときに、これはただの廃墟じゃない、と。人が住んでいた団地が廃れたところって軍艦島などがありますけど、それとは意味が違う。ここは放射能のために“住めなくしてしまった”土地で、人々が暮らしていた都市が確実に消えてしまったんです」

 しかし人が誰も住まない死の街であるはずのチェルノブイリを覆う、大きなポプラの木や様々な植物が生い茂る景色を「美しい」とも思ったそうだ。

「漫画の『AKIRA』や『北斗の拳』のような、もっとディストピア的な場所を想像してたんですけど、湧き上がる自然の中に文明の抜け殻が転がっていました。そこには『この先、我々はいったいどこへ行くんだろうか』ということを突きつけてくる、象徴的な空間が出来上がっていたんです。とにかく強烈過ぎた。これは当分追っかけていかないと、と思いましたね」

 2007年からチェルノブイリに通い始め、『廃墟チェルノブイリ』などの作品集を出版してきた中筋さんは2011年、それらを展示する写真展を企画していた。それは奇しくも震災直後となる4月10日からの開催だったが、もちろん会場を押さえた段階では日本で原発事故が起きるなどまったく考えもしなかったという。会場は新宿の高層ビル、頻発する余震に見まわれながらの開催となった。そこで中筋さんは福島の原発事故をどう写真にするか、ずっと考えていたという。

「ちょうどチェルノブイリ事故から25年で、その教訓を、という動きがいろんなところであったんですが、それをせせら笑うかのように地震が起きて、原発事故が起きた。呆然としましたよ。神様なんて信じてなかったけど、そのとき本当に初めて『神様っているのかな』と思いました。25年という節目の年だったのはたまたま、偶然なんだろうけど、背筋がゾッとしましたね。でも2011年の年末、野田総理が早々に原発事故の収束宣言をしたので、これは原発政策の転換はない、このままでは元に戻ってしまうと感じました。だったらチェルノブイリと同じく、福島の“その後”を追っかけて、時間の軸で表現してみようと思ったんです」


緑が侵食するガソリンスタンド。かなりの高線量地域のため、車を停め外へ出て撮影する中筋さんを見つけたパトロール中の警察官が慌てて飛んできたが、この光景を見て絶句していたそうだ。(2015年9月 双葉町)

いつでも故郷に帰れることが、当たり前ではなくなってしまった

 福島県浜通りの原発周辺の街の撮影を始めた中筋さんは、ありのままの福島の姿を伝えることに腐心しているという。

「いろんな運動って、反対する1割の人と賛成する1割の人が全く噛み合わない意見を言い合って、残りの8割の人は無関心なんです。だからこの8割の人が、ふっと入り込めるような表現にしたかった。それには難しい政治や放射能に関する話ではなくて、もっと卑近で、生活に密着したようなメッセージっていうのを福島はいっぱい発信しているから、それをわかりやすく汲みとって出せれば、僕が感じたように、自分の故郷を福島にオーバーラップして考えてもらえるようになるんじゃないかなと思ったんです」

 自分が生まれ育った、慣れ親しんだ街が“住めなくしてしまった”土地になってしまったら…撮影をしていると、中筋さんは自分の故郷である和歌山県の風景が重なってくるという。

「子どもの頃にウロウロしてた商店街の姿とかが、福島の街にかぶさってくるんですよ。これは日本人が共有して、記憶に止めておいて欲しい、きっちり目を見開いて見ておかないといけないこと。僕は現地が発してることをフレームに収めさせてもらって、それをそのまんま出してる。もうここには誰もいなくて、沈黙しちゃってるけど、この土地には言いたいことがいっぱいあるんだろうな、といつも感じるんですよ」


JR富岡駅前通りのアスファルトを覆い尽くさんとする緑は、両側の家々を飲み込んでいく勢いだ。しかし津波にあった駅舎は2015年に解体、この街並も解体が進んでいるという。(2013年10月 富岡町)

 2016年2月から約1年かけて全国を巡回する予定の、福島とチェルノブイリの写真が並べて展示される「流転 福島&チェルノブイリ写真展」。銀座ニコンサロンで写真展をスタートした際、福島の人が来場すると緊張したという。

「被災地の方が見に来てくれると嬉しいんですけど、すごく緊張するんですよ。『私は浪江の出なんです』って記帳するときに言ってくれた女性がいて、その時に昔の懐かしい話をしてくれました。その方は結婚して30年近く東京に住んでいて、そんなに頻繁に福島に帰らなかったそうなんです。いつでも帰れると思ってた、でもそれが当たり前じゃないってことに気がつきました、と話していました。僕ね、あれから5年経って、福島は生き恥を晒されてる感じがするんです。街からしてみたら、それまで丹精込めて作ってた畑や庭が草でボーボーになって、小奇麗にしていた商店街のお店もボロボロになってきて、除染した土を詰め込んだ真っ黒いフレコンバッグが積み上げられて。もしこれが自分の立場だったら、と思うと本当に見てられない。でもこれを見せることで、福島の事故が敷衍できると思うんです」


太平洋に面した砂浜が広がっていた仏浜には、大量のフレコンバッグが積み上げられている。袋には「しゃへい」と書かれているが、その耐用年数は5年という。(2015年3月 富岡町)

【後編は11時公開予定】

取材・文=成田全(ナリタタモツ)