川西賢志郎『はじまりと おわりと はじまりと―まだ見ぬままになった弟子へ―』/テレビで必要なもの

文芸・カルチャー

更新日:2025/3/25

お笑いコンビ“和牛”のツッコミとして時代を駆け抜けた男・川西賢志郎。

2024年の“和牛”解散後に初めて語る、漫才のこと、これからのこと。「M-1グランプリ」で準優勝するまでの道のり、人気絶頂で多忙な中でも年間500ステージをこなす芸との向き合い方、そして次に目指す笑いとは――。

漫才師としての区切りを自らつけるためのエッセイ『はじまりと おわりと はじまりと ―まだ見ぬままになった弟子へ―』から一部抜粋してお届けします。

※本記事は書籍『はじまりと おわりと はじまりと ―まだ見ぬままになった弟子へ―』(川西賢志郎/KADOKAWA、2025年2月15日発売)から一部抜粋・編集しました

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『はじまりと おわりと はじまりと
―まだ見ぬままになった弟子へ―』
(川西賢志郎/KADOKAWA)

⑥テレビで必要なもの

※書籍の収録順とは一部異なります

 舞台で必要なものがあるように、テレビにおいて必要なものもあると思っている。そして、『舞台で必要となるものがテレビではとくに求められない』ケースがあることと同様に、

『テレビで必要となるものが舞台では役に立たない』ケースもあると考えている。

 まず、テレビで必要となる割合が多いものとは何か。例えば、最近よく『ロケに行ったVTRをスタジオで観ている人間が拾うことでようやく完成となる形式』の番組を見かける。漫才師とは、本来その場を自分達だけで成立させることが求められており、それができてこそ実力があると認められる。でもこういった形式の番組では、あまりにしっかりとロケの現場でやり取りを成立させすぎると、スタジオでやる仕事が減ってしまい、すべての役割が機能しきらないまま不完全燃焼に終わった感じになってしまうことがある。理由は、その番組の構造自体が変わることになるから。ロケの撮影が終わった時点では、まだ番組として7割ほど出来上がったといったところだろう。そこからVTRをスタジオで流して、ああだこうだと出演者に拾ってもらう。要するに、最後の仕上げをスタジオがやることでようやく完成となるわけだ。だから、現場で完成させすぎることが必要ではなくなってくる。
 むしろこういった番組において、現場で求められるもの。それは、粗っぽく大胆な振る舞い。これがあることで、VTRに“隙”が生まれる。この“隙”というのは、テレビを主戦場としてやっていく上でとても重要になってくる。テレビの世界で愛されているタレントを頭に思い浮かべて欲しい。必ずといっていいほどこれがあるはず。隙があれば、周囲からのわかりやすい標的となり、テレビにおける団体芸の輪を広げていける要因となるからだ。そこに理解が及ぶと、次第にロケに行く側の人間も、最初からそれを計算に入れてあえて現場では雑に大味に振る舞うことを意識するようになったりもする。それがその芸人にとって自然体であったり、目指すべき場所に繫がる振る舞いであるならいい。ただそうでなかった場合、自分の基本スタイルからブレたことをして、本来の良さを失っている状態に陥ることになる。これはもう“自ら舞台感覚を放棄した”とも言える。
 大味に振る舞うことの旨みを体が覚え始めると、大切な舞台におけるパフォーマンスにも侵食してくるようになる。舞台という環境にいるのは、自分とお客さんのみ。あくまで完全に単体で笑いを成立させなくてはならない。そんな場所で粗っぽく大味に振る舞ったところで、お金を払って観に来たお客さんが笑うことはないし、ましてや成立させてくれるスタジオがどこかにあるわけじゃない。すなわち、漫才師としての舞台においては役に立たない振る舞いであるし、むしろ毒になる。

 舞台で成果をあげてテレビの世界へ本格的に移行していった芸人たちが、久しぶりに舞台に立つとパフォーマンスが落ちていることがある。これは僕があくまで劇場という場所にずっと拠点をおいて活動していた経験があるからこそ、わかることだ。単純に舞台に立つ回数が減ったからとか、近年はネタを練り上げていないからとか、そんな理由もあるかもしれない。だけど、一番はそうじゃないと思っている。テレビと舞台で求められることの“違い”をしっかり認識して、そこに確固たる線引きができているかどうかだと思う。当人が意識してうまく使い分けているつもりでも、徐々にその線引きは曖昧になってしまうもの。それによって“舞台感覚”が損なわれて“隙”ができていく。隙は愛される要素になるが、芸の綻びを生む要素にもなる。舞台における大切なものは、身につけるのには時間がかかるが損なうのはあっという間だ。自分も初めは迷いながら使い分けを意識してやってみたこともあったが「不器用な自分がこのまま続けていくとまずいな」という感覚を持つようになってからはやめた。中には、二つの場所において使い分けが徹底できており、素晴らしいパフォーマンスを見せている芸人もいる。だから、一概にではない。そしてテレビのすべてが今述べたようなことに繫がるわけでもない。ただ、二つの場所で求められるものには“違い”があって、そこを深く理解して実行に移すこと。それができなければ、知らぬ間に二つの場所のどちらでもない“狭間の中途半端な場所”に立ってしまっている、なんてことはあると思う。

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<第7回に続く>

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