「こんなんもう手の運動」大学受験で頭を使う問題はもうなかった。高校で出会った本物の天才/学歴狂の詩①
公開日:2025/5/22
『学歴狂の詩』(佐川恭一/集英社)第1回【全3回】
滋賀県の片隅で神童ともてはやされた佐川恭一氏は、勘違いしたまま高学歴の道を歩んできた。その道程で出会ったのは偏差値や大学名に異様な執念を持つ人間たち。東大文一原理主義者、数学ブンブン丸、極限坊主、非リア王とはいったい何者なのか? 京都大学文学部卒業のエリートから転落した奇才が放つ、笑いと狂気の学歴ノンフィクション。集英社のウェブメディア「よみタイ」で人気を博した『学歴狂の詩』をお届けします。

「こんなんもう手の運動やん」とつぶやいた〈天才〉濱慎平
前章で書いた通り、私は自分を世界最高レベルの頭脳の持ち主だと思い込んだまま、自信満々で某R高校に進学した。
私がはじめに気にしていたのは、他に東大寺学園合格者がどれぐらいいるかということだった。私は「ベテランち」なる灘→東大理三YouTuberの動画をしばしば観ているが、ベテランち先生によれば、東大寺は「真面目やけど灘行けへんかった奴」程度のイメージらしい。だが、クソ田舎のアホだった私は東大寺というのがビカビカに輝く勲章だと考えていた。東大寺合格者なら、世界最高の頭脳を持つ私には勝てないにしても、スパーリングの相手ぐらいにはなるだろう……私はマジのアホだったので、本気でそう考えながら教室の椅子にどかんと座っていた。だが、はじめの中間テストで私の目算が完全に誤っていたことをいきなり思い知らされることになる。某R高校の特進上位コースは2クラスで合計104人、その中で私の順位は39位だった。ベスト5には間違いなく入ると思っていた私は震えた。他にも中学では負け知らずっぽい人間が集まっていたので、おそらくかなりの者が結果に震えていただろう。ここから私は自分の能力の凡庸さを認め、戦略を細かく練り直していくことになる。
これまでノリにノッていた人間がたった一回の試験で自分の敗北を受け容れることなんてできるのか、という疑問も当然あるだろう。しかし、私たちは比較的容易に自分の現実的な立ち位置を認めることができた。なぜなら、マジモンの天才がクラスにいたからである。名は仮に濱慎平としておこう。結果から言えば、彼は一発目の中間テストでトップに立って以降、一度もその座を譲ることなく3年間を駆け抜けた。それぞれ9教科だったか10教科だったか忘れたが、中間も期末もほとんどすべての回において「1教科少なくても1位」という圧勝ぶりだった。高一の文系理系がまだ分かれていない時期には物理や化学でも圧倒的な力を見せ、後の国公立医学部合格者までも軽くひねっていたのである。
私がはっきり覚えているのは、物理のテストの難易度がヤバすぎた時のことだ。ハナから文系と決めていた私だったが、一応『橋元の物理をはじめからていねいに』という本をちゃんとやる程度には対策していた物理で、手も足も出ず30点を取ってしまった。その時理系バリバリの物理大好き男が60点で全体の2位となったのだが、その時濱は、なんと95点で1位だったのである。私はその時、こいつにはもう何をしても勝てない、と白旗を上げた。
濱は数学でも大学受験レベルで使えるのかわからない独自の解法を編み出すので、ノートを見せてもらってもわからないことが多かった。一度、濱が黒板に書いた解法を数学教師がまったく理解できないことがあり、教師が「すまん濱、これ説明してくれるか」と頼み込んだことがある。濱本人の解説によってぼちぼちそれを理解できる生徒が現れ始め、私たちの間ではだんだん「なるほど」という空気が広がっていったが、教師はなんと、その授業が終わる頃にもまだ理解できず、「もうダメだ、先生ほんとにわかんないぞ。もうみなさんの方が賢いのかもな……」と寂しそうにつぶやいて教室を出て行った。
恐ろしいのは、濱本人は物理も数学も「どちらかと言えば苦手」という認識だったことである。濱が本当に得意なのは日本史と世界史だった。濱は重度の歴史オタクで、彼にとって歴史を勉強することは一般人がドラクエをやるレベルの息抜きだった。物理や数学をやって疲れると、日本史や世界史をやって「休む」のである。つまり、意図せずしてすべての活動時間を受験勉強にあてることができたのだ。濱は誰もが認める東大理三レベルの人間だったわけだが、本人は京大文学部で歴史を研究したいと言っていた。