「目指すは東大文一」と言い張る大物受験生。ノートに「apple」と書き続ける勉強法に驚愕する/学歴狂の詩②

文芸・カルチャー

公開日:2025/5/23

 そうして私たちは永森を内心恐れながらも馬鹿にする日々を過ごした。永森は休み時間によく自習しており、家でも夜中まで勉強していたようで、授業中に寝ていることも多く先生に怒られまくっていた。その姿からは、完全に高校の勉強を無視していることが読み取れた。私は、もしかすると永森はこの高校の指導方針に見切りをつけ、自分で開発した受験術に則って東大を攻略しようとしているのではないか、と疑いもしたのだった。

 ある日、永森は授業中に寝すぎてあまりに怒られるので、眠気覚ましドリンクの「眠眠打破」を買ってきて教室で飲んでいた。その直後、私たちはまたも驚嘆させられた。なんと、永森は眠眠打破の空瓶とキャップを机の上に置いたまま、授業中に大いびきをかいて眠り始めたのである。これには私たちも笑うしかなかった。しかし、眠眠打破をみんなの前で豪快に飲み干し、その空瓶を隠そうともせずその十分後に寝るなんて恥ずかしい真似が、一体他の誰にできるだろうか? この時もまた、私は永森という人間の放つ得体のしれない大物感に恐れを抱いたのだった。

 しかしながら、永森の成績の方は一向にゴレンジャイだった。あまりにも成績がヤバいため、永森のオカンが学校にやってきて「特進から一般にコースを変えてほしい」と頼み込みに来たこともあったらしい(ちなみに却下された)。そのまま高三の終盤になってもゴレンジャイだったので、私たちもさすがにもうあきらめるだろうと思っていたが、永森は力のこもった目で「東大文一」と言い続けた。その時点では、私たちもさすがにコイツはもうないな、と思っていた。模試の成績を見ると、東大はもちろん関関同立も、回によっては産近甲龍もE判定で、いくらなんでもそこから数か月で追い上げに成功することはありえない。

 しかしその頃、永森の実態を近くで見ていない隣のクラスの東大文一原理主義者・内山が、「永森はまだ東大文一と言ってるのか?」と私に探りを入れてきたことがあった。私はその時、やはり永森の大物感というのは驚異的なレベルに達しているな、と感心したのだった。

 結局、永森の東大の夢を打ち砕いたのはセンター試験だった。センターが五割ちょいとかだったので、普通に足切りを食らったのだ。私も大爆死したセンター試験だったが、さすがに足切りにかかるようなレベルの死に方ではなかった。みんな「ボーダー」が何点なのか、という話をしている中で、「足切り」という言葉を発していたのはおそらくクラスで永森一人だけだったと思う。

 結果として永森は浪人し、私も浪人することになった。永森は河合塾で私は駿台だったのだが、なぜかこの頃から私と永森は急速に仲良くなっていった。きっかけはよくわからない。永森は河合塾に入るにあたって国公立コースに入れてくれとオカンに頼み込んだが、オカンに「夢見んのもええかげんにせえ!」と怒られて私立文系コースにブチこまれていた。しかし永森はその頃、私と同じ京大法学部を狙うと決めていたので、河合塾の講義はほとんど受けず、自習室で自力で京大対策をしていた。しかし相変わらずE判定を連発するので、私は永森に何度も何度も「さすがに京大は無理やと思う」と諭したが、永森の目はやはりらんらんと輝いていた。

 第一回の京大模試が行われる頃、永森から私に連絡があった。「俺は駿台の京大実戦を受けるつもりだが、これを受けていることがオカンに知られるとまずいので、結果の送付先をお前の住所にしてもいいか?」ということだった。模試のためのお金は小遣いを貯めてすでに用意してあるという。私はまあ、一度受けてみればあきらめもつくだろうと了承して住所を伝えた。その結果、やはり永森は圧倒的E判定を叩き出した。その京大実戦は私史上最高の順位で、優秀成績者の冊子にも名前が載ったので、いい機会だと思い永森と解答用紙を並べて比較してみようと誘った。永森がどれだけヤバい点数を取っても全然あきらめないので、私も若干腹が立っていて、さすがに私の最高傑作の解答用紙を見せれば降参するだろうと思ったのだ。しかし、永森は私の解答を見てもビクともせず、「お、数学の大問1は俺の勝ちやな」と言った。京大文系数学は大問が5題、一題30点の150点満点だが、そのとき私は大問1で細かいミスをして25点、永森は満点の30点だった(そして、永森は他の問題で1点も取っておらず、合計点もそのまま30点だった)。いや、この問題に関してはそうやけど、合否は総合点で……と私が言っても、永森は「大問1に熱中するあまり時間が足りなくなったが、スピードを上げれば十分いける」などと言い出す始末だった。

 結局、再び永森の夢を打ち砕くことができたのはまたもセンター試験だった。永森は京大に思い切り足切りを食らい、京大界隈から強制退場させられてしまったのだ。そう思うと、センター試験の足切りというのは将棋の奨励会の年齢制限みたいなもので(?)、残酷なようでいて優しく正しい道に戻してくれる制度でもあるのだ。

 その後、永森は龍谷大学と同志社大学を受けたが、産近甲龍も基本D判定で、関関同立もほぼE判定という中で、かなり絶望的なチョイスだと私たちは思っていた。永森の第一志望は同志社大学経済学部だった。しかしこの同志社経済というのは、京大志望者が練習のためにクソほど集まる場でもあった。現役時代は背水の陣で京大法学部に突撃した私も、浪人時には普通に同志社を受けに行った。会場には見覚えのある顔がたくさんあった。そこはそれぞれ異なる受験刑務所から出てきた囚人たちが「久しぶりやのう!」とシャバで挨拶をかわすような、一種異様な社交場になっていた。中にはなんと、「東大理一を受けるが、高校時代に仲違いしたままの◯◯君が京大の滑り止めで同志社経済を受けると聞いたので、東大受験前に関係を清算しにきた」という理由で受けに来た者もいた(マジで意味不明なのだが、私はこの二人を仲直りさせる仲立ち人を務めるはめになり、同志社受験が終わった後3人でラーメンを食べに行った。なおその同級生は無事理一に合格し、もう一方も京大経済に合格した)。

 東大京大狙いの猛者たちが一堂に会する様を見て、さすがの永森も「なんでお前らがおんねん!!」と怒っていた。私は本当にすごい集まり方をしていたので思わず笑ってしまったが、同志社を第一志望とする永森にしてみればたまったものではなかっただろう。

 だが、永森はやはり真の大物だった。その後、D判定を連発して絶望視されていた龍谷大学法学部を見事撃破したのだ。永森のサムアップ写メ付きのニュースはたちまち広がり、私たちを元気づけた。D判定からでも逆転できるという現実は、成績があまり伸びていなかった京大志望者を照らす希望の光となったのだ。そしてさらに驚くべきことが起きた。永森は私たち京大志望者による凶悪な妨害行為があったにもかかわらず、というかそもそもE判定しか取ったことがなかったにもかかわらず、同志社大学経済学部をマジで撃破したのである。このニュースは私たちを激しい熱狂の渦に巻き込んだ。

 永森はこうして「大物」の名に恥じない大逆転を──当初の目標よりは低い位置でだが──華麗に決め、同志社大学経済学部に進学した。私は大学時代、この永森と一緒に京都駅前のベローチェというカフェでよくダベっていた。私は滋賀の家に帰るのに京都駅を使っていたし、鬼アルバイター永森のバイト先も京都駅ビル内にあったので、とにかく時間が合えばベローチェで一緒に過ごした。京大でできた友人にも永森を紹介し、みんなで飲みに行ったりもした。あの頃は非常にアホなことばかり話して貴重な時間を無駄にしたような気もするが、あれ以上に楽しく有意義な時間の過ごし方はなかったような気もする。いずれにせよ、もう私の人生から非常にアホなことばかり話せる場所は失われた。若い読者のみなさんに一応言っておくが、アホなことは話せるうちに話せるだけ話しておくべきである。

 そうしてだらだらと楽しいだけの時間を過ごして就職活動を迎えた私は、京大で仲の良かった友人がマスコミや院進など自分と違う道に踏み出し始めたため、いつのまにか盟友となっていた永森とともに金融業界を中心とした就活を戦っていくことになるのだった。

<第3回に続く>

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