ガンダムマニアがセンター試験で大爆死。携帯に浪人のつらさを綴った詩集の名は「刻の涙」/学歴狂の詩③
公開日:2025/5/24
私が大学生活一年目をダラダラと楽しんでいる間、柴原は引き続き河合塾にて激しい闘争を続けていた。正直、私は柴原が現役時に達していたラインや一浪時の伸び幅からして、神大医学部は無理ではないか、結局二浪しても滋賀医大になるのではないかと思っていた。おそらく私以外もそう思っていたはずである。しかし翌年、柴原はなんと凄まじい末脚を見せて神大医学部をノックアウトし、周囲の予想を見事に裏切ってくれたのである。
その後、柴原は一度京大のNF(学園祭)に来てくれたことがある。そこで二浪時の話を聞くと、やはりかなり精神的につらかったらしく、携帯に日々の苦しみを詩のように書き綴っていたという。そのフォルダのタイトルは「刻の涙」。私には意味がわからなかったが、どうやらガンオタの柴原が一番好きなガンダムシリーズ、Zガンダム(の次回予告?)で使われた言葉だったようである。別にフォルダの中身を覗いても良さそうな雰囲気だったが、何だかとてつもなく深い闇に誘われそうな気がしてやめておいた。おそらく柴原は、詩人となり多浪の苦悩を純粋芸術へと昇華することによって、ぎりぎりのところで現実世界に踏みとどまっていたのだ。
一文字もその内容を読んではいないが、私はそれが原口統三『二十歳のエチュード』に匹敵するすばらしい詩集・哲学書になっていたのではないかと妄想している(『二十歳のエチュード』の著者は残念ながら若くして自死してしまった)。あそこにどんな言葉が刻み込まれていたのかずっと気になってはいるのだが、もし今「読んでもいいぞ」と目の前にモノを差し出されても、いまだに畏れを抱いて二の足を踏んでしまうだろう。多浪というのは今でこそポップな存在、面白い存在として認められる向きもあるが、SNSのような手段のない我々の孤独な時代には、それをポップ化する方法も非常に限られており、面白い存在として広く認識されることは今よりはるかに難しかった。裏を返せば、おそらくそこには動画でもなくバズ狙いのSNSテキストでもなく、「詩」の生まれる豊かな土壌があったのである。
現在、柴原は外科医として活躍している。彼の妻もまた医者で、私ではほとんど土地も買えない都会に豪邸を建てて三人の子供を育てているようである。つまり社会的に見れば私とは比べものにならないほどの成功者になっているわけで、この年齢(アラフォー)になってくると、あの頃の一浪や二浪の差など何でもなかったのだなと思える。だが、それはあくまでも後から思えることだ。受験の悩みも恋愛の悩みも仕事の悩みも子育てを含む家庭生活の悩みも、あらゆる悩みが「当事者」にとっては命に関わる悩みなのであり、それが小さく見えるのは「当事者」ではないから、あるいはなくなったからなのだ。当時の私や柴原にとって浪人時代というものがいかに死と接近した時代だったか、そして結果が不合格だったとしたら現在の自分がどうなっていたかということを考えると、やはり簡単に「浪人してよかった」「失敗から得られたものもある」などと言うことはできない。そう心から思えるのは、おそらく合格者だけだ。浪人するかどうかを決められるのは──家庭環境の問題も大きいが──最終的にはあくまでも本人だけである。そこにはつねに最悪の可能性がつきまとっていることを忘れてはならない。
だが、私は何度人生をやり直し、何度高三で京都大学に落ちたとしても、必ず親に土下座して浪人する道を選ぶだろう。私がはっきり言えるのはそれだけである。
こんな文脈で使われることは著者の本意ではないだろうが、最後に『二十歳のエチュード』の一節を引いて終わることとしたい。
<続きは本書でお楽しみください>「報いはない」
悪魔はどこまで行っても、この言葉を囁くのだ。
「救いはない」
僕の胸はたえずこの声にしめつけられる。
「頌歌はない」
寂寥は至る所で僕を待ち構えている。
「勝利はない」
だからと言って、僕が敗北したと、だれが言えよう──(原口統三『二十歳のエチュード』)