実は「字が汚い人」ほど頭がいいってホント?

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更新日:2021/1/28

日本の国語教育では「悪筆は恥」と刷り込まれる

 私が小学生の頃(ええ昭和ですが何か)、親や他校の大人が見学にやってくるようなイベントが近づくと、先生たちは生徒に習字や作文を書かせ、せっせと壁に掲示したものです。日本の初等教育では、何かを書いたり描いたり作ったりするというのはどうしても「他者と並べられて品評される」ための行為なのですね。ですから、何を書き描いているかという中身よりも、見た目が綺麗で大人の目を引き感心させられるかどうかが、まず子どもたちの関心や動機になりがちだったように思います。特に女子。

 特に国語教育では、過去も現在も漢字の書き取りにおいて字のバランスや”トメ・ハネ・ハライ”の細部の徹底に膨大な時間と労力を割いています。「書く」に「道」がついて書道なる伝統アートが存在するように、「字は精神を表す≒美文字は美意識と教養の高さ≒悪筆は恥じるべきこと」という感覚が、きわめて根深く刷り込まれているのが、日本の国語教育なわけです。

 今もその潮流は健在で、日本では「字を綺麗にかけること」が学校での評価のわりと大きな部分を占めているような気が。「字が綺麗で、机の周りもロッカーも綺麗で、給食も綺麗に食べられて、挨拶がきちんとできる子は先生のお気に入りの”いい子”」、いまだにそんな感じですよね。それは自分のセールスポイントを他者に向けて可視化する能力、つまりプレゼン能力に長けている子どもです。

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 逆に、発想とエネルギーの塊のような、「字はぐちゃぐちゃで身の回りは散らかしっぱなし、給食中も考え事で頭がいっぱいなので食物を口に運ぶこと以外気にしない、歩いている時も頭がいっぱいなので周りが見えず挨拶なんておざなり」、そんな子は自分の能力が先生たちにわかりやすく可視化されていないので、「勉強はできても、だらしないのが欠点」などと、場合によっては面倒な問題児扱いされてしまうことも。

 中身でなくルックス、本質でなく外形が評価されるとは、実に形式主義的だなーとも思うのですが、まぁ日本はそういうアプローチが好きな文化なので、そうやって刷り込まれ、小綺麗にまとまるように教育される傾向があることは否定できません。でも小綺麗にまとまるとは、つまり”小さくまとまる”、小粒だ……と言えなくもないですよね。