家族の崩壊や自殺未遂から私が救われた話。美しい花と不気味な妖しさに引き込まれる、躁うつ病×俳句マンガ【書評】

マンガ

公開日:2025/4/25

『躁うつでもなんとか生きてます。~俳句と私が転がりながら歩むまで~』(高松霞:原作、桜田洋:作画/KADOKAWA)

 その週末は高松さんを含めた俳句仲間と飲む約束をしていた。しかし水曜日、彼女は自殺未遂をした。SNSを見て異変に気付いた友人たちの呼びかけが広がり、住所を知っていた私が警察に通報した。警察は間に合ったが安否以上のことは教えてくれず、今どこにいるかも家族以外には言えないということだった。翌日、病院に搬送された彼女から短い連絡があり、友人たちと彼女の無事を喜び合った。

 そんな出来事を経て出版された 『躁うつでもなんとか生きてます。~俳句と私が転がりながら歩むまで~』(高松霞:原作、桜田洋:作画/KADOKAWA)はライターで連句人の高松霞さんが、双極性障害を抱えながら生き延びてきた日々に現代の俳句を添えたコミックエッセイだ。

 私は俳人の松本てふこさんと共に本作に登場する俳句の選定を手伝った。三人で句を並べながらあれこれ話すのは楽しかったし、そんな雰囲気も影響したのか、重いエピソードであっても悲壮感だけで終わらないのが本書の大きな特長だと思う。そのことについて選んだ句に触れながら話してみたい。

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靴擦れが自己主張する夏の果て 高松霞

 作者自身の俳句である。夏の果て(なつのはて)は夏の終わりを惜しむ情感あふれる季語だ。合わない靴の痛みは自身の生きづらさに重なると同時に「自己主張する」という言葉は他人然としており、内なる他者が自分に向けて痛みを主張しているようにも見える。しかしこの痛みは、夏の終わりまで歩いてきた証であることも彼女は分かっている。その絶妙に混ざり合った認識把握の確かさがエッセイ全体に通底しており、ポップで時に孤絶感のある作画とあいまって、壮絶な物語に意外なほどの軽やかな読み味をもたらしている。

人間を絞れば水や藤の花 鳥居真里子

 房状に垂れる藤の花は美しい春の季語で、しかしここでは不気味な妖しさが滲み「人間を絞れば水」の恐ろしく単純な把握が印象深い俳句である。この句の置かれた第1話では、高松さんの生い立ちと家族の崩壊が描かれている。もちろんこの句は家族の崩壊を描いたものではないが、彼女の感じていたであろう無常観の周波数にぴたりと一致しているように思える。

 俳句は寡黙で、過剰に干渉することもない。ただ歩けばついてくる月のようにそっとそこにある。双極症の波の中で生きる彼女からも、私たちからも同じ俳句が見える。そんな僅かなつながりが、ぎりぎりのところで彼女を繋ぎ止めているのかもしれない。そんな中書かれたこの本は、色々なつらさの中でもどうにか自分や周りを大切にして生きていきたい人にぜひ読まれて欲しいと思う。

文=西川火尖

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