伊藤朱里×ラランド・ニシダ 親やきょうだいに対する絶望のその先が、覚悟を持って書かれている『※個人の感想です』『ただ君に幸あらんことを』刊行記念対談

文芸・カルチャー

更新日:2025/2/17

■親に対する絶望の、その先

伊藤朱里(以下、伊藤):勘違いだったら申し訳ないのですが、今までニシダさんは、小説の中であまりわかりやすい悪役を作らないようにされていましたか?

ニシダ:ああ、そうですね。そんなに明確には。

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伊藤:わかりやすい悪役が一人いるとそこにヘイトを向けて主人公に同情すればいいから、読者も読みやすいし、ストーリーも進むんです。でも、そういうことを敢えてやらないようにしていらっしゃるのかなって、なんとなく感じただけなんですけど……。

ニシダ:いや、でも実際そうですね。「ただ君に幸あらんことを」は明確にお母さんが悪い奴だし、自分の感情移入具合も今までより強い気がします。

伊藤:お母さんが悪役なんだけど、お母さんがひどいっていうだけを言いたいわけじゃないとわかるところがとても良いと思いました。もしかしたらそこに着地する感想を持たれる方もいらっしゃるかもしれないんですけど、作者が言いたいのはそういうことじゃないと私は感じました。どういう存在のために祈るか、この書き手は覚悟を決めたんだと。

 私は「国民的未亡人」もすごく好きで、こちらは「ここすごくいいな」とメモを取りながら読んでいったんですけど、「ただ君に幸あらんことを」の方はもうダーッと一気に読んで、そのまま今日来たっていう感じ。シンプルに描写の良さもありますが、加えて「こういう形で初めて自我を出されたんだな、作者の方は」と感銘を受けました。

ニシダ:ありがとうございます。

伊藤:中盤、バランス感覚に優れた従姉妹とかが来てくれて、一瞬風が通って希望が見いだせそうな感じがするけど、でも別にこの人たちがなにかの役に立つわけじゃないんだという、もう一段階深い絶望に落ちるところなんかもすごくリアルで。結局、一番近くにいる人がこうだったら勝てないんだよなって。

ニシダ:自分でも嫌だなと思いながら書いてました。

伊藤:明確にこの母親が悪い、すべての元凶だってわかっているのに、立ち向かえないしどうしようもない、と力が抜けていく感じ、立ち向かう気力もどんどん失われていく感じが、読者にまで伝わってくるので。ここまで書かないと書けない祈りを書くという、ニシダさんの覚悟みたいなものを感じました。

――祈りというのは、最後に主人公がとる選択ですよね。ここだけ切り取ると突飛な行動のようでいて、原稿を読んでいくと自然に行き着く結末になっている。それはやはり、ニシダさんが絶望の過程を妥協せずに書かれているからではないかと思います。

伊藤:それこそSNSでこの結末だけを切り取って出されたら、読んでいない人に「兄はちゃんと働いて稼いで妹を支援すべきだ」と言われるかもしれない。でも小説って正論からこぼれ落ちた部分を書くものだから、彼はこういうふうにしかできなかったし、これでいいし、ここまでやってくれないと救われないんだっていう説得力があります。だからSNSとかであらすじだけ切り取ってとやかく言う人がいたら、私は絶対許さない(笑)。

■借り物の言葉で攻撃しないで

ニシダ:『※個人の感想です』でも、芹沢さん(主人公かなめのYouTubeファンでもある編集者)の行動が、それ自体になんの悪意もないんですけど一番しんどかったですね。主人公を助けようというか、肩を持ちたいなと思っての行動なんだろうけど、それが本人にとって良いとは限らないじゃないですか。あそこはね……きついなと思いながら読んでました。

伊藤:自分もアイドルファンをやっていて思うのが、アイドルはファンを選べないということです。すごく残酷だし怖いだろうなって。でも「ファンは推しを映す鏡だから」みたいなことをみんな平気で言うじゃないですか。そんなわけないだろって。

ニシダ:そんなわけないですね。

伊藤:自分たちの行為の責任を推しに課すなよと。自分たちは自由に感情を発散しながら、本人たちが身動きできない正論で推しを追い詰めていく風潮に違和感を覚えていたんです。

 自分の言葉ではない言葉を、しかも自分の好きな人の言葉を借りてきて、誰かを攻撃するために使うのはやめた方がいい。私が今回の小説で言いたかったことは、基本的にその一点なのかもしれません。

ニシダ:タレント側も、何か表明したいとき、社会に対して言いたいと思うときがあるけど、口にした瞬間からもう、自分の本意とは別の受け取られ方で広がっていったりして、じゃあもう洞窟にこもって暮らしたいなと思ったりもする。でもやっぱりなんか言いたい、表明したいって思ってしまうんですよね。

伊藤:それこそ芸能人の方は、テレビでパッと言ったこと、しかも編集が入った一言をさらに切り取られることがありますよね。傍目で見ていても「いやいや、自分の武器で戦えや」と思う。でも私がここで怒っていることも、本人たちからしたら余計なお世話かもしれない。そう考えるとただ批判するだけでなく、自分も「感情を発散するために人を利用する側」に下りていって書かなきゃダメだっていう気持ちがあります。

ニシダ:自分も結構、アイドル好きなんですよ。Berryz工房とか、AKB48とか、そういう世代なんですけど。学生時代からずっと見ていて今が一番、想像しうる限り一番地獄の状態になっている感じがあります。SNSの普及のせいなのか、言ったことに対して本意じゃない切り取られ方で、本人とは無関係なところで膨らんでいって、その膨らんだやつがまた全然別のものとして本人に戻ってくる感じとか。

伊藤:その言葉を放ったのはお前だ、という意味で責任が戻ってくるということですよね。私はタレントではありませんが、立場が違うから自分には関係ないという感覚でいいのかという疑問はずっと抱いています。

 私に対しては親切な人が、テレビに出ているような有名人のことを悪し様に言うのを見てゾッとする、みたいなことが時々あるんです。知らない人への態度って、いつか巡り巡って私に向かってくるかもしれないのに、そう思わせるかもしれないという感覚すらないんだって。相手が遠くにいる関係ない人だったら何をしてもいいという姿勢が、私の今生きているこの場所のこともどんどん生きづらくしているんじゃないかなという感覚があります。

ニシダ:芸能をやっているという時点で明確になんか不利……不利っていうと変なんですけど、明らかに生きづらいという気持ちがあります。基本的にあることないこと言われる世界で、それはたぶん昔からなんでしょうけど、今ほど全員が発信できて、それがこんなに力を持つ時代ではなかったんじゃないかと。

伊藤:活字になると、ある程度説得力があるように見えてしまう。実際にはそんなことはないのに、それだけで真っ当な回路を経た意見のように読めてしまうというのもありますよね。

ニシダ:確かに。

伊藤:みんなが武器を握っている、しかもすごく簡単に製造できる武器を握っているというその危険性を、もっと自覚しなきゃいけない。

■悪口に対する感受性

伊藤:ニシダさんは、エゴサとかしますか?

ニシダ:します。めちゃくちゃします。

伊藤:大変じゃないですか? 得られるものより傷つくことのほうが多そうだなと。

ニシダ:そうですね。得られるものはそんなにないし、褒められているということに対しては感受性が乏しくなって、悪口に対する感受性だけ育ってる気がします。

伊藤:私が一番気持ち悪く感じるのが、的外れな悪口を気持ち良さそうに言う人。痛いところを突かれたなという批判は「痛いけど、まあ(仕方ない)」って思えるんですけど、私はすごく頑張って心臓を差し出しているのに、髪の毛の部分だけシャンッて切り取って、それで首を取ったみたいに満足そうに去っていかれると「いや待て、こんなにわかりやすく心臓を出してる私の気持ちは⁉」と思う。だったら心臓を刺してくれた方がいいのに、わかったような顔をして髪の毛を一束持って、これがこいつだよって。SNSの普及によって、よりそういう悪口が増えた気がします。

ニシダ:SNSであげたら、どの階層のどんな意見もわりと支持されるというか。似たもの同士で集まれるから、的外れな意見でも「確かにそう」みたいな反応が集まっちゃいますよね。

――伊藤さんの小説の中に出てくる悪口も、オリジナリティのなさが絶妙にリアルですよね。すごく解像度高いんだけど……

ニシダ:どっかからパクッてきた感じの悪口。

伊藤:でもオリジナルってなんぞや、みたいな問題もありますね。

ニシダ:絶対何かの集積ではありますしね。

伊藤:本当のオリジナルなんて、もうないかもしれない。でもだからといって、他人の言葉や人生の一部を都合よく借りてきて、その借り元を損ねるようなことはあってはならない。その思いが一番出たのが4作目の「人の整形にとやかく言う奴ら」なんですけど。

 誰かの言葉を本人が望まない形で切り取るという行為の敬意のなさに、なんで気づかないんだろうって怒りが湧いてしまうんです。その相手が自分の好きな人であればなおさら。

ニシダ:自分は芸人だからというのもあると思うんですけど、痛覚が麻痺してくるところは正直あって。たぶん、1話目の主人公も、YouTubeやってる間に痛覚が麻痺してしまったんだろうなっていう感じがする。でも痛くないだけで、失血死はある。それは絶対来るから、みたいな心の折れ方をしているなっていうのがすごく想像できて。

伊藤:私が当事者だったらこんなに怒れない気がします。他人事だから怒れるし不安がれるというのもあって。あと、自分もやりかねないからこそ恐ろしさがわかるというか。

ニシダ:SNSって脳みそとの間にフィルターなしで書いちゃえるところがあるじゃないですか。

伊藤:世界と直結しているんですよね。

ニシダ:Xとかも元々「思ったことなんでも書いていいよ」で始まってるSNSだと思うんですけど、それにしてもやっぱりもうちょっとフィルターつけないと。

伊藤:コロナ禍のあたりから、みんな全体的にストレスがたまっていて、怒っている感じがします。そして、その鬱屈を全部SNSに向ける人が多くなった。私が学生のころは、みんな今ほど揚げ足をとられたりツッコまれたりすることを恐れていなくて、単に「起きた」とか「今日は2限だけ」とか、今なら「だから何?」と言ってくる人がいそうなことをもっと普通に発信していた気がします。でも、だからって「昔は良かった」というのも違うから、じゃあどうしたらいいんだという迷いや葛藤を、結論が出ないまま「どうしたらいいんでしょうね?」と提示したのがこの小説なのかもしれません。

■家族関係への諦め

伊藤:ニシダさんは『ただ君に幸あらんことを』をどんな気持ちで書かれていたんでしょう。

ニシダ:自分にも妹がいて、家族構成が小説とほぼ同じだし、大学受験も中学受験もしているとか、境遇には近いところがあって。別に妹が勉強ができないわけではないんですが。生活の中で、自分がどれだけ妹を大事に思ってたとしても、親との関係性ってどうしても切れないだろうなっていうか。

 自分は親があんまり好きじゃないんですよ、昔から。だから妹に、親より自分を頼ってほしいなと思ったとしても、やっぱり親との関係性ってどうしても切れなくて。

 そういう意味で、妹とかきょうだいに対しての一種の諦めがあるというか、どうやっても親代わりにはなれないだろうし、それはきょうだいじゃなくたって友達でも、本気で頼ってほしいと思っても、家族を自分という存在で代替はできないなっていう、人間関係に対しての諦めみたいなところはある気がしますね。諦めが強かったかもしれない。

伊藤:でも、その先があるんですよね。諦めて終わりじゃない。どうしてもこの母親とはわかり合えないし、妹を救ってあげることはできないんだって明らかな絶望の先をなんとか目指そうとしている。絶望して終わりじゃない、というのを書くのはすごく労力がいることで、絶望で終わったらたぶん楽なんですよ。楽というか、つらいけど、そこで終われる。それでも、ニシダさんは諦めの先へ行こうとなさっている。

「国民的未亡人」も、夫の秘密が明かされることによって主人公のアイデンティティが揺らぐ展開かなと思ったら、もう一段階深いところに行っていて。彼女は自分なりの絶望と向き合わされるけど、「私が間違っていた」で終わりじゃないと思う。絶望して、これまで夫とちゃんと向き合ってこなかった報いを受けたという印象じゃないんですよ。読み終わった後、ちゃんと悲しいし、ちゃんと寂しい。この未亡人を「お前はこういう人間だからな」と突き放すのではなく、その先に寄り添ってあげる姿勢が、すごくすごくいいなって。このまま絶望に突き落としてオチをつけても小説としての完成度は高いのに、ニシダさんはもう一歩先を登場人物と一緒に目指そうとする。そう思うと、作家としてとても誠実だし、ニシダさんの小説が必要な人はいっぱいいるんだろうなと感じました。

ニシダ:すごく嬉しいです。ありがとうございます。

取材・文/編集部、撮影/後藤利江

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